Über eine elementare Frage der Mannigfaltigkeitslehre
わずか4ページ。数学史上おそらく最も費用対効果の高い論文のひとつです。カントールは1874年に「実数全体は自然数と一対一に対応しない」ことをすでに証明していましたが、その証明は区間の入れ子と実数の連続性に深く依存する、込み入ったものでした。この1891年の小論で彼は、それを数の性質をいっさい使わずにやり直します。使うのは「m と w、互いに排除しあう二つの記号」だけ。ここで初めて姿を現すのが、いわゆる対角線論法です。
そして論文はそこで終わりません。後半でカントールは、同じ原理が一般化できることを示します——いかなる集合にも、それより大きい集合が存在する。無限に「最大」はない。この一手が、20世紀の数学基礎論と、そこから派生したラッセルのパラドクス、ゲーデルの不完全性定理、チューリングの停止問題を、すべて同じ論法の子孫として生み出しました。朝に読む一本として、これほど短くて遠くまで届くものはそう多くありません。
ただし最後の二段落だけは、数学の論文としては異様な調子を帯びます。カントールはそこで、無限の大きさは「現実在的に無限大な基数」であり、有限の数とまったく同じ実在性をそなえている、と宣言する。当時これは論争的な主張でした。アリストテレス以来、無限は「際限なく進みうる」可能性としてのみ許され、完結した全体としては認められてこなかったからです。カントールはこの禁制を破ったかどで、クロネッカーをはじめとする同時代人から激しい攻撃を受けていました。あの結びは、数学的結論というより、その論争への応答として読むべきものです。
この論文は数学の予備知識をほとんど要求しません。必要なのは次の五つの考え方だけで、どれも高校数学の範囲の言葉で説明できます。順に組み立てていきます。
羊の群れと石ころの山があるとします。どちらが多いか。ふつうは両方を数えて比べますが、数えなくても比べる方法があります。羊を一匹小屋から出すたびに石を一つ脇へどける。羊が尽きたときに石も尽きていれば、両者は同じ数です。一対一に対応がつくかどうかだけを見ればよい。数を経由しなくてよいのです。
カントールはこの素朴な操作を、そのまま無限にも適用します。二つの集まりのあいだに、もれなく・ダブりなく相手を割り当てられるなら、その二つは「同じ大きさ」と呼ぶ。彼の用語ではこれを濃度(Mächtigkeit)が等しいと言います。
自然数 1, 2, 3, 4, … と、偶数 2, 4, 6, 8, … を考えます。偶数は自然数の一部にすぎないので、常識的には自然数のほうが多いはずです。ところが n ↦ 2n という割り当て——1には2、2には4、3には6……——は、もれもダブりもない完全な一対一対応です。したがって定義上、両者は「同じ大きさ」になってしまう。
これはガリレオのパラドクスとして古くから知られ、無限を数として扱ってはならない理由として繰り返し引かれてきました。全体が部分と等しくなるなら、その「数」は数ではない、と。カントールの決断は逆向きでした。彼はこれをパラドクスとしてではなく、無限の定義そのものとして引き受けます。「自分自身の真部分と一対一対応がつくもの、それが無限である」。禁止すべき異常ではなく、そこから始めるべき出発点だと見なしたわけです。
数列 a1, a2, a3, … という高校数学の記法を思い出してください。数列を書くとは、要するに各項に1番、2番、3番……と番号を振ることです。ですから次の三つは、言い方が違うだけの同じ事柄になります。
① 自然数全体と一対一対応がつく
② 1番、2番、3番……と番号を振り尽くせる
③ E1, E2, E3, … という数列(=一列の名簿)の形に書ける
カントールが「数列の形にもたらしえない(sich nicht in die Reihenform bringen läßt)」と書くとき、それは「どんなふうに番号を振ろうとしても振り尽くせない」=「自然数より真に大きい」という意味です。この言い換えを頭に入れておけば、論文の主張はほとんど読めたようなものです。
なお、番号が振れるものは意外に多くあります。有理数(分数)全体は、無限に散らばっていて自然数よりはるかに多そうに見えますが、実は一列に並べられます。だからこそ「並べられないものが存在する」という主張には、証明が要るのです。
1874年にカントールが同じ定理を最初に証明したときは、実数の連続性や無理数の性質を使う、かなり込み入った議論でした。この1891年の論文の狙いは、数の性質をいっさい使わずに同じ結論に到達することです。そこで彼は、数の代わりにこんな道具を用意します。
m と w——ただの二つの記号です。意味はありません。表と裏、○と×、0と1と思っても構いません。この二記号を無限に並べたもの
E = (m, w, m, m, w, w, m, …)
を一つの「要素」と呼びます。コインを無限回投げた記録、と考えるのが直観的でしょう。そして考えられるあらゆる記録を集めたものが、集合 M です。
実質的にはこれは実数の小数展開(の二進法版)と同じものですが、「無理数とは何か」という厄介な問いを迂回できる点が眼目です。カントールが「無理数の考察に依存しない」と誇るのはそこです。
論文で唯一とっつきにくいのが aμ,ν という二重添字ですが、これは表(マス目)の座標にすぎません。μ が行番号、ν が列番号です。
いま、記録 E1, E2, E3, … を上から順に書き並べた表を想像してください。aμ,ν は「上から μ 番目の記録の、左から ν 番目の文字」を指します。a3,5 なら3番目の記録の5文字目。それだけです。
そして aν,ν——行番号と列番号が同じもの——は、この表の左上から右下へ走る対角線の上にある文字です。論法の名前は、ここから来ています。
論文の後半でカントールは、M を「0または1の値だけをとる関数 f(x) の全体」と定義します。これは現代の言い方では部分集合の全体(べき集合)のことです。
橋渡しはこうです。ある集まりの中から、いくつかを選んで部分集合をつくるとします。このとき「選んだものには1、選ばなかったものには0を割り当てる関数」を考えれば、部分集合と関数は完全に一対一に対応します。選び方を決めることと、0/1関数を決めることは、同じ一つの行為なのです(この関数を特性関数と呼びます)。
ですから論文後半の主張「M は L より大きい」は、こう読めます——どんな集合についても、その部分集合の全体は、もとの集合より真に大きい。これが今日いうカントールの定理で、この定理があるために無限の大きさには天井がなくなります。
道具がそろったので、前半の証明を先に絵にしておきます。証明したいのは「M の要素すべてに番号を振り尽くすことはできない」ことです。カントールの戦略は背理法——振り尽くせたと仮定して、その名簿に載っていないものを一つ作ってみせる——です。
注意すべきは、これが特定の名簿の不備を指摘しているのではないことです。「その並べ方は下手だ、もっとうまく並べればよい」という話ではありません。どんな名簿を持ってきても、その名簿自身を材料にして、そこに載っていないものを機械的に製造できる。逃れる術がない。だから「並べ方が存在しない」と結論できるのです。
網羅の主張に対して、その網羅性そのものを材料にして反例を作る——これが対角線論法の型です。この型はのちにラッセルのパラドクス(1901)、ゲーデルの不完全性定理(1931)、チューリングの停止問題(1936)へとそのまま受け継がれていきます。ゲーデルは「証明可能な命題の一覧」に対して、チューリングは「停止判定の一覧」に対して、まったく同じ手つきで対角線を引きました。それらはすべて、この4ページの子孫です。
| 記号・原語 | 読み/訳 | 意味 |
|---|---|---|
| Mannigfaltigkeit | 多様体 | 今日でいう集合。カントールはまだ Menge(集合)という語に統一しておらず、この揺れ自体が時代の刻印です。幾何学の「多様体」とは無関係。 |
| Mächtigkeit | 濃度 | 集合の「大きさ」。一対一対応がつくものどうしを同じ濃度とする。 |
| Inbegriff | 総体 | 「〜の全体」。ほぼ集合と同義で使われています。 |
| ν | ニュー | ギリシャ文字。番号(何文字目か)を表す。n の代わり。 |
| μ | ミュー | ギリシャ文字。こちらも番号(何番目の要素か)。 |
| Eν | 要素 | Element の頭文字。ν 番目の記録。 |
| aμ,ν | μ 番目の記録の ν 文字目。表の μ 行 ν 列。 | |
| m, w | 互いに排除しあう二つの記号。意味はなく、○と×でも0と1でもよい。 | |
| M, L | 集合の名前。後半では L が区間 [0,1]、M がその部分集合全体。 | |
| φ(x, z) | ファイ | 二つの変数をとる関数。z を一つ決めるごとに一つの関数 f(x) が定まる、という仕掛けに使われます。 |
| ≧ 0 かつ ≦ 1 | 今日の記法では 0 ≦ x ≦ 1、すなわち閉区間 [0,1]。 | |
| einfach unendliche Reihe | 単純無限列 | 1番、2番、3番…と番号のついた無限の並び。要するに数列。 |
In dem Aufsatze, betitelt: Über eine Eigenschaft des Inbegriffs aller reellen algebraischen Zahlen (Journ. Math. Bd. 77, S. 258), findet sich wohl zum ersten Male ein Beweis für den Satz, daß es unendliche Mannigfaltigkeiten gibt, die sich nicht gegenseitig eindeutig auf die Gesamtheit aller endlichen ganzen Zahlen 1, 2, 3, …, ν, … beziehen lassen, oder, wie ich mich auszudrücken pflege, die nicht die Mächtigkeit der Zahlenreihe 1, 2, 3, …, ν, … haben.
「すべての実代数的数の総体がもつ一性質について」と題した論文(『純粋・応用数学雑誌』第77巻258頁)において、おそらく初めて次の定理の証明が与えられた。すなわち、無限多様体のうちには、すべての有限整数 1, 2, 3, …, ν, … の全体と互いに一対一に対応づけることのできないものが存在する——あるいは私が用いる言い方をすれば、数列 1, 2, 3, …, ν, … の濃度をもたないものが存在する、という定理である。
Aus dem in § 2 Bewiesenen folgt nämlich ohne weiteres, daß beispielsweise die Gesamtheit aller reellen Zahlen eines beliebigen Intervalles (α … β) sich nicht in der Reihenform
ω1, ω2, …, ων, …darstellen läßt.
というのも、同論文の第2節で証明されたことから直ちに、たとえば任意の区間 (α … β) に属する実数の全体は、
ω1, ω2, …, ων, …という数列の形には表せないことが帰結するからである。
Es läßt sich aber von jenem Satze ein viel einfacherer Beweis liefern, der unabhängig von der Betrachtung der Irrationalzahlen ist.
しかしこの定理には、無理数についての考察にいっさい依存しない、はるかに単純な証明を与えることができる。
Sind nämlich m und w irgend zwei einander ausschließende Charaktere, so betrachten wir einen Inbegriff M von Elementen
E = (x1, x2, …, xν, …),welche von unendlich vielen Koordinaten x1, x2, …, xν, … abhängen, wo jede dieser Koordinaten entweder m oder w ist. M sei die Gesamtheit aller Elemente E.
いま m と w を、互いに排除しあう任意の二つの記号とする。そして次の形の要素
E = (x1, x2, …, xν, …)からなる総体 M を考える。ここで各要素は無限個の座標 x1, x2, …, xν, … に依存し、そのいずれの座標も m か w のどちらかである。M をこうした要素 E の全体とする。
Zu den Elementen von M gehören beispielsweise die folgenden drei:
EI = (m, m, m, m, …),M の要素には、たとえば次の三つが属する。
EI = (m, m, m, m, …),Ich behaupte nun, daß eine solche Mannigfaltigkeit M nicht die Mächtigkeit der Reihe 1, 2, …, ν, … hat.
Dies geht aus folgendem Satze hervor:
„Ist E1, E2, …, Eν, … irgendeine einfach unendliche Reihe von Elementen der Mannigfaltigkeit M, so gibt es stets ein Element E0 von M, welches mit keinem Eν übereinstimmt.“
さて私は、このような多様体 M が数列 1, 2, …, ν, … の濃度をもたない、と主張する。
これは次の定理から導かれる。
「E1, E2, …, Eν, … を、多様体 M の要素からなる任意の単純無限列とせよ。このとき M のうちには、いかなる Eν とも一致しない要素 E0 が必ず存在する。」
Zum Beweise sei
E1 = (a1,1, a1,2, …, a1,ν, …)Hier sind die aμ,ν in bestimmter Weise m oder w. Es werde nun eine Reihe b1, b2, … bν, … so definiert, daß bν auch nur gleich m oder w und von aν,ν verschieden sei.
Ist also aν,ν = m, so ist bν = w, und ist aν,ν = w, so ist bν = m.
証明のために、次のようにおく。
E1 = (a1,1, a1,2, …, a1,ν, …)ここで aμ,ν は、それぞれ定まった仕方で m または w である。いま数列 b1, b2, … bν, … を、bν もまた m か w のいずれかであり、かつ aν,ν とは異なる、というように定義する。
すなわち、aν,ν = m ならば bν = w とし、aν,ν = w ならば bν = m とするのである。
Betrachten wir alsdann das Element
E0 = (b1, b2, b3, …)von M, so sieht man ohne weiteres, daß die Gleichung
E0 = Eμfür keinen positiven ganzzahligen Wert von μ erfüllt sein kann, da sonst für das betreffende μ und für alle ganzzahligen Werte von ν
bν = aμ,ν,also auch im besonderen
bμ = aμ,μwäre, was durch die Definition von bν ausgeschlossen ist.
そこで M の要素
E0 = (b1, b2, b3, …)を考えれば、等式
E0 = Eμがいかなる正の整数値 μ についても成り立ちえないことは、直ちに見てとれる。なぜなら、もし成り立つとすれば、その μ について、そしてすべての整数値 ν について
bν = aμ,νが成り立ち、したがってとりわけ
bμ = aμ,μとなるはずだが、これは bν の定義によって排除されているからである。
Aus diesem Satze folgt unmittelbar, daß die Gesamtheit aller Elemente von M sich nicht in die Reihenform E1, E2, …, Eν, … bringen läßt, da wir sonst vor dem Widerspruch stehen würden, daß ein Ding E0 sowohl Element von M, wie auch nicht Element von M wäre.
この定理から直ちに、M のすべての要素の総体を E1, E2, …, Eν, … という数列の形にはもたらしえないことが従う。もしできるとすれば、ある一つのもの E0 が M の要素であると同時に M の要素でない、という矛盾に直面することになるからである。
Dieser Beweis erscheint nicht nur wegen seiner großen Einfachheit, sondern namentlich auch aus dem Grunde bemerkenswert, weil das darin befolgte Prinzip sich ohne weiteres auf den allgemeinen Satz ausdehnen läßt, daß die Mächtigkeiten wohldefinierter Mannigfaltigkeiten kein Maximum haben oder, was dasselbe ist, daß jeder gegebenen Mannigfaltigkeit L eine andere M an die Seite gestellt werden kann, welche von stärkerer Mächtigkeit ist als L.
この証明が注目に値すると思われるのは、単にその著しい単純さのゆえだけではない。とりわけ、ここで用いられた原理がそのまま次の一般定理へ拡張できるからである。すなわち、明確に定義された多様体の濃度には最大のものが存在しない——言い換えれば、与えられたいかなる多様体 L に対しても、L より強い濃度をもつ別の多様体 M をその傍らに置くことができる、という定理である。
Sei beispielsweise L ein Linearkontinuum, etwa der Inbegriff aller reellen Zahlgrößen z, welche ≧ 0 und ≦ 1 sind.
Man verstehe unter M den Inbegriff aller eindeutigen Funktionen f(x), welche nur die beiden Werte 0 oder 1 annehmen, während x alle reellen Werte durchläuft, die ≧ 0 und ≦ 1 sind.
たとえば L を線型連続体、すなわち 0 ≦ z ≦ 1 を満たすすべての実数量 z の総体としよう。
そして M を、x が 0 ≦ x ≦ 1 を満たすすべての実数値を走るとき、値として 0 または 1 の二つしかとらない一価関数 f(x) の総体と解することにする。
Daß M keine kleinere Mächtigkeit hat als L, folgt daraus, daß sich Teilmengen von M angeben lassen, welche dieselbe Mächtigkeit haben wie L, z. B. die Teilmenge, welche aus allen Funktionen von x besteht, die für einen einzigen Wert x0 von x den Wert 1, für alle übrigen Werte von x den Wert 0 haben.
M が L より小さい濃度をもたないことは、M の部分集合のうちに L と同じ濃度をもつものを挙げうることから従う。たとえば、x のただ一つの値 x0 においてのみ値 1 をとり、他のすべての x において値 0 をとる関数の全体からなる部分集合がそれである。
M hat aber auch nicht gleiche Mächtigkeit mit L, da sich sonst die Mannigfaltigkeit M in eindeutige Beziehung zu der Veränderlichen z bringen ließe und M in der Form einer eindeutigen Funktion von den beiden Veränderlichen x und z
φ(x, z)gedacht werden könnte, so daß durch jede Spezialisierung von z ein Element f(x) = φ(x, z) von M und auch umgekehrt jedes Element f(x) von M aus φ(x, z) durch eine einzige bestimmte Spezialisierung von z hervorginge. Dies führt aber zu einem Widerspruch. Denn versteht man unter g(x) diejenige eindeutige Funktion von x, welche nur die Werte 0 oder 1 annimmt und für jeden Wert von x von φ(x, x) verschieden ist, so ist einerseits g(x) ein Element von M, andererseits kann g(x) aus φ(x, z) durch keine Spezialisierung z = z0 hervorgehen, weil φ(z0, z0) von g(z0) verschieden ist.
しかし M は L と等しい濃度をもつのでもない。もしそうであれば、多様体 M を変数 z と一対一に対応づけることができ、M を二変数 x, z の一価関数
φ(x, z)の形で考えることができるはずだからである。つまり、z を特殊化するごとに M の一要素 f(x) = φ(x, z) が得られ、逆に M のいかなる要素 f(x) も、z のただ一つの定まった特殊化によって φ(x, z) から生じることになる。だがこれは矛盾に導く。というのも、g(x) を、値として 0 または 1 しかとらず、かつ x のあらゆる値について φ(x, x) とは異なるような一価関数と解するならば、一方で g(x) は M の要素であるが、他方 g(x) は φ(x, z) からいかなる特殊化 z = z0 によっても生じえない。なぜなら φ(z0, z0) は g(z0) とは異なるからである。
Ist somit die Mächtigkeit von M weder kleiner noch gleich derjenigen von L, so folgt daraus, daß sie größer ist als die Mächtigkeit von L.
したがって M の濃度が L の濃度より小さくもなく等しくもない以上、そこから M の濃度は L の濃度より大きいことが従う。
Ich habe bereits in den Grundlagen einer allgemeinen Mannigfaltigkeitslehre (Leipzig 1883; Math. Ann. Bd. 21) auf ganz anderem Wege gezeigt, daß die Mächtigkeiten kein Maximum haben; es wurde dort sogar bewiesen, daß der Inbegriff aller Mächtigkeiten, wenn wir letztere nach ihrer Größe geordnet denken, eine „wohlgeordnete Menge“ bildet, so daß in der Natur der Sache auf jede Mächtigkeit eine nächst größere folgt, aber auch auf jede ohne Ende aufsteigende Menge von Mächtigkeiten eine nächst größere folgt.
私はすでに『一般多様体論の基礎』(ライプツィヒ、1883年。『数学年報』第21巻)において、まったく別の道筋によって、濃度に最大のものが存在しないことを示しておいた。そこではさらに、すべての濃度の総体は、それらを大きさの順に並べて考えるならば「整列集合」をなすこと、したがって事柄の本性上、いかなる濃度にもその次に大きい濃度が続き、また際限なく上昇していく濃度のいかなる集合に対しても、その次に大きい濃度が続くことまでが証明されている。
Die „Mächtigkeiten“ repräsentieren die einzige und notwendige Verallgemeinerung der endlichen „Kardinalzahlen“; sie sind nichts anderes als die aktual-unendlich-großen Kardinalzahlen und haben dieselbe Realität und Bestimmtheit wie jene, nur daß die gesetzmäßigen Beziehungen unter ihnen, die auf sie bezügliche „Zahlentheorie“, eine wesentlich andere ist als im Gebiete der endlichen Zahlen.
「濃度」は、有限の「基数」の唯一かつ必然的な一般化を表すものである。それは現実在的に無限大な基数にほかならず、有限基数とまったく同じ実在性と規定性をそなえている。ただ異なるのは、濃度のあいだに成り立つ法則的な関係、すなわち濃度に関する「数論」が、有限数の領域におけるそれとは本質的に別のものである、という点だけである。
Die weitere Erschließung dieses Forschungsgebietes ist Aufgabe der Zukunft.
この研究領域のさらなる開拓は、未来の課題である。
この論文の証明そのものは、130年後の今日もそのまま通用します。対角線論法は数学の標準的な道具になり、細部が疑われたことは一度もありません。壊れたのは証明ではなく、その周りの枠組みのほうでした。
終わりから二番目の段落で、カントールは「すべての濃度の総体」を一つの集合のように語ります。しかし本論文の主定理は、いかなる集合にもそれより大きい集合がある、と述べている。もし「すべての濃度の総体」が集合であるなら、その濃度より大きい濃度が存在するはずで、しかもそれは「すべての濃度」の中にすでに含まれていなければならない。彼自身が証明した定理が、彼自身の言い回しを噛み砕いてしまう。この亀裂は数年のうちにブラリ=フォルティのパラドクス(1897)、ラッセルのパラドクス(1901)として表面化しました。
20世紀の公理的集合論は、この線引きを技術的に固定する作業です。集合として扱ってよい集まりと、扱ってはならない「大きすぎる集まり」を区別する。無限そのものは扱える——カントールは正しかった。しかし「無限のすべて」を一つの全体として扱おうとした瞬間に破綻する。彼が破ったはずの禁制は、廃止されたのではなく、適用範囲を精密に測り直されたことになります。
「この研究領域のさらなる開拓は、未来の課題である。」——その未来にまず待っていたのは連続体仮説でした。自然数の濃度と実数の濃度のあいだに、中間の濃度は存在するか。カントールはこれを繰り返し証明しようと試みて果たせず、証明できたと信じては撤回することを何度も繰り返しています。答えが出たのは1963年、コーエンによって。ただしその答えは「存在するとも、しないとも証明できない」という、彼が想定していなかった第三の種類のものでした。
本文のドイツ語は、下記の公開転写と段落単位で照合しながら再現したものです。1891年の初出誌面(および Zermelo 編『論文集』1932年)と、句読点・組版・添字の細部において異同がありうることをお断りしておきます。厳密な引用が必要な場合は原誌面またはツェルメロ版をご参照ください。訳文は本サイト用の新訳で、原文の語順をなるべく保ちつつ、現代日本語として読める範囲で整えています。Mannigfaltigkeit は「多様体」、Mächtigkeit は「濃度」、Inbegriff は「総体」と訳しました。カントールがまだ Menge(集合)という語に統一していない時期の論文であり、術語の揺れそのものが読みどころでもあるため、原語の区別は訳語にも残しています。
次に読むなら:カントール「すべての実代数的数の総体がもつ一性質について」(1874)(同じ定理の、はるかに手数の多い最初の証明)/ツェルメロ「任意の集合が整列可能であることの証明」(1904)(本論文の訳注4・5が指摘した穴を埋める試み)/ゲーデル「形式的に決定不可能な命題について」(1931)(対角線論法の最も有名な子孫)。