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第一省察——疑いうるもののすべて

Meditatio Prima: De iis quae in dubium revocari possunt

初出
Meditationes de prima philosophia(第一哲学についての省察)第一省察、1641年、パリ、Michel Soly 刊
原語
ラテン語
形式
全文対訳(全12段)
予備知識
不要——ただし語彙の分岐を訳注と用語表で丁寧に解く

まず、これは何の話なのか

1641年、パリ。デカルトは45歳。すでに『方法叙説』(1637)で自らの哲学の要綱を仏語で公にしていましたが、そこで示した「疑いうるものはすべていったん退ける」という方法の、正式な、ラテン語による、学者に向けた提示——それが本書『第一哲学についての省察』の六つの省察です。Meditationes は日々の観想ではなく、六日間にわたる魂の訓練としての実修(イエズス会の霊操 Exercitia spiritualia がそう呼ばれていました)を借りた形式で、読み手を「私」と共に一日ずつ辿らせる、一人称の哲学書です。

第一省察は、そのうちの初日にあたります。ここでデカルトは、これから六日かけて建て直そうとする学問の、いわば地ならしをする。目的は懐疑ではありません——堅固な学問のための、地面の掘削です。彼はまず「意見を一つずつ検分するのは無駄だ、それらが立っている原理を掘り崩せばよい」という運用規則を敷き、そのうえで感覚、夢、神、そして最後に「悪意の霊」という順に、疑いを最上流へと遡らせていきます。有名な「悪しき霊」genius malignus は、この省察の締めくくりに、それまでの全ての疑いを一挙にまとめる装置として登場します。

読者への注意を一つ。デカルトは「感覚は常に欺く」とは書いていません。「時に欺く」だけです。そして「二と三を足す」計算が疑いうるとしたとき、彼は本気で二足す三が五でないかもしれないと信じているわけでもありません。第一省察は真理の停止ではなく、同意の停止を訓練する場です——真か偽か決まる前に、いったん同意を差し控える練習。これができて初めて、次の第二省察の「私は考える、私はある」という肯定が意味を持つ。第一省察を「デカルトが本気で世界を疑った日」として読むと、たいてい話が捻れます。

用語と鍵語の読み方

この省察には、訳語の選択が争われる鍵語が複数あります。日本語では区別が消えやすいので、あらかじめ表にしておきます。表内の左列がラテン語の原語、中央が読み方の目安、右列が本稿での訳語とその含みです。

原語読み訳と意味
meditatioメディタチオ省察。単なる観想ではなく、書き手と読み手が共に歩む「省みの実践」。六日間の霊操になぞらえた形式。
opinioオピニオ意見。日常の思い込みと、それまで学問として受け入れてきた命題の両方を含む。
assensioアッセンシオ同意。判断を下すこと。デカルトは「同意」の側から真偽の問題を整理する——同意を保留すれば、その命題は真偽の場から一時撤退する。
dubiumドゥビウム疑い。真偽を保留する状態。「疑わしい」dubius と「疑わしいままにする」dubitare の名詞形。
eversioエウェルシオ覆し・総崩し。〈上に建てられたもの〉と〈土台〉を分けたうえで、土台を掘り崩す作業。単なる「否定」ではない。
fundamentumフンダメントゥム基礎・土台。上に積まれた諸命題を支える原理。デカルトは「fundamenta 複数」と書く——単一の絶対的な基礎ではなく、複数の支え。
sensusセンスス感覚。五感、そして五感由来の知識全般。a sensibus(感覚から)と per sensus(感覚を経由して)の並置が本文に置かれる。
prudentiaプルデンティア慎慮。実践的な賢明さ。第一撃を「証明」ではなく「慎慮」に負わせる書き方が独特。
imaginatioイマギナチオ想像力。夢の議論で、実物なしでも像を組み立てる能力として登場。ただし像は無から作れず、〈より単純な素材〉を必要とする。
ratioラチオ理性。ここでは「懐疑を運用する規則」を説き明かす能力として現れる。ratio dubitandi(疑いの理由)という熟語も第2段に。
Deum, fontem veritatisデウム フォンテム真理の泉たる神。最も伝統的な神の呼び名。この神が第9段では〈万能なるが故に欺きうる神〉として、第12段では〈欺かぬ善き神〉として、両様に扱われる。
genius malignusゲニウス マリグヌス悪しき霊。「悪魔」ではなく——本文に diabolus の語はない——「守護霊 genius」の悪版。ローマ以来の genius 観に、狡猾さと欺瞞への意志を注ぎ込んだデカルトの造形。
fallere / decipereファッレレ/デキペレ欺く。fallere は「気づかせずに惑わす」、decipere は「陥れる・罠にかける」。悪しき霊は decipio される者に対して仕掛ける deceptor(欺瞞者)と呼ばれる。

対訳本文

全12段を、ラテン語原文と現代日本語訳の対訳で示します。段落番号は底本のものです。各段の下に「かみくだくと」を添えました。

Latine
現代日本語訳
第一段序段——生涯に一度、根こそぎ覆す

1Animadverti jam ante aliquot annos quàm multa, ineunte aetate, falsa pro veris admiserim, & quàm dubia sint quaecunque istis postea superextruxi, ac proinde funditus omnia semel in vitâ esse evertenda, atque a primis fundamentis denuo inchoandum, si quid aliquando firmum & mansurum cupiam in scientiis stabilire; sed ingens opus esse videbatur, eamque aetatem expectabam, quae foret tam matura, ut capessendis disciplinis aptior nulla sequeretur. Quare tamdiu cunctatus sum ut deinceps essem in culpâ, si quod temporis superest ad agendum, deliberando consumerem. Opportune igitur hodie mentem curis omnibus exsolvi, securum mihi otium procuravi, solus secedo, seriò tandem & libere generali huic mearum opinionum eversioni vacabo.

私は数年前からすでに気づいていた——若い頃、どれほど多くの偽なるものを真として受け入れてきたか、そしてその上に後から積み上げてきたものが、いかに疑わしいものであるか、それゆえ、もし何か堅固で持続するものをいつか諸学問のうちに打ち立てたいと願うなら、生涯に一度、根こそぎ全てを覆し、最初の基礎からもう一度始めなくてはならないと。だが、それは巨大な仕事だと思えた。だから私は、諸学に取り組むのにこれ以上ふさわしい年齢はもう来ないというほど成熟した齢を待っていた。そのため、あまりに長く延ばしすぎた挙句、残された時間を思案に費やせば、それはもう職務怠慢というものになる、そこまで来てしまっていた。折よく、今日、私は精神をあらゆる心配事から解き放ち、静穏な閑暇を確保し、独り退いた——いよいよ真剣に、そして自由に、この、私の意見全般に対する覆し〔総崩し〕にとりかかろう。

かみくだくと
プログラムの宣言である。「気づいてから、ずいぶん経つ。若い頃に真だと受け入れたことのうち、後から見ると疑わしいものが実に多い。であれば、上に積んだ石をひとつずつ検分するのは非効率だ。土台ごと一度崩し、最初からやり直す方が早い」。目的は懐疑ではなく、堅固な学問のための地ならしである。ここでの「意見」opinio は、日常の思い込みだけでなく、それまで受け入れてきた学問の命題すべてを含む。だから eversio(覆し・総崩し)という不穏な語が置かれる。注意したいのは、この段が「なぜ今日なのか」に一段落を割いていることだ。若すぎても年を取りすぎてもいけない、機は熟した、心配事は片づけた、閑暇は確保した、独りになった——ここまで条件を並べてから始める。方法的懐疑は思いつきの身振りではなく、準備を整えて着手する一回きりの作業として提示されている。
第二段懐疑の運用規則——土台を掘り崩す

2Ad hoc autem non erit necesse, ut omnes esse falsas ostendam, quod nunquam fortassis assequi possem; sed quia jam ratio persuadet, non minus accurate ab iis quae non plane certa sunt atque indubitata, quàm ab aperte falsis assensionem esse cohibendam, satis erit ad omnes rejiciendas, si aliquam rationem dubitandi in unâquâque reperero. Nec ideo etiam singulae erunt percurrendae, quod operis esset infiniti; sed quia, suffossis fundamentis, quidquid iis superaedificatum est sponte collabitur, aggrediar statim ipsa principia, quibus illud omne quod olim credidi nitebatur.

だがそのためには、それら〔の意見〕がすべて偽であることを示す必要はない——それはおそらく決して果たしえまい。すでに理性が説き明かしているのはこうだ——完全に確実で疑い得ないとは言えぬものからも、明らかに偽なるものからと同じくらい入念に、同意を差し控えるべきである、と。したがって、すべてを退けるには、その一つひとつに何かしら疑いの余地を見つけさえすれば十分である。だからといって、意見の一つずつを片端から検分する必要もない——それは無限の労になろう。ところが、基礎を掘り崩せば、その上に建てられたものは自ずと崩れ落ちるから、私は直ちに、私がかつて信じていた一切がそこに支えられていた当の諸原理へと切り込んでいこう。

かみくだくと
懐疑の運用規則である。三つの要点がある。第一に、「偽と証明する必要はない」——それは無限に近い作業になる。第二に、確実でないものは、偽と同等に扱って同意を保留する。この二点で、以後の懐疑の対象は「偽と証明されたもの」ではなく「疑いうるもの」に広がる。第三に、意見を一つずつ相手取るのではなく、それらが立っている「原理」に切り込む——建物の柱を一本ずつ点検するのでなく、地面を掘り下げれば全部が崩れる、という比喩である。この後の第一省察が、感覚→夢→神→悪しき霊、と最上流へ遡っていくのは、この方針の帰結だ。なお原文の omnes esse falsas は女性複数で、直前の「意見 opiniones」を受けている。「あらゆるものが偽」ではなく「それらの意見がすべて偽」である。
第三段第一撃——感覚は時に欺く

3Nempe quidquid hactenus ut maxime verum admisi, vel a sensibus, vel per sensus accepi; hos autem interdum fallere deprehendi, ac prudentiae est nunquam illis plane confidere qui nos vel semel deceperunt.

言うまでもなく、私がこれまで最も真であるとして受け入れてきたもの一切は、感覚から、あるいは感覚を経由して受け取ったものである。ところが、この感覚が時に欺くことを、私はすでに経験している。そして、一度でも我々を欺いた者を全面的に信頼しないというのが、慎慮というものだ。

かみくだくと
最初の一撃はごく短い。「私の知識は感覚由来である」「感覚は時に欺く」「欺いた者を信じるな」——三段である。ここで注意しておきたい。デカルトは「感覚が常に欺く」とは言っていない。「時に interdum」欺くだけである。しかし「一度でも欺いた者は全面的には信頼しない」という慎慮の原則を接ぐことで、感覚由来の知識の全体に留保が入る。「時に欺く」は「時に真である」と両立するのに、それでも全面的な信頼撤回に足りる——ここが方法的懐疑の切れ味であり、直後の段で「感覚が欺くのは遠くの小さなものだけではないか」という反論を呼び込むことになる。vel a sensibus, vel per sensus の並置は、五感が直接与えたものと、感覚を経由して形成された知識の両方を含める。
第四段反論——近くて鮮明なことまで疑えるか

4Sed forte, quamvis interdum sensus circa minuta quaedam & remotiora nos fallant, pleraque tamen alia sunt de quibus dubitari plane non potest, quamvis ab iisdem hauriantur: ut jam me hîc esse, foco assidere, hyemali togâ esse indutum, chartam istam manibus contrectare, & similia. Manus verò has ipsas, totumque hoc corpus meum esse, quâ ratione posset negari? nisi me forte comparem nescio quibus insanis, quorum cerebella tam contumax vapor ex atrâ bile labefactat, ut constanter asseverent vel se esse reges, cùm sunt pauperrimi, vel purpurâ indutos, cùm sunt nudi, vel caput habere fictile, vel se totos esse cucurbitas, vel ex vitro conflatos; sed amentes sunt isti, nec minùs ipse demens viderer, si quod ab iis exemplum ad me transferrem.

とはいえ、感覚がある種の微細なもの、また遠くにあるものについて時に我々を欺くとしても、それでもなお、およそ疑うことのできない他の多くのことがある——たとえそれらが同じ感覚から汲み取られているとしても。たとえば、いま私がここにいること、炉端に座っていること、冬着をまとっていること、この紙を手で触れていること、その類のことである。それにこの手そのものが、そしてこの身体の全体が私のものであることを、どんな理屈で否定できようか。私が自分をどこぞの狂人になぞらえでもしないかぎりは——彼らは、頑固な黒胆汁の蒸気が脳をそこなっているために、この上なく貧しいのに自分は王だと言い張り、裸なのに緋の衣をまとっていると言い、頭が土器でできているとか、自分は丸ごと南瓜であるとか、ガラスから吹き成されているとか、そんなことを絶えず主張する。だがあの者たちは正気を失っているのであり、彼らから何か一例でも自分に当てはめるとすれば、私自身も彼らに劣らず狂って見えることだろう。

かみくだくと
前段の一撃に対する反論が、ここで自分自身の口から出される。感覚が欺くのは「微細なもの minuta」と「遠くにあるもの remotiora」についてだ。だが今この瞬間の、近くて鮮明なこと——炉端に座り、冬着を着て、紙を手にしている——まで疑えるものか。この反論は強い。
そこでデカルトは、疑うとすればどうなるかを、狂人の例で試す。自分は王だ、緋の衣を着ている、頭が土器だ、丸ごと南瓜だ、ガラスでできている——黒胆汁(メランコリア)が脳を損なった者たちの妄想である。ここは当時の医学的な狂気の説明をそのまま引いている。そして彼はこの道を自分では採らない。「あの者たちは正気を失っている。彼らの例を自分に当てはめれば、私も同じく狂って見える」。
この却下の仕方はよく議論の的になる。デカルトは狂気の疑いを、論証によってではなく、それを採る自分が滑稽に見えるという理由で退けている。次段の夢の議論が持ち出されるのは、夢なら誰にでも毎晩起こり、自分を狂人になぞらえる必要がないからだ。同じ結論に、体面を保ったまま到達できる道具が夢である。
第五段夢の議論——目覚めと眠りを見分ける徴はない

5Praeclare sane, tanquam non sim homo qui soleam noctu dormire, & eadem omnia in somnis pati, vel etiam interdum minùs verisimilia, quàm quae isti vigilantes. Quàm frequenter verò usitata ista, me hîc esse, togâ vestiri, foco assidere, quies nocturna persuadet, cùm tamen positis vestibus jaceo inter strata! Atqui nunc certe vigilantibus oculis intueor hanc chartam, non sopitum est hoc caput quod commoveo, manum istam prudens & sciens extendo & sentio; non tam distincta contingerent dormienti. Quasi scilicet non recorder a similibus etiam cogitationibus me aliàs in somnis fuisse delusum; quae dum cogito attentius, tam plane video nunquam certis indiciis vigiliam a somno posse distingui, ut obstupescam, & fere hic ipse stupor mihi opinionem somni confirmet.

実に見事なことだ——まるで私が、夜ごと眠り、夢のなかでそれと同じ一切を、いや時にはあの目覚めている者たちが経験するよりもっと真実らしからぬことまで、経験する人間ではないかのように。それにしてもどれほど頻繁に、あの見慣れた事柄——私がここにいる、着物をまとっている、炉端に座っている——を、夜の休息は私に信じ込ませることか。しかも実際には、私は着物を脱いで寝床のあいだに横たわっているというのに。しかし今はどうだ、確かに私は目覚めた眼でこの紙を見ている。私が動かしているこの頭は眠っていない。この手を、思慮をもって、そうと知りつつ伸ばし、そして感じている。眠っている者に、これほど判明なことが起こりはすまい。——まるで私が、これと似た考えに夢のなかで欺かれたことが以前にもあったのを、思い出しもしないかのようではないか。このことをより注意深く考えるにつれ、目覚めと眠りとを確かな徴によって見分けることは決してできないと、あまりにも明白に見えてきて、私は呆然とする。そしてこの呆然自体が、ほとんど、私はいま夢を見ているのだという見方を、私に裏づけてしまうのである。

かみくだくと
夢の議論の本体である。Praeclare sane(実に見事なことだ)という皮肉から始まる——前段で自分が並べた反論を、自分で嘲っている。
論の運びが巧みなので追っておきたい。まず、夢のなかでも同じことを経験する、と一般論を出す。次に具体化する——「ここにいる、着物を着ている、炉端に座っている」。これは前段でデカルトが「疑えない」と挙げた当のリストである。同じ項目が、そっくりそのまま夢の内容として反復される。そのうえで彼は目覚めの側に踏みとどまろうとする。「今は違う、目覚めた眼で紙を見ている、手を意識して伸ばして感じている、眠っている者にこんな判明なことは起こらない」。ところがこの抵抗も、次の一文で崩される——以前も夢のなかで、同じように「今は目覚めている」と思ったではないか。
結論は「夢と目覚めを見分ける確かな徴は存在しない」。最後の一句が効いている。この結論に呆然とすること自体が、いま夢を見ている証拠のように思えてくる——呆然とすることは、夢のなかで起こりやすいことだからだ。疑いが自分自身を強化する構造になっている。
第六段絵と絵の具——夢の像はどこから来るか

6Age ergo somniemus, nec particularia ista vera sint, nos oculos aperire, caput movere, manus extendere, nec forte etiam nos habere tales manus, nec tale totum corpus; tamen profecto fatendum est visa per quietem esse veluti quasdam pictas imagines, quae non nisi ad similitudinem rerum verarum fingi potuerunt; ideoque saltem generalia haec, oculos, caput, manus, totumque corpus, res quasdam non imaginarias, sed veras existere. Nam sane pictores ipsi, ne tum quidem, cùm Sirenas & Satyriscos maxime inusitatis formis fingere student, naturas omni ex parte novas iis possunt assignare, sed tantummodo diversorum animalium membra permiscent; vel si forte aliquid excogitent adeo novum, ut nihil omnino ei simile fuerit visum, atque ita plane fictitium sit & falsum, certe tamen ad minimum veri colores esse debent, ex quibus illud componant. Nec dispari ratione, quamvis etiam generalia haec, oculi, caput, manus, & similia, imaginaria esse possent, necessario tamen saltem alia quaedam adhuc magis simplicia & universalia vera esse fatendum est, ex quibus tanquam coloribus veris omnes istae, seu verae, seu falsae, quae in cogitatione nostrâ sunt, rerum imagines effinguntur.

では夢を見ていることにしよう。この個々のこと——私は目を開ける、頭を動かす、手を伸ばす——が真ではないとしよう。おそらくは、こんな手も、こんな体そのものも、我々は持たないのだとしよう。それでもやはり、これだけは認めなくてはならない——眠りのなかで見えているものは、いわば描かれた絵のようなものであって、それらは、真の事物との相似のうえに以外は、作り得なかった、と。したがって少なくともこれら一般的なもの、すなわち目、頭、手、そして身体の全体は、想像上のものではなく、真なる何ものかとして存在する、と。実際、画家たちにしてからが、セイレーンやサテュロスの類を、この上なく異様な形で描き出そうと励むそのときでさえ、あらゆる点で新しい本性をそれらに与えることはできず、ただ異なった動物の肢体を混ぜ合わせているにすぎない。あるいはもし彼らが何か、それに似たものがおよそ何一つ見られたことがないほど新奇なものを考え出し、こうしてまったくの作りものであり偽であるものを描いたとしても、それでもなお、少なくともそれを組み立てるもとになる絵の具だけは、真のものでなくてはならない。それと違わぬ理屈で、たとえこれら一般的なもの——目、頭、手、その類——さえもが想像上のものであり得るとしても、それでもなお必然的に、少なくともこれよりさらに単純で普遍的な他の何ものかが真である、と認めなくてはならない。真の絵の具のようなそれらから、我々の思考のうちにある、真であれ偽であれ、事物のあらゆる像が描き出されるのである。

かみくだくと
夢の議論は、しかし「夢だから全て偽」では終わらない。ここが第一省察でいちばん見落とされる箇所である。デカルトは、夢の像がどこから作られるかを問う。
論証は絵画の比喩で進む。画家がセイレーンやサテュロスのような、この世にない怪物を描くとき、彼は無から創っているのではなく、既存の動物の肢体を混ぜ合わせている。では完全に新奇なもの、似たものが何一つ見られたことのないものを考案したとしよう——それでも、それを描くための絵の具だけは本物でなくてはならない。
この比喩が二段構えになっていることに注意したい。一段目は「怪物は既存の部分の組み合わせだ」。二段目は「たとえ組み合わせでないとしても、絵の具は本物だ」。デカルトは一段目では満足せず、二段目まで押し込む。目や頭や手といった「一般的なもの」さえ想像上のものかもしれない、と譲ったうえで、それでもなお「より単純で普遍的なもの」が真でなくてはならない、と結論する。絵の具にあたるその何かが、次の段で名指しされる。
第七段残るもの——延長・形・量・場所・時間

7Cujus generis esse videntur natura corporea in communi, ejusque extensio; item figura rerum extensarum; item quantitas, sive earumdem magnitudo & numerus; item locus in quo existant, tempusque per quod durent, & similia.

その類のものと思われるのは、物体的本性一般と、その延長である。同じく、延長されたものの形。同じく、量、すなわちそれらの大きさと数。同じく、それらが存在する場所、それらが持続する時間、そしてその類のものである。

かみくだくと
前段の「絵の具」にあたるものの名簿である。物体的本性一般、延長、形、量(大きさと数)、場所、時間。一文しかない短い段だが、第一省察の骨格上ここが分水嶺になる。
挙げられているのは、後にデカルトが物体の本質と見なすことになる項目群でもある。延長 extensio が筆頭に置かれているのは偶然ではない。彼にとって物体とは延長する実体であり、色や匂いや味は含まれない。ここで感覚的性質(色、音、香り)が一つも挙がっていないことは、意識して読む価値がある。この段の名簿は、夢の疑いを生き延びるものの一覧であると同時に、彼の物理学が扱うことになる対象の一覧でもある。
第八段学問の仕分け——物理学は疑わしく、幾何学は残る

8Quapropter ex his forsan non male concludemus Physicam, Astronomiam, Medicinam, disciplinasque alias omnes, quae a rerum compositarum consideratione dependent, dubias quidem esse; atqui Arithmeticam, Geometriam, aliasque ejusmodi, quae nonnisi de simplicissimis & maxime generalibus rebus tractant, atque utrum eae sint in rerum naturâ necne, parum curant, aliquid certi atque indubitati continere. Nam sive vigilem, sive dormiam, duo & tria simul juncta sunt quinque, quadratumque non plura habet latera quàm quatuor; nec fieri posse videtur ut tam perspicuae veritates in suspicionem falsitatis incurrant.

それゆえ、これらのことから、おそらく次のように結論しても間違いではあるまい——物理学、天文学、医学、その他、複合された事物の考察に依存する学問はすべて、確かに疑わしい。しかし算術、幾何学、およびその類の、最も単純で最も一般的な事柄だけを扱い、それらが事物の本性のうちに在るか否かをほとんど気にかけない学問は、何か確実で疑い得ないものを含んでいる、と。というのも、私が目覚めていようと眠っていようと、二と三を合わせれば五であり、正方形は四つより多くの辺を持ちはしない。これほど明々白々な真理が、偽であるという疑いを招くことがあり得るとは思われないのである。

かみくだくと
前段の名簿から、学問の仕分けが導かれる。複合した事物を扱う学(物理学、天文学、医学)は疑わしい。単純で一般的なものだけを扱い、その対象が実在するかを気にかけない学(算術、幾何学)は確実である。
「事物の本性のうちに在るか否かをほとんど気にかけない parum curant」という条件節が、仕分けの基準になっている点に注目したい。三角形の内角の和は、三角形が世界に存在しようとしまいと変わらない。だから外界が丸ごと夢であっても算術と幾何は傷つかない。
そして「二と三を合わせれば五、正方形の辺は四つ」という例が置かれる。この二つは第一省察のこの後で二度、名指しで再登場する(次段と、第10段の直前)。デカルトはこの例を、確実性の最後の砦として立て、そのうえで自分で崩しにかかる。ここに置かれたときの「これほど明々白々な真理が疑いを招くとは思われない」という言い方は、崩される前提としてわざと強く書かれている。
第九段万能な神——数学すら疑いうる

9Verumtamen infixa quaedam est meae menti vetus opinio, Deum esse qui potest omnia, & a quo talis, qualis existo, sum creatus. Unde autem scio illum non fecisse ut nulla plane sit terra, nullum coelum, nulla res extensa, nulla figura, nulla magnitudo, nullus locus, & tamen haec omnia non aliter quàm nunc mihi videantur existere? Imò etiam, quemadmodum judico interdum alios errare circa ea quae se perfectissime scire arbitrantur, ita ego ut fallar quoties duo & tria simul addo, vel numero quadrati latera, vel si quid aliud facilius fingi potest? At forte noluit Deus ita me decipi, dicitur enim summe bonus; sed si hoc ejus bonitati repugnaret, talem me creasse ut semper fallar, ab eâdem etiam videretur esse alienum permittere ut interdum fallar; quod ultimum tamen non potest dici.

とはいえ、私の精神には一つの古い意見が根深く植えつけられている——万能なる神が存在し、私は今このようにあるものとして、その神によって創られたのだ、と。しかしそれなら、地というものが全く存せず、天も、延長された物も、形も大きさも場所も、何一つ存しないのに、それでいて、これら全てが、まさに今のように私に存在すると見えるように、神が仕組まなかったと、どうして私に分かるだろう。いや、それどころか——他人が、自分は完璧に知っていると信じ込んでいる事柄について、時として誤っていると私が判断するのと同じく、私自身も、二と三を足すたびに、あるいは正方形の辺を数えるたびに、あるいはそれよりもっと平易に案じられる他の何かにおいて、誤らされている、ということが有り得ないだろうか。とはいえ、おそらく、神は私がそのように欺かれることを望まなかったのだ——神は最も善なるものと言われるのだから。しかし、私が常に欺かれるように私を創ったこと、それが神の善性に反するというのであれば、時に欺かれるのを許すこともまた、その同じ善性に反すると見えるだろう。もっとも、この後のほうは、そう言うことができない

かみくだくと
前段で立てた砦を、この段が崩す。手がかりは〈万能なる神〉という古い意見である。神が万能なら、外界を丸ごと非在のままに置きつつ、その像だけを私に与えることもできるはずだ——地も天も形も大きさも場所も存しないのに、それらが「あるように見えている」という状況を、神は作り得る。
そして前段の例がそのまま持ち出される。二と三を足すたび、正方形の辺を数えるたびに、私が誤らされているということが有り得ないか。これで懐疑の射程は経験的知識から数学まで一気に広がる。
段の後半は、この疑いへの抵抗と、その抵抗の失敗である。読みどころは、抵抗がどう失敗するかの形にある。まず〈神は最も善なるものと言われる〉という抵抗が置かれる。ならば私を欺くことを望みはしなかったろう、と。ところがデカルトは、この抵抗を否定するのではなく、そのまま押し進めて壊す。常に欺かれるように創ることが善性に反するというなら、時に欺かれるのを許すことも、その同じ善性に反すると見えるはずだ——と、二つを同じ天秤に載せてしまう。
そして最後の一句、quod ultimum tamen non potest dici。「もっとも、この後のほうは、そう言うことができない」。時に欺かれることを神が許さない、とは言えない。なぜなら我々は現に時として欺かれるからである。これは経験が突きつける事実で、否定しようがない。
こうして、神の善性に訴える道は塞がれる。時に欺かれるのが善性に反しないのなら、常に欺かれることも同様に反しないことになり、抵抗の前提が崩れる。逆にどちらも反するというなら、現に欺かれている事実と衝突する。どちらに転んでも、善性は疑いを止める堤防にならない。次の第10段が、では神を消してみたらどうかと反対側から試すのは、この行き詰まりを受けてのことである。
第十段神を消しても——運命・偶然・連鎖

10Essent verò fortasse nonnulli qui tam potentem aliquem Deum mallent negare, quàm res alias omnes credere esse incertas. Sed iis non repugnemus, totumque hoc de Deo demus esse fictitium; at seu fato, seu casu, seu continuatâ rerum serie, seu quovis alio modo me ad id quod sum pervenisse supponant; quoniam falli & errare imperfectio quaedam esse videtur, quo minùs potentem originis meae authorem assignabunt, eo probabilius erit me tam imperfectum esse ut semper fallar. Quibus sane argumentis non habeo quod respondeam, sed tandem cogor fateri nihil esse ex iis quae olim vera putabam, de quo non liceat dubitare, idque non per inconsiderantiam vel levitatem, sed propter validas & meditatas rationes; ideoque etiam ab iisdem, non minùs quàm ab aperte falsis, accurate deinceps assensionem esse cohibendam, si quid certi velim invenire.

だがおそらく、これほど力ある神が存在することを否定するほうを、他の一切の事柄を不確実だと信じるよりも好む者たちもいるだろう。彼らに逆らうのはよそう。神についてのこの一切は、まるごと作りごとだと認めてしまおう。しかし、彼らが、私が今あるところのものに到達したのは、運命によってであれ、偶然によってであれ、事物の連続した系列によってであれ、その他どんな仕方によってであれ、と想定するとしよう——欺かれること、誤ることは、何らかの不完全性であると思われるのだから、彼らが私の起源の作り手をより力の乏しいものとして割り当てれば割り当てるほど、私が常に欺かれるほど不完全なものである見込みは、それだけ高くなるのである。こうした論に対して、私には答えるべきものが実際にない。そしてついに認めざるを得なくなる——かつて私が真だと思っていたもののうちに、疑うことが許されぬものは何一つない、と。しかもそれは軽率さや軽薄さによってではなく、堅固で熟慮された理由によってなのだ。それゆえ、もし何か確実なものを見出したいと望むなら、以後は、これらのものからも、明らかに偽なるものからと同じくらい入念に、同意を差し控えなくてはならない。

かみくだくと
神を持ち出す道が塞がったので、デカルトは反対側から攻める。神など存在しないと考えたい者もいるだろう——ならばそれでよい、と譲る。私が今あるものになったのは、運命か、偶然か、事物の連続した系列か、その他何かによってだとしよう。
ところがこの譲歩が、逆向きに効く。欺かれること、誤ることは不完全性である。私の起源に置く作り手が力の乏しいものであればあるほど、私が「常に欺かれるほど不完全な存在」である見込みは高くなる。神を消しても疑いは消えない。むしろ増える。
この反転は第一省察の論証で最もよくできた部分だと言ってよい。有神論的な想定からも、無神論的な想定からも、同じ結論——私は常に誤りうる——が出てくる。逃げ道を両方塞いだうえで、彼は「こうした論に答えるべきものが実際にない」と認める。
そして規則が更新される。第2段では「確実でないものからも同意を差し控えるべきだ」という一般則だったものが、ここでは「かつて真だと思っていたもののうち、疑うことが許されぬものは何一つない」という具体的な認定に変わっている。「軽率さや軽薄さによってではなく、堅固で熟慮された理由によって」という念押しは、この懐疑が知的な誠実さの産物であって、懐疑論という立場の表明ではないことを、あらかじめ防御している。
第十一段習慣との戦い——意志を逆へ振り切る

11Sed nondum sufficit haec advertisse, curandum est ut recorder; assidue enim recurrunt consuetae opiniones, occupantque credulitatem meam tanquam longo usu & familiaritatis jure sibi devinctam, fere etiam me invito; nec unquam iis assentiri & confidere desuescam, quamdiu tales esse supponam quales sunt revera, nempe aliquo quidem modo dubias, ut jam jam ostensum est, sed nihilominus valde probabiles, & quas multo magis rationi consentaneum sit credere quàm negare. Quapropter, ut opinor, non male agam, si, voluntate plane in contrarium versâ, me ipsum fallam, illasque aliquandiu omnino falsas imaginariasque esse fingam, donec tandem, velut aequatis utrimque praejudiciorum ponderibus, nulla amplius prava consuetudo judicium meum a rectâ rerum perceptione detorqueat. Etenim scio nihil inde periculi vel erroris interim sequuturum, & me plus aequo diffidentiae indulgere non posse, quandoquidem nunc non rebus agendis, sed cognoscendis tantùm incumbo.

しかし、これらのことに気づいただけではまだ足りない。忘れずにいるよう心を配らねばならない。というのも、慣れ親しんだ意見が絶えず戻ってきて、私の軽信を占領してしまうからだ——長い使用と親しさの権利によって、その軽信を自分に縛りつけたかのように、しかもほとんど私の意に反して。そして、それらの意見が実際にそうであるところのもの、すなわち、たしかに何らかの仕方では疑わしいものの、それでもなお大いに真実らしく、否定するよりは信じるほうがはるかに理にかなっている——そういうものだと私が想定しつづけるかぎり、私はそれらに同意し信頼する習慣から、決して抜け出せはしない。それゆえ、私の考えでは、こうするのが悪くないやり方だろう。意志をそっくり反対側へ振り向けて、私自身を欺くのである。それらの意見をしばらくのあいだ、まったく偽であり想像上のものであると見なしてしまう。そうしてついには、両側の先入見の重りが釣り合わされたかのようになり、いかなる悪しき習慣も、もはや私の判断を事物の正しい知覚から捩じ曲げることがなくなるまで。実際、そこから危険も誤りも当座は生じないと私は知っているし、また、いま私は行為すべき事柄にではなく、認識すべき事柄にのみ携わっているのだから、不信をほどほど以上に甘やかすことはできないのである。

かみくだくと
論証は前段で完結している。この段が扱うのは、論証が済んだあとに残る問題——「わかっていても、元に戻ってしまう」である。
デカルトの記述は具体的だ。慣れた意見は絶えず戻ってきて、私の軽信を占領する。しかも「長い使用と親しさの権利によって」、まるで正当な所有権を持つかのように。そしてほとんど私の意に反して、である。ここで彼が認めているのは、疑いに気づくことと、疑いを保ち続けることが別の能力だ、という事実である。
対策は奇妙なもので、意志を反対側へ全力で振り切り、自分自身を欺くという。それらの意見を、しばらくのあいだ「まったく偽であり想像上のもの」と見なしてしまう。天秤の比喩がこれを説明する——先入見が片側に積まれているなら、反対側に同じだけ錘を積んで釣り合わせる。真ん中に戻すのではなく、逆に振り切って相殺する。
最後の一文が、この作業の安全装置である。「いま私は行為すべき事柄にではなく、認識すべき事柄にのみ携わっている」。これは方法的懐疑が生活の指針ではないという断りで、『方法叙説』第三部のいわゆる暫定道徳と対応している。デカルトは後年、この区別を強調し続けた。第一省察を実生活の態度として読むことは、彼自身が繰り返し否定している。
第十二段悪しき霊——そして囚人の夢

12Supponam igitur non optimum Deum, fontem veritatis, sed genium aliquem malignum, eundemque summe potentem & callidum, omnem suam industriam in eo posuisse, ut me falleret: putabo coelum, aërem, terram, colores, figuras, sonos, cunctaque externa nihil aliud esse quàm ludificationes somniorum, quibus insidias credulitati meae tetendit: considerabo meipsum tanquam manus non habentem, non oculos, non carnem, non sanguinem, non aliquem sensum, sed haec omnia me habere falsò opinantem: manebo obstinate in hac meditatione defixus, atque ita, siquidem non in potestate meâ sit aliquid veri cognoscere, at certe hoc quod in me est, ne falsis assentiar, nec mihi quidquam iste deceptor, quantumvis potens, quantumvis callidus, possit imponere, obfirmatâ mente cavebo. Sed laboriosum est hoc institutum, & desidia quaedam ad consuetudinem vitae me reducit. Nec aliter quàm captivus, qui forte imaginariâ libertate fruebatur in somnis, cùm postea suspicari incipit se dormire, timet excitari, blandisque illusionibus lente connivet: sic sponte relabor in veteres opiniones, vereorque expergisci, ne placidae quieti laboriosa vigilia succedens, non in aliquâ luce, sed inter inextricabiles jam motarum difficultatum tenebras, in posterum sit degenda.

そこで私は、〈真理の泉たる至善の神〉ではなく、〈ある悪意の霊、しかも最強にして最も狡猾なる者〉が、私を欺くためにその全産業を注ぎ込んだ、と仮定することにしよう。天も、大気も、地も、色も、形も、音も、その他あらゆる外界のものは、この霊が私の軽信に仕掛けた罠——夢の欺きに過ぎない、と思うことにする。私自身を、手を持たないもの、目も、肉も、血も、いかなる感覚をも持たないもの、しかしこれら全てを持っていると誤って思い込む者として、考えるとしよう。私はこの瞑想のうちに堅く定まって留まる。そうすれば、たとえ私に真なる何ものかを知ることが力の及ぶところでないとしても、少なくとも私にできること——虚偽に同意しないこと、この欺瞞者がいくら強かろうと、いくら狡猾であろうと、私に何ものかを押しつけることができぬよう——それだけは、精神を固く据えて用心しよう。しかし、この方針は労多く、ある種の怠惰が、私を生活の慣れの方へと引き戻す。ちょうど、たまさか夢のなかで想像上の自由を享受していた囚人が、後になって、自分が眠っているのだと疑い始めるとき、目覚めることを恐れて、その甘美な幻に緩やかに目を細めるように——そのように、私もまた自ずと、古い意見へと滑り戻ってしまう。そして目覚めることが恐ろしくなる——この静穏な眠りに、労苦に満ちた覚醒が続くとき、それが何らかの光のなかでではなく、いま揺り動かされた諸々の困難の、解き解しがたい暗闇のなかで、この先ずっと過ごさねばならなくなるのではないか、と。

かみくだくと
悪しき霊(genius malignus)の仮定は、これまでの全ての疑いを一挙にまとめる装置である。第9段では、神は善であるから欺かないだろうという抵抗が置かれ、行き詰まった。第10段では神を消しても疑いが消えないことが示された。この段はさらに進んで、欺くことのみを目的とし、しかも最強で狡猾な霊を仮設する。
この仮設のもとでは、感覚も、外界も、身体も、そして計算までも、すべて虚偽であり得る。ただ一つ、この状況で「私」にできることが残る——「虚偽に同意しないこと」。真理へ到達する道ではない。虚偽から距離を取るだけの消極的な決意である。第二省察の「私は考える、私はある」は、この決意の姿勢の中から現れてくる。
最後の三分の一が、この作業の心理的な重さを述懐する。囚人と夢の比喩は巧みで、前半で使われた夢の議論をそっくり裏返している。夢の議論では、夢が疑いを生む道具だった。ここでは夢は、疑いから逃げ帰る先である。目覚めることが恐ろしいのは、覚醒の先に光があるとは限らないからだ。
第一省察は、決意の宣言ではなく、この不安の吐露で閉じられる。ここを読み落とすと、デカルトが自信満々に世界を疑ってみせた人物のように見えてしまう。実際には、彼は自分が始めた作業の重さを、始めた時点で自覚している。

訳注

  1. falsa pro veris admiserim——「偽なるものを真として受け入れてきた」。動詞が admittere(受け入れる・許し入れる)であることには意味がある。単に「誤解していた」のではなく、意志をもって「同意した」という含みが入る。この同意(assensio)の主題は第四省察で判断論の核になる——誤りは知性の欠陥ではなく、知性の及ぶ範囲を超えて意志が同意してしまうところに生じる、という説へ発展する。第一省察の作業が「同意の撤回」の形をとるのは、この見通しがすでにあるからである。
  2. funditus omnia semel in vita esse evertenda——「生涯に一度、根こそぎ全てを覆すべし」。semel in vita(生涯に一度)という限定を見落とさないでほしい。方法的懐疑は日課として繰り返す修行ではなく、原理的に一回きりの作業として構想されている。第11段の末尾で「いま私は行為すべき事柄にではなく認識すべき事柄にのみ携わっている」と自ら註記するのも同じ趣旨である。
  3. ut omnes esse falsas ostendam——omnes と falsas はいずれも女性複数で、直前に言及された opiniones(意見)を受けている。したがって「あらゆるものが偽であることを示す」ではなく「それらの意見がすべて偽であることを示す」である。訳文の〔 〕は訳者の補い。なお本稿を最初に公開した版では、ここを omnia esse falsa(中性複数)と誤って掲げていた。底本から取り直して訂正した。
  4. assensio——「同意」。デカルトは「真と知る」と「真と信じる」のあいだに、意志の関与としての「同意」を置く。この装置があるために、彼は命題が偽であることを証明せずに、同意を差し控えるだけで議論を進められる。真理の側は動かさず、こちらの態度だけを動かす——第一省察の運用はすべてこの一手に乗っている。
  5. prudentiae est nunquam illis plane confidere qui nos vel semel deceperunt——「一度でも我々を欺いた者を全面的に信頼しないのが慎慮である」。キケロ以来の実践的賢明さ(prudentia)の語彙圏にある言い回しである。注意したいのは、この第一撃が「証明」ではなく「慎慮」に負わされていることだ。感覚が偽であることは示されていない。示されたのは、感覚を全面的に信頼するのは賢明でない、ということだけである。この差は第六省察で感覚の限定的な信頼が回復されるときに効いてくる。
  6. foco assidere——底本とした Latin Library 版はここを fovo assidere と綴っているが、これは誤植と判断し foco に校訂した。根拠は二つ。fovo という語形はラテン語に存在せず(動詞 foveo の一人称単数は foveo)、第5段では同じ動作が foco assidere と正しく綴られている。Project Gutenberg 版(Ebook 23306)でも当該箇所は foco である。focus は「炉・竈」で、英語 focus の語源にあたる。
  7. atra bilis——「黒胆汁」。ヒッポクラテス以来の四体液説で、黒胆汁の過多が憂鬱と狂気をもたらすとされた。メランコリー(melancholia)はギリシア語の melas(黒)+ chole(胆汁)である。デカルトはここで当時の標準的な医学の説明をそのまま用いている。「頭が土器」「自分は南瓜」「ガラスでできている」は、いずれも当時の医学文献に実例として載っていた妄想の型で、とくにガラス妄想(glass delusion)は近世ヨーロッパで広く記録されている。
  8. Praeclare sane——直訳すれば「まことに立派なことだ」。前段で自分が並べた反論に対する皮肉である。第一省察は一人称の独白として書かれており、こうした自分への突っ込みが議論を進める推進力になっている。省察(meditatio)という形式が、論文ではなく実践の記録として選ばれていることの現れでもある。
  9. veluti quasdam pictas imagines——「いわば描かれた絵のようなもの」。この比喩は夢の議論を全否定に向かわせない歯止めとして働く。絵は無から描けない。したがって夢の像が成り立つには、その素材にあたる何かが実在の側になくてはならない。続くセイレーンとサテュロスの例、そして「絵の具」への後退が、この歯止めを二段構えにしている。
  10. Sirenas & Satyriscos——セイレーンは上半身が女、下半身が鳥(後世には魚)の海の怪物。サテュロスは上半身が人、下半身が山羊の森の精。いずれも既存の動物の部分の組み合わせでできている点が、ここでの論証にとって重要である。Satyriscus は satyrus の指小形で「小サテュロス」。ホラティウス『詩論』冒頭の、人間の頭に馬の首を接いだ絵の話が下敷きにあると見られるが、デカルト自身はその出典を挙げていない。
  11. summe bonus / Deum, fontem veritatis——「最も善なるもの」「真理の泉たる神」。この呼び名はアウグスティヌス以来、スコラ神学を通じてカトリック神学の中心にある。デカルトがこの語彙で神を導入するのは、以下の議論を神学の枠内で読める形に整えるためである。そのうえで彼はこの善性を、疑いを止める堤防としてではなく、堤防が効かないことを示す道具として使う。
  12. quod ultimum tamen non potest dici——「もっとも、この後のほうは、そう言うことができない」。ultimum が指すのは直前の命題、すなわち「時に欺かれるのを許すことも神の善性に反する」のほうである。ではなぜそう言えないのか。我々が現に時として欺かれることは、経験の上で疑いようがないからだ。神の善性が時おりの欺きまで排除するのなら、その動かしがたい事実と衝突してしまう。この一句によって、善性に訴える抵抗は内側から崩される。1647年のフランス語版(デカルト自身が目を通した Duc de Luynes 訳)は、この含みを表に出して «et néanmoins je ne puis douter qu'il ne le permette»(それでも、神がそれを許していることを私は疑いえない)と敷衍している。なお同じフランス語版のこの直前は «cela semblerait aussi lui être aucunement contraire» となっており、aucunement を現代語の否定辞として読むと意味が反転してしまう。ラテン語の ab eadem ... alienum(その同じ善性に反する)は一義的で、続く «et néanmoins…» の一文もその読みでしか通らないので、ここは肯定の意に取る。
  13. velut aequatis utrimque praejudiciorum ponderibus——「両側の先入見の重りが釣り合わされたかのように」。praejudicium は「先入見・予断」。デカルトの処方は中立に戻ることではなく、逆側に同じだけ振り切って相殺することである。だから彼は「私自身を欺く me ipsum fallam」という強い言い方をためらわない。悪しき霊の仮定は、この相殺のための錘として置かれる。
  14. genium aliquem malignum——「ある悪意の霊」。しばしば「悪魔」と訳されるが、diabolus(悪魔)という語は第一省察に一度も現れない。ローマにおいて genius は個人・家族・場所を守る霊であり、必ずしも悪ではなかった。その「守り」の霊に malignus(悪意ある)を掛け、欺瞞へと反転させたのがデカルトの造形である。神学的な「魔」の色を意図的に薄め、欺瞞という一点に特化した狡猾な霊が構想されている。神の枠は動かさず、代役だけを差し替える手つきだと見ると分かりやすい。
  15. ludificationes somniorum——「夢の欺き(もてあそび)」。ludificatio は ludus(遊び・見世物)と facere から成り、「もてあそぶ・愚弄する」の名詞形である。悪しき霊は外界を、私を相手に演じられる見世物として仕立てる。第6段で夢の像が「描かれた絵」に喩えられていたのに対し、ここでは絵ではなく、仕掛けられた演し物になっている。
  16. obfirmata mente cavebo——「精神を固く据えて用心しよう」。cavere は日常語の「用心する」に加えて、ローマ法で「予防的措置を講じる・保証を立てる」を指す術語でもある。真理を得られなくとも、少なくとも虚偽には同意しない——攻めではなく守りの、消極的な自己防衛の宣言としてこの語が選ばれている。第二省察の「私は考える、私はある」は、この守勢の姿勢の内側から現れてくる。
  17. inextricabiles jam motarum difficultatum tenebras——「いま揺り動かされた諸々の困難の、解き解しがたい暗闇」。inextricabilis は「絡んだ縄が解けない」という日常語彙である。第一省察が、決意の宣言ではなく、この不安の吐露で閉じられている点は見過ごせない。デカルトが恐れているのは、疑いを続けた果てに何の光も差さない場合である。労苦に見合う報いがあるかは、この時点では保証されていない。

読み終えたあとに

受け継がれた点。「学問には堅固な出発点が要る」という直観は、これ以後の近代哲学全体の共通の前提となりました。デカルト自身は第二省察で「私は考える、私はある」(Cogito, ergo sum は『方法叙説』のフランス語版に対応する形。『省察』のラテン語本文では Ego sum, ego existo と書かれます)へ進み、この一点から神の存在を経由して外界の確実性を回復する構造を組みます。カントは、この「一点から演繹する」構造そのものを疑いつつも、経験に先立って主観の側にあるものを追及する方向は明らかにデカルトから継承しました。20世紀のフッサール現象学の「エポケー(判断中止)」は、第一省察の「同意の停止」の直系にあたります。

否定・修正された点。批判は同時代から始まっていました。同書に付された「異論と答弁」で、ホッブズ、ガッセンディ、アルノーらが反論を寄せています。

第一に、悪しき霊による普遍的懐疑を経ても「私」が残るという構図が本当に成り立つのか——「考える」の主語は持続する実体でなくてはならないのか、と問われました。ヒュームの束理論はここから来ます。

第二に、デカルトは明晰判明な知覚の確実性を神の誠実さで保証し、その神の存在を明晰判明な知覚で証明する。この論法が循環しているのではないかという指摘は、アルノーが第四異論で既に出しており、「デカルトの循環」として以後くり返し検証されました。

第三に、「感覚は時に欺くが常に欺くわけではない」ことから感覚全体を一律に留保するのは、慎慮の原則の過剰適用ではないか、という指摘があります(オースティン『感覚と可感対象』)。第4段でデカルト自身が置いた反論——欺かれるのは微細なものと遠くのものについてだ——は、実は却下されずに夢の議論へ迂回されている、という読み方です。

第四に、身体を持たぬ「思考する自我」という構想そのものが心身問題を難問化した張本人だ、という指摘は、20世紀の心の哲学における物理主義や、メルロ=ポンティによる身体化された主観の哲学の共通の出発点になっています。

もう一点、第4段の狂気の却下は、ミシェル・フーコー『狂気の歴史』が「デカルトは狂気を論証によってではなく排除によって退けた」と論じ、これにジャック・デリダが反論して、1960年代に長い論争になりました。デカルトが狂人の例を「彼らの例を自分に当てはめれば私も狂って見える」という理由で退けているのは事実で、そこに論証があるかどうかが争点です。

第一省察は、これらの批判を見越して書かれてはいません。それでもなお、批判の側は「地面を掘って土台を露わにする」というデカルト自身の作業の形式を採用して彼を批判しました。この形式が近代哲学の共通の様式になったのです。

原文と訳について/出典

底本。The Latin Library 所収の Descartes: Meditatio Ithelatinlibrary.com/descartes/des.med1.shtml)を底本とし、本文をそのまま採用しました。段落分割と段落番号も底本に従います。綴りは底本の正書法(quàmvitâseriò などのアクセント、coelumquaecunque& の使用)をそのまま残しました。1641年パリ Michel Soly 初版と1642年アムステルダム Elzevir 第二版のあいだには v/u の区別や大文字化に差異がありますが、第一省察の本文に意味の差はありません。

校訂。第4段の fovo assidere は底本の誤植と判断し、foco assidere に改めました(訳注6)。Project Gutenberg 版 Meditationes de prima philosophia(Ebook 23306、gutenberg.org/ebooks/23306)を第二の証人として、この箇所および第9段 non potest dici、第12段 Nec aliter を確認しています。

訂正の記録。本稿は二度の訂正を経ています。

最初に公開した版は、原文を記憶から復元し公開転写と突き合わせる方法で作られており、要所6段のみの対訳でした。その方法では検出できない原文の誤りが3箇所ありました——第2段 omnia esse falsa(正しくは omnes esse falsas)、第9段 non licet dici(正しくは non potest dici)、第12段 Non aliter(正しくは Nec aliter)。底本の本文を直接採用して組み直し、全12段の完全対訳に改め、訳者要約による連結を全廃しました。

二度目は第9段末尾の訳です。ab eâdem etiam videretur esse alienum permittere ut interdum fallar を「その同じ善性からいって別段矛盾しないと見えるだろう」と訳していましたが、これは意味の反転でした。alienus ab は「〜に反する・相容れない」であり、正しくは「時に欺かれるのを許すこともまた、その同じ善性に反すると見えるだろう」です。デカルトは常時の欺きと時おりの欺きを同じ天秤に載せており、両者を切り離してはいません。この誤りは、原文を訂正したときに当該段の訳を作り直さず、旧訳の骨格を残したまま末尾だけ継ぎ当てたために生じたものです。訳と .gloss と訳注12を書き直しました。読者のご指摘によります。

次に読むなら

  • デカルト『第二省察』 — 本篇の続き。悪しき霊の仮定のなかから「私は考える、私はある」が現れ、蜜蝋の分析へ進む。第一省察の1.5倍ほどの長さ。
  • アントワーヌ・アルノー「第四異論」(『省察』所収、1641年) — デカルトの循環を初めて指摘した文書。デカルトの答弁と併せて読むと、方法的懐疑の内在的困難が見える。
  • カント『純粋理性批判』「純粋理性の誤謬推理」章 — 「私は考える」から「私は実体である」への移行を、カントが誤謬推理として分析した箇所。デカルト以後の哲学がどこで彼を離れたかがわかる。