Meditationes de cognitione, veritate et ideis
デカルトは『省察』で、真理の標識を一つ立てた。私が明晰かつ判明に知覚するものは真である、と。だがデカルトは、何が明晰で何が判明かを見分ける規準そのものは与えなかった。与えたのは、規準の名だけである。この空白は、当人が思っていたよりはるかに深い穴だった。というのも、明晰さも判明さも、当の主観にそう見えるかどうかとして与えられている以上、思い違いをしている人間と正しく捉えている人間とを、内側からは区別できないからである。
1684年11月、ライプツィヒの学術誌『学識者の報告(Acta Eruditorum)』に、無署名の六頁ほどの論考が載った。それがこれである。ライプニッツが公にした最初のまとまった哲学的著作であり、同じ年の10月号には、同じ雑誌に彼の微分法の最初の論文が出ている。彼は三十八歳、ハノーファーの図書館長だった。
論考は「今日、すぐれた人々のあいだで真の観念と偽の観念をめぐる論争が戦わされており」という一文で始まる。名は挙がっていないが、これはアルノーとマルブランシュの論争を指している。マルブランシュは『真理の探究』(1674–75)で、我々はすべてを神のうちに見るのであって、観念とは神のうちにある対象そのものだと主張していた。アルノーは『真の観念と偽の観念について』(1683)でこれに反駁し、観念とは精神の様態にほかならないと主張した。ライプニッツはこの論争のどちら側にも立たない。彼がやるのは、論争の当事者たちが共有している前提——「観念をもっている」ということが何を意味するかは分かっている、という前提——を崩すことである。
そのために彼が持ち出すのが、認識の段階づけである。曖昧か明晰か。明晰なら、混雑しているか判明か。判明なら、不十全か十全か。そしてこれとは別の軸として、記号的か直観的か。この階梯は、デカルトの「明晰判明」を否定するのではなく、その内部に目盛りを刻む。目盛りが入った瞬間、「私は明晰判明に知覚している」という一人称の報告は、証拠としての力を失う。どの段にいるかを言わなければ何も言ったことにならないからである。
この論考の主張のうち、後代にもっとも大きく効いたのはおそらく二つだ。
一つは盲目的思考(cogitatio caeca)である。我々の思考の大半は、意味を眼前に置かずに記号だけを動かすことで進む。「千角形」と考えるとき、我々は千本の等しい辺を心に浮かべてなどいない。語をその意味の代わりに使っているのである。デカルトは同じ千角形を、想像力と純粋知性を区別するために使った——千角形は想像できないが理解はできる、と。ライプニッツはそれをひっくり返す。理解しているつもりのそれもまた、記号の操作にすぎないかもしれない、と。そしてこれを欠陥としてではなく、思考が現に働いている仕方として肯定する。代数がそれで動いているのだから。ここから普遍記号法(characteristica universalis)の構想までは、あと一歩である。
もう一つは存在論的証明への異議である。神の観念から存在が帰結する、というアンセルムス以来の論証について、ライプニッツはこう言う。そこから出てくるのは「もし神が可能ならば神は存在する」だけだ、と。定義は、それが矛盾を含まないと分かるまでは推論に使えない。矛盾を含む定義からは相反する結論が同時に出てしまうからである。ここで注意すべきは、ライプニッツが結論を否定していないことだ。彼は最完全存在者が可能であり、それどころか必然的であると信じている。彼が言うのは、証明に一段抜けているということである。この「可能性を先に示せ」という要求は、そのまま定義一般に及ぶ。定義には二種類あって、徴表を数え上げただけの唯名的定義と、定義されたものが可能であることまで示す実在的定義とがある。学の基礎に置けるのは後者だけだ——十九世紀末に無矛盾性証明への要求として再登場することになる考え方が、ここに顔を出している。
最後の一段落は、色の知覚についての短い覚え書きで終わる。緑を見るとき、我々は微細に混ぜられた黄と青を感じ取っているのに、それに気づかないまま「新しい何か」を作り出している。混雑した認識とは要するにこれである。この一文は、三十年後の『人間知性新論』の微小表象の理論を、すでにほとんど言い当てている。
本文の冒頭一文に、論考全体の骨格が畳み込まれている。先にほどいておく。二本の分岐がある。一本は対象がどこまで分解されているかを測る縦の階梯、もう一本はいま思考が意味を眼前に置いているか、記号で代用しているかを分ける横の軸である。この二本は独立しており、交わったところに「最も完全な認識」が置かれる。
| 原語 | 読み | 訳語と意味 |
|---|---|---|
| idea | イデア | 観念。心のうちで事物を表象するもの。ライプニッツは末尾で、観念とは対象の小さな似姿(icunculae)ではなく精神の変様だと述べる。 |
| notio | ノーティオー | 概念。idea とほぼ交換可能に使われるが、分解される対象という側面が前面に出るときはこちら。 |
| cognitio | コグニティオー | 認識。本論考が段階づけるのはこれ。日本語の「知識」より広く、感覚的な捉えも含む。 |
| obscura | オブスクーラ | 曖昧。目の前に出されても、それだと分からない段階。 |
| clara | クラーラ | 明晰。それだと分かる段階。デカルトの clara をそのまま受け取り、その内側を割っていく。 |
| confusa | コンフーサ | 混雑。分かるのに、分かる根拠を一つずつ挙げられない。色・匂い・味がこれ。「混同」ではなく、複数のものが溶け合っているという意味。 |
| distincta | ディスティンクタ | 判明。見分けの根拠を徴表として数え上げられる。 |
| inadaequata | イナダエクァータ | 不十全。徴表のうちに、まだ混雑したものが混じっている。 |
| adaequata | アダエクァータ | 十全。分解が終点まで到達している。 |
| cogitatio caeca | コギタティオ・カエカ | 盲目的思考。記号だけを動かし、その意味を眼前に置かない思考。symbolica(記号的)と同義に使われる。 |
| intuitiva | イントゥイーティーウァ | 直観的。構成要素のすべてを同時に見ている思考。ライプニッツの用法では神秘的な意味は一切ない。 |
| nota | ノタ | 徴表。あるものを他から見分けるための目印。 |
| requisitum | レクィシートゥム | 要件。あるものが成り立つために必要なもの。分解の到達点にあるもの。 |
| definitio nominalis | 唯名的定義。十分な徴表を数え上げただけの定義。 | |
| definitio realis | 実在的定義。定義されたものが可能であることまで確定させる定義。 | |
| definitio causalis | 因果的定義。産出の仕方を示す定義。実在的定義の最も有用な形。 | |
| docimasta | ドキマスタ | 試金者。金銀の純度を試験する専門職。判明な認識の見本として登場する。 |
| aqua fortis | アクア・フォルティス | 硝酸。金は溶けないので試金に使われた。「強い水」の意。 |
| entelechia | エンテレケイア | アリストテレスの語。ここでは「定義のない術語」の例として挙げられるが、ライプニッツは後年これを自分の実体論の中心語として復活させる。 |
| Ens perfectissimum | 最完全存在者。デカルトの ens summe perfectum。存在論的証明の主語。 |
Quoniam hodie inter viros egregios de veris et falsis ideis controversiae agitantur, eaque res magni ad veritatem cognoscendam momenti est, in qua nec ipse Cartesius usquequaque satisfecit; placet quid mihi de discriminibus atque criteriis idearum et cognitionum statuendum videatur, explicare paucis.
今日、すぐれた人々のあいだで真の観念と偽の観念をめぐる論争が戦わされており、この問題は真理を認識するうえで大きな意味をもつ。そしてこの点については、デカルトその人といえども隅々まで満足のいく答えを与えてはいない。そこで、観念と認識との区別および規準について私がどう定めるべきだと考えているかを、手短に述べておきたい。
Est ergo cognitio vel obscura vel clara; et clara rursus vel confusa vel distincta, et distincta vel inadaequata vel adaequata; item vel symbolica vel intuitiva: et quidem si simul adaequata et intuitiva sit, perfectissima est.
さて認識は、曖昧であるか明晰であるかのいずれかである。明晰な認識はさらに、混雑しているか判明であるかのいずれかであり、判明な認識はさらに、不十全であるか十全であるかのいずれかである。また同じく、記号的であるか直観的であるかのいずれかである。そして十全であると同時に直観的でもある認識は、最も完全な認識である。
Obscura est notio, quae non sufficit ad rem repraesentatam agnoscendam, veluti si utcunque meminerim alicujus floris aut animalis olim visi, non tamen quantum satis est, ut oblatum recognoscere et ab aliquo vicino discernere possim; vel si considerem aliquem terminum in scholis parum explicatum, ut entelechiam Aristotelis, aut causam prout communis est materiae, formae, efficienti et fini, aliaque ejusmodi, de quibus nullam certam definitionem habemus: unde propositio quoque obscura fit, quam notio talis ingreditur.
曖昧な概念とは、表象された当のものを認知するのに足りない概念のことである。たとえば、かつて見た何かの花なり動物なりをともかく覚えてはいるが、目の前に差し出されたときそれと分かり、似た隣のものから区別できるほどには覚えていない、という場合。あるいは、学派のなかで大して説明もされないまま使われている術語——アリストテレスのエンテレケイアとか、質料因・形相因・作用因・目的因に共通する限りでの「原因」とか、その種のもの——を考える場合。これらについて我々は確かな定義をもっていない。そこから、そうした概念が入り込む命題もまた曖昧なものになる。
Clara ergo cognitio est, cum habeo unde rem repraesentatam agnoscere possim, eaque rursum est vel confusa vel distincta.
したがって明晰な認識とは、表象されたものをそれと認知できる手がかりを私がもっている場合の認識である。そしてこれはさらに、混雑した認識と判明な認識とに分かれる。
Confusa, cum scilicet non possum notas ad rem ab aliis discernendam sufficientes separatim enumerare, licet res illa tales notas atque requisita revera habeat, in quae notio ejus resolvi possit: ita colores, odores, sapores aliaque peculiaria sensuum objecta satis clare quidem agnoscimus et a se invicem discernimus, sed simplici sensuum testimonio, non vero notis enuntiabilibus; ideo nec caeco explicare possumus quid sit rubrum, nec aliis declarare talia possumus, nisi eos in rem praesentem ducendo, atque ut idem videant, olfaciant aut gustent efficiendo, aut saltem praeteritae alicujus perceptionis similis eos admonendo: licet certum sit, notiones harum qualitatum compositas esse et resolvi posse, quippe cum causas suas habeant.
混雑しているというのは、当のものを他から区別するのに十分な徴表を、私が一つずつ数え上げることができない場合である——たとえその事物が、概念を分解していった先にあるはずのそうした徴表や要件を、実際にはもっているとしても。たとえば色、匂い、味、その他それぞれの感覚に固有の対象を、我々は十分明晰に認知し、互いに区別してもいる。しかしそれは感覚の証言そのものによってであって、言葉で言い表せる徴表によってではない。だから我々は、赤とは何かを盲人に説明することができないし、他人にこの種のものを知らせるにも、その現場へ連れていって同じものを見せ、嗅がせ、味わわせるか、少なくとも過去の似た知覚を思い出させるほかない。とはいえ、これらの性質の概念が合成されたものであり、分解しうるものであることは確かである。それらはいずれも原因をもっているのだから。
Similiter videmus pictores aliosque artifices probe cognoscere quid recte, quid vitiose factum sit, at judicii sui rationem reddere saepe non posse, et quaerenti dicere se in re quae displicet desiderare nescio quid.
同じように、画家やその他の職人たちが、何が正しくできていて何が損なわれているかをよく知っているのに、自分の判断の根拠を挙げることはしばしばできず、問われれば、気に入らないその作にはどこか何とも言えないものが足りないのだ、と答えるほかない、というのを我々は目にしている。
At distincta notio est, qualem de auro habent docimastae, per notas scilicet et examina sufficientia ad rem ab aliis omnibus corporibus similibus discernendam: tales habere solemus circa notiones pluribus sensibus communes, ut numeri, magnitudinis, figurae, item circa multos affectus animi, ut spem, metum, verbo, circa omnia quorum habemus definitionem nominalem, quae nihil aliud est quam enumeratio notarum sufficientium.
これに対して判明な概念とは、試金者が金についてもっているような概念のことである。すなわち、当のものを他のあらゆる類似した物体から区別するのに十分な徴表と試験とを介してもたれる概念である。我々がこうした概念をもつのは、数・大きさ・形のように複数の感覚に共通する概念についてであり、また希望や恐れといった心の多くの情態についてであり、要するに、唯名的定義——十分な徴表の枚挙にほかならない——をもっているすべてのものについてである。
Datur tamen et cognitio distincta notionis indefinibilis, quando ea est primitiva sive nota sui ipsius, hoc est cum est irresolubilis ac non nisi per se intelligitur, atque adeo caret requisitis.
とはいえ、定義しえない概念についても判明な認識は成り立つ。その概念が原初的であり、それ自身がそれ自身の徴表であるような場合、すなわち分解不能であり、それ自身によってしか理解されず、したがって要件をもたない場合である。
In notionibus autem compositis, quia rursus notae singulae componentes interdum clare quidem, sed tamen confuse cognitae sunt, ut gravitas, color, aqua fortis aliaque quae auri notas ingrediuntur, hinc talis cognitio auri, licet distincta sit, inadaequata est tamen. Cum vero id omne quod notitiam distinctam ingreditur rursus distincte cognitum est, seu cum analysis ad finem usque producta habetur, cognitio est adaequata, cujus exemplum perfectum nescio an homines dare possint; valde tamen ad eam accedit notitia numerorum.
ところが合成された概念においては、それを構成する個々の徴表がふたたび、明晰ではあってもなお混雑した仕方でしか認識されていないことがある。金の徴表に入ってくる比重や色や硝酸などがそれである。したがってこの場合、金についてのそうした認識は判明ではあっても、なお不十全にとどまる。これに対して、判明な認識に入ってくるものがことごとくふたたび判明に認識されているとき、すなわち分解が終点まで遂行されているとき、その認識は十全である。その完全な実例を人間が挙げうるかどうか、私は知らない。しかし数についての知識はそれに非常に近づいている。
Plerumque autem, praesertim in analysi longiore, non totam simul naturam rei intuemur, sed rerum loco signis utimur, quorum explicationem in praesenti aliqua cogitatione compendii causa solemus praetermittere, scientes aut credentes nos eam habere in potestate: ita cum chiliogonum, seu polygonum mille aequalium laterum cogito, non semper naturam lateris et aequalitatis et millenarii (seu cubi a denario) considero, sed vocabulis istis (quorum sensus obscure saltem atque imperfecte menti obversatur) in animo utor loco idearum quas de iis habeo, quoniam memini me significationem istorum vocabulorum habere, explicationem autem nunc judico necessariam non esse; qualem cogitationem caecam vel etiam symbolicam appellare soleo, qua et in Algebra et in Arithmetica utimur, imo fere ubique.
しかしたいていの場合、とりわけ長い分析においては、我々は事物の本性の全体を一挙に直観しているのではなく、事物の代わりに記号を用いている。その記号が何を意味するかの説明を、いま行っている思考のなかでは手間を省くために省略するのが常であり、それは必要になればいつでも取り出せると知っているか、そう信じているからである。たとえば千角形、すなわち千の等しい辺をもつ多角形を私が考えるとき、私は辺や相等や千(すなわち十の三乗)の本性をそのつど考えているわけではない。そうではなく、これらの語(その意味は少なくとも曖昧に、不完全にしか心に浮かんでいない)を、それらについて私がもつ観念の代わりに、心のなかで用いているのである。というのも、これらの語の意味を私はもっていると覚えており、いまその説明は必要でないと判断しているからである。私はこうした思考を盲目的思考、あるいは記号的思考と呼ぶのを常としている。代数でも算術でも、いや、ほとんどあらゆる場面で我々が用いているのはこれである。
Et certe cum notio valde composita est, non possumus omnes ingredientes eam notiones simul cogitare: ubi tamen hoc licet, vel saltem in quantum licet, cognitionem voco intuitivam. Notionis distinctae primitivae non alia datur cognitio quam intuitiva, ut compositarum plerumque cogitatio non nisi symbolica est.
そして実際、概念がひどく合成されている場合、そこに入ってくる概念のすべてを同時に考えることは我々にはできない。それができる場合、あるいは少なくともできる限りにおいて、私はその認識を直観的と呼ぶ。原初的で判明な概念については、直観的認識のほかに認識はない。ちょうど、合成された概念についての思考がたいていは記号的でしかないのと同じである。
Ex his jam patet, nos eorum quoque quae distincte cognoscimus ideas non percipere, nisi quatenus cogitatione intuitiva utimur. Et sane contingit ut nos saepe falso credamus habere in animo ideas rerum, cum falso supponimus aliquos terminos, quibus utimur, jam a nobis fuisse explicatos: nec verum aut certe ambiguitati obnoxium est, quod aiunt aliqui, non posse nos de re aliqua dicere, intelligendo quod dicimus, quin ejus habeamus ideam. Saepe enim vocabula ista singula utcunque intelligimus, aut nos antea intellexisse meminimus; quia tamen hac cogitatione caeca contenti sumus et resolutionem notionum non satis prosequimur, fit ut lateat nos contradictio, quam forte notio composita involvit.
ここからすでに明らかなように、我々は判明に認識している当のものについてすら、直観的思考を用いている限りにおいてしか、その観念を知覚してはいない。そして実際、我々が用いているいくつかの術語をすでに自分は説明し終えていると誤って思い込み、そのせいで事物の観念を心のうちにもっていると誤って信じることが、しばしば起こる。ある人々の言うこと——何かについて、自分の言っていることを理解しながら語ることは、その観念をもっているのでなければできない——は、真ではないか、少なくとも多義性を免れない。というのも我々はしばしば、それらの語の一つ一つをともかくも理解しており、あるいは以前に理解したことがあると覚えている。しかしこの盲目的思考で満足してしまい、概念の分解を十分に押し進めないために、合成された概念がおそらく含んでいる矛盾が、我々の目から隠れたままになるのである。
Haec ut considerarem distinctius, fecit olim argumentum, dudum inter scholasticos celebre et a Cartesio renovatum, pro existentia Dei, quod ita habet:
Quicquid ex alicujus rei idea sive definitione sequitur, id de re potest praedicari.(Ens enim perfectissimum involvit omnes perfectiones, in quarum numero est etiam existentia.)
このことをより判明に考えるきっかけを与えてくれたのは、かつて、スコラ学者たちのあいだで古くから名高く、デカルトによって新たにされた、神の存在についてのあの論証であった。それはこうである。
或るものの観念ないし定義から帰結するものはすべて、そのものについて述語づけることができる。(というのも最完全存在者はあらゆる完全性を含み、その数のうちには存在も入っているから。)
Verum sciendum est inde hoc tantum confici: si Deus est possibilis, sequitur quod existat; nam definitionibus non possumus tuto uti ad concludendum, antequam sciamus eas esse reales aut nullam involvere contradictionem. Cujus ratio est, quia de notionibus contradictionem involventibus simul possent concludi opposita, quod absurdum est.
しかし知っておかねばならない。ここから引き出せるのはこれだけである——もし神が可能であるならば、神は存在する、ということ。なぜなら定義というものは、それが実在的である、すなわち何の矛盾も含まないと我々が知る前には、結論を導くのに安んじて用いることができないからである。その理由はこうである。矛盾を含む概念からは、相反する二つの結論が同時に導かれうる。それは不合理である。
Soleo autem ad hoc declarandum uti exemplo motus celerrimi, qui absurdum implicat; ponamus enim rotam aliquam celerrimo motu rotari, quis non videt productum aliquem rotae radium extremo suo celerius motum iri quam in rotae circumferentia clavum; hujus ergo motus non est celerrimus, contra hypothesim.
私はこのことを明らかにするために、最も速い運動という例を用いるのを常としている。この概念は不合理を含んでいる。というのも、或る車輪が最も速い運動で回っていると仮定してみよう。その車輪の輻を外へ延長すれば、その先端は車輪の外周にある釘よりも速く動くことになる——これが見て取れない者があろうか。ゆえにこの運動は最も速い運動ではない。仮定に反する。
Interim prima fronte videri possit nos ideam motus celerrimi habere; intelligimus enim utique quid dicamus, et tamen nullam utique habemus ideam rerum impossibilium. Eodem igitur modo non sufficit nos cogitare de Ente perfectissimo ut asseramus nos ejus ideam habere, et in hac allata paulo ante demonstratione possibilitas Entis perfectissimi aut ostendenda aut supponenda est, ut recte concludamus. Interim nihil verius est quam et nos Dei habere ideam, et Ens perfectissimum esse possibile, imo necessarium; argumentum tamen non satis concludit, et jam ab Aquinate rejectum est.
一見したところ、我々は「最も速い運動」の観念をもっているように見えるかもしれない。我々は自分の言っていることをともかくも理解しているのだから。それでもなお我々は、不可能なものの観念を、けっしてもってはいない。それと同じ理由で、最完全存在者について考えるというだけでは、その観念をもっていると主張するのに十分ではない。そして先ほど挙げたあの証明において、正しく結論するためには、最完全存在者の可能性が証明されるか、あるいは前提として置かれるかしなければならない。もっとも、我々が神の観念をもっていること、そして最完全存在者が可能である——それどころか必然的である——ことほど真なることはない。しかしそれでもあの論証は十分には結論しておらず、すでにアクィナスによって斥けられている。
Atque ita habemus quoque discrimen inter definitiones nominales, quae notas tantum rei ab aliis discernendae continent, et reales, ex quibus constat rem esse possibilem; et hac ratione satisfit Hobbio, qui veritates volebat esse arbitrarias, quia ex definitionibus nominalibus penderent, non considerans realitatem definitionis in arbitrio non esse, nec quaslibet notiones inter se posse conjungi. Nec definitiones nominales sufficiunt ad perfectam scientiam, nisi quando aliunde constat rem definitam esse possibilem.
そしてこうして我々は、唯名的定義と実在的定義との区別をも手にする。唯名的定義とは、当のものを他から区別する徴表だけを含む定義であり、実在的定義とは、そこから当のものが可能であることが確定する定義である。この区別によってホッブズにも答えが与えられる。彼は、真理は唯名的定義に依存するのだから恣意的なものだと言おうとしたのだが、定義が実在的であるかどうかは我々の意のままにならないこと、また任意の概念どうしを勝手に結合できるわけではないことを、考えに入れていなかった。そして唯名的定義は、定義された当のものが可能であることが別の仕方で確定していない限り、完全な学のためには十分でない。
Patet etiam quae tandem sit idea vera, quae falsa: vera scilicet cum notio est possibilis, falsa cum contradictionem involvit.
これによってまた、結局どのような観念が真であり、どのような観念が偽であるかも明らかになる。すなわち、概念が可能であるときに真であり、矛盾を含むときに偽である。
Possibilitatem autem rei vel a priori cognoscimus vel a posteriori. Et quidem a priori, cum notionem resolvimus in sua requisita, seu in alias notiones cognitae possibilitatis, nihilque in illis incompatibile esse scimus; idque fit inter alia cum intelligimus modum quo res possit produci, unde prae caeteris utiles sunt definitiones causales: a posteriori vero, cum rem actu existere experimur; quod enim actu extitit, id utique possibile est.
ところで、あるものの可能性を我々が認識するのは、アプリオリにか、アポステリオリにかのいずれかである。アプリオリにというのは、概念をその要件へと、すなわち可能であることがすでに知られている別の概念へと分解し、それらのあいだに何も両立しえないものがないと知る場合である。これはとりわけ、当のものが産出されうる仕方を我々が理解する場合に成り立つ。だからこそ因果的定義が他のものにまさって有用なのである。他方アポステリオリにというのは、そのものが現に存在するのを我々が経験する場合である。現に存在したものは、いずれにせよ可能なのだから。
Et quidem quandocunque habetur cognitio adaequata, habetur et cognitio possibilitatis a priori; perducta enim analysi ad finem, si nulla apparet contradictio, utique notio possibilis est. An vero unquam ab hominibus perfecta institui possit analysis notionum, sive an ad prima possibilia ac notiones irresolubiles, sive (quod eodem redit) ipsa absoluta attributa Dei, nempe causas primas atque ultimam rerum rationem, cogitationes suas reducere possint, nunc quidem definire non ausim.
そして十全な認識が得られている場合にはつねに、可能性のアプリオリな認識もまた得られている。分解が終点まで遂行され、そこに何の矛盾も現れないなら、その概念はいずれにせよ可能だからである。しかし、概念の完全な分析がそもそも人間によって遂行されうるものかどうか、すなわち人間が自分の思考を、最初の可能なものたち、分解不能な概念たちにまで——あるいは同じことだが、神の絶対的な諸属性そのもの、つまり第一原因と事物の究極の根拠にまで——遡らせることができるかどうかは、いまここで決めることを私はあえてしない。
Hinc ergo tandem puto intelligi posse, non semper tuto provocari ad ideas, et multos specioso illo titulo ad imaginationes quasdam suas stabiliendas abuti; neque enim statim ideam habemus rei de qua nos cogitare sumus conscii, quod exemplo maximae velocitatis paulo ante ostendi.
以上からしてついに理解しうるだろうと私は思う。観念に訴えることはつねに安全とは限らない、そして多くの人がこの見栄えのよい看板を、自分の思いつきに箔をつけるために濫用している、と。というのも、自分がそれについて考えていると意識しているからといって、ただちにそのものの観念を我々がもっていることにはならないからである。このことは先ほど、最大速度の例で示したとおりである。
Nec minus abuti video nostri temporis homines jactato illo principio: quicquid clare et distincte de re aliqua percipio, id est verum seu de ea enuntiabile. Saepe enim clara et distincta videntur hominibus temere judicantibus, quae obscura et confusa sunt. Inutile ergo axioma est, nisi clari et distincti criteria adhibeantur quae tradidimus, et nisi constet de veritate idearum.
そして同じ程度に濫用されているのを私が目にしているのが、現代の人々が振りかざすあの原理である——「或るものについて私が明晰かつ判明に知覚するものは真であり、すなわちそのものについて言明しうる」。というのも、軽々しく判断する人々には、曖昧で混雑したものがしばしば明晰判明に見えるからである。したがってこの公理は無用である——我々がここに示したような明晰さと判明さの規準が用いられ、かつ観念の真理性が確定していない限りは。
De caetero non contemnenda veritatis enuntiationum criteria sunt regulae communis Logicae, quibus et Geometrae utuntur, ut scilicet nihil admittatur pro certo nisi accurata experientia vel firma demonstratione probatum; firma autem demonstratio est quae praescriptam a Logica formam servat, non quasi semper ordinatis scholarum more syllogismis opus sit (quales Christianus Herlinus et Conradus Dasypodius in sex priores Euclidis libros exhibuerunt), sed ita saltem ut argumentatio concludat vi formae; qualis argumentationis in forma debita conceptae exemplum etiam calculum aliquem legitimum esse dixeris. Itaque nec praetermittenda est aliqua praemissa necessaria, et omnes praemissae jam ante vel demonstratae esse debent, vel saltem instar hypotheseos assumtae, quo casu et conclusio hypothetica est.
その他の点では、言明の真理性の規準として軽んじてはならないのが、通常の論理学の規則である。幾何学者たちもこれを用いている。すなわち、精確な経験によって、あるいは堅固な証明によって確かめられたものでなければ、何ものも確実なものとして認めない、という規則である。ここで堅固な証明とは、論理学の指定する形式を守る証明のことである。といっても、学派の流儀にならって整えられた三段論法がつねに必要だというのではない(クリスティアヌス・ヘルリヌスとコンラドゥス・ダシュポディウスがユークリッド『原論』の最初の六巻について示したような)。そうではなく、少なくとも論証が形式の力によって結論する、というだけでよい。しかるべき形式のもとで捉えられた論証の実例としては、何らかの正当な計算もまたそうだと言ってよいだろう。したがって、必要な前提を一つとして省いてはならず、すべての前提はあらかじめ証明されているか、少なくとも仮説として置かれていなければならない——後者の場合には、結論もまた仮説的である。
Haec qui observabunt diligenter, facile ab ideis deceptricibus sibi cavebunt. His autem satis congruenter ingeniosissimus Pascalius in praeclara dissertatione de ingenio geometrico (cujus fragmentum extat in egregio libro celeberrimi viri Antonii Arnaldi de arte bene cogitandi) Geometrae esse ait definire omnes terminos parumper obscuros, et comprobare omnes veritates parumper dubias. Sed vellem definisset limites, quos ultra aliqua notio aut enuntiatio non amplius parumper obscura aut dubia est. Verumtamen quid conveniat, ex attenta eorum quae hic diximus consideratione erui potest; nunc enim brevitati studemus.
これらを注意深く守る者は、人を欺く観念から容易に身を守るだろう。この点で我々とよく一致しているのが、きわめて才知にすぐれたパスカルである。彼はその見事な『幾何学的精神について』の論考(その断片は、きわめて名高いアントワーヌ・アルノーの傑れた書『正しく考える技術』のなかに残っている)において、少しでも曖昧な術語はすべて定義し、少しでも疑わしい真理はすべて証明するのが幾何学者のつとめだ、と述べている。しかし私としては、その先ではもはや概念や言明が「少しも曖昧でも疑わしくもない」と言える、その限界を、彼に定義しておいてほしかった。とはいえ、ここで我々が述べたことを注意深く考察すれば、何がふさわしいかは引き出せるはずである。いまは簡潔を旨としているので、これ以上は述べない。
Quod ad controversiam attinet, utrum omnia videamus in Deo (quae utique vetus est sententia, et si sano sensu intelligatur, non omnino spernenda) an vero proprias ideas habeamus, sciendum est, etsi omnia in Deo videremus, necesse tamen esse ut habeamus et ideas proprias, id est non quasi icunculas quasdam, sed affectiones sive modificationes mentis nostrae respondentes ad id ipsum quod in Deo perciperemus: utique enim aliis cogitationibus subeuntibus aliqua in mente nostra mutatio fit; rerum vero actu a nobis non cogitatarum ideae sunt in mente nostra, ut figura Herculis in rudi marmore.
我々はすべてを神において見るのか(これはたしかに古い説であり、健全な意味に解するなら、まるごと退けるべきものでもない)、それとも我々自身の観念をもつのか、という論争について言えば、次のことを知っておかねばならない。たとえ我々がすべてを神において見ているのだとしても、我々が我々自身の観念をもつこともまた必要である。ただしそれは何か小さな似姿のようなものではなく、我々の精神の変様ないし変容であって、神のうちに我々が知覚するであろうまさにそのものに対応するものである。というのも、別の思考が生じてくれば、我々の精神のうちには何らかの変化が起こるのだから。他方、我々が現に考えていない事物の観念は、あたかも粗い大理石のなかのヘラクレス像のようにして、我々の精神のうちにある。
At in Deo non tantum necesse est actu esse ideam extensionis absolutae atque infinitae, sed et cujusque figurae, quae nihil aliud est quam extensionis absolutae modificatio.
これに対して神においては、絶対的で無限な延長の観念が現実に存在していなければならないだけでなく、あらゆる図形の観念もまた現実に存在していなければならない。図形とは、絶対的な延長の変容にほかならないのだから。
Caeterum cum colores aut odores percipimus, utique nullam aliam habemus quam figurarum et motuum perceptionem, sed tam multiplicium et exiguorum, ut mens nostra singulis distincte considerandis in hoc praesenti suo statu non sufficiat, et proinde non animadvertat perceptionem suam ex solis figurarum et motuum minutissimorum perceptionibus compositam esse; quemadmodum confusis flavi et caerulei pulvisculis viridem colorem percipiendo, nil nisi flavum et caeruleum minutissime mixta sentimus, licet id non animadvertentes, potius novum aliquod Ens nobis fingentes.
なお、我々が色や匂いを知覚するとき、そこで我々がもっているのは図形と運動の知覚以外の何ものでもない。ただしそれはあまりにも多数かつあまりにも微小であるために、いま現にある状態の我々の精神では、その一つ一つを判明に考えるには足りないのである。だからこそ精神は、自分の知覚がもっぱら微小きわまりない図形と運動の知覚から合成されていることに気づかない。ちょうど、黄と青の微粉を混ぜ合わせたものから緑色を知覚するとき、我々が感じ取っているのは微細に混ぜられた黄と青にほかならないのに、それに気づかないまま、むしろ何か新しい存在者を自分たちのために作り出しているのと同じである。
ドイツ哲学の語彙になった。曖昧/明晰/混雑/判明/不十全/十全という六語の階梯は、ヴォルフを経由して十八世紀ドイツの標準装備になる。とりわけ効いたのは「明晰だが混雑した認識」という一段である。バウムガルテンは1735年に、この段こそが固有の学の対象になりうると考え、そこに aesthetica という名を与えた。美学という学科は、この論考の分類表の左側の一マスから生まれている。感性的認識は判明な認識の劣った代用品ではなく、それ自身の完全性をもつ——という主張は、ライプニッツの階梯を上下ではなく並列に読み替えることで初めて可能になった。
存在論的証明の扱いが変わった。「可能性を先に示せ」という要求は、以後この論証を論じる者の標準的な作法になる。カントの批判はライプニッツより徹底しているが、カントが『唯一可能な証明根拠』で最初に立てた問いも、「最も実在的な存在者の概念は矛盾を含まないか」だった。二十世紀にゲーデルが様相論理で定式化した版も、核心は「神性は可能である」を証明することに置かれている。論証の重心が結論から前提の可能性へ移ったのは、この六頁が起点である。
盲目的思考が計算の哲学になった。意味を眼前に置かずに記号を規則どおり動かす——ライプニッツはこれを人間の思考の欠陥ではなく現実の姿として肯定し、そこから普遍記号法と推論計算の構想へ進んだ。「しかるべき形式のもとで捉えられた論証の実例としては、何らかの正当な計算もまたそうだと言ってよい」という本文の一句は、証明と計算を同じものとみなす二百年後の考え方をそのまま先取りしている。フレーゲ以降の形式言語、そして記号処理としての計算という考え方の系譜は、ここに一つの源をもつ。
可能性の要求が無矛盾性の要求になった。「実在的定義でなければ学の基礎に置けない」というのは、要するに、定義された対象が存在しうることを保証せよという要求である。十九世紀末、ヒルベルトがフレーゲに向かって「無矛盾なものは存在する」と書いたとき、彼が更新していたのはこの論点だった。
分析は終わらない。ライプニッツは、十全な認識さえ得られれば可能性はアプリオリに保証されると論じ、そのうえで、人間にそれが可能かどうかは決められないと保留した。この保留は正しい慎重さだったが、結果は彼が望んだ方向には出なかった。無矛盾性は、一般には有限の分解で確かめられるものではない。彼の計画のうち、可能性のa priori な保証という部分は、少なくとも当初の形では成り立たない。
神の可能性の証明は成功していない。1676年の「すべての完全性は単純かつ肯定的な性質だから互いに矛盾しえない」という論証は、「完全性」を単純で肯定的な性質と規定できるという前提が強すぎるとして、今日おおむね支持されていない。ライプニッツ自身がこの論考で立てた要求を、彼自身が満たしきれなかった。
判明さの規準は自分自身に跳ね返る。判明な認識とは「十分な徴表を数え上げられること」だとされる。しかし何をもって「十分」とするのかは、この論考のどこにも書かれていない。ライプニッツがデカルトに向けた批判——規準の名を挙げただけで規準を与えていない——は、階梯を一段下げただけで、そのまま彼自身に返ってくる。パスカルに向けた「限界を定義しておいてほしかった」という不満が、そっくり自分に当てはまることに彼が気づいていたかどうかは分からない。
結びの一段は問題を移動させただけかもしれない。色や匂いは微小な図形と運動の混雑した知覚である——この還元は当時の機械論の綱領としては魅力的だが、なぜ微小な運動の集積が緑として感じられるのかには何も答えていない。ライプニッツはここで、混雑した認識という自分の分類のなかに問題を収納した。収納は解決ではない。この空白のうえに、感覚的性質をめぐる現代の議論がそのまま乗っている。
この論考は、デカルトを批判しながらデカルトの土俵を一歩も出ていない。真理の標識を主観の側に求める、という枠組みそのものは受け継がれている。ライプニッツがやったのは、その標識を一人称の明証性から概念の分解可能性へずらしたことである。「私にはそう見える」ではなく「この概念は要件へ分解でき、要件どうしは両立する」。ずらした先が客観的に見えるのは、分解が終わるという前提があるからで、その前提はこの論考のなかでは支えられていない。六頁のあいだに構想と亀裂が同時に置かれている——そこがこの論考のいちばん面白いところだと思う。
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次に読むなら:デカルト『省察』第五省察(ライプニッツがここで解体している存在論的証明の、更新された原型)/ライプニッツ「最完全存在者は存在する」1676年(本論考が「証明されるか置かれるかしなければならない」と書いた可能性の証明を、実際にやってみせた二頁。パリでスピノザに手渡された)/バウムガルテン『美学』第1–17節(「明晰だが混雑した認識」という一マスから、美学という学科が立ち上がる場面)。