Meditatio Prima: De iis quae in dubium revocari possunt
1641年、パリ。デカルトは45歳。すでに『方法叙説』(1637)で自らの哲学の要綱を仏語で公にしていましたが、そこで示した「疑いうるものはすべていったん退ける」という方法の、正式な、ラテン語による、学者に向けた提示——それが本書『第一哲学についての省察』の六つの省察です。Meditationes は日々の観想ではなく、六日間にわたる魂の訓練としての実修(イエズス会の霊操 Exercitia spiritualia がそう呼ばれていました)を借りた形式で、読み手を「私」と共に一日ずつ辿らせる、一人称の哲学書です。
第一省察は、そのうちの初日にあたります。ここでデカルトは、これから六日かけて建て直そうとする学問の、いわば地ならしをする。目的は懐疑ではありません——堅固な学問のための、地面の掘削です。彼はまず「意見を一つずつ検分するのは無駄だ、それらが立っている原理を掘り崩せばよい」という運用規則を敷き、そのうえで感覚、夢、神、そして最後に「悪意の霊」という順に、疑いを最上流へと遡らせていきます。有名な「悪しき霊」genius malignus は、この省察の締めくくりに、それまでの全ての疑いを一挙にまとめる装置として登場します。
読者への注意を一つ。デカルトは「感覚は常に欺く」とは書いていません。「時に欺く」だけです。そして「二と三を足す」計算が疑いうるとしたとき、彼は本気で二足す三が五でないかもしれないと信じているわけでもありません。第一省察は真理の停止ではなく、同意の停止を訓練する場です——真か偽か決まる前に、いったん同意を差し控える練習。これができて初めて、次の第二省察の「私は考える、私はある」という肯定が意味を持つ。第一省察を「デカルトが本気で世界を疑った日」として読むと、たいてい話が捻れます。
この省察には、訳語の選択が争われる鍵語が複数あります。日本語では区別が消えやすいので、あらかじめ表にしておきます。表内の左列がラテン語の原語、中央が読み方の目安、右列が本稿での訳語とその含みです。
| 原語 | 読み | 訳と意味 |
| meditatio | メディタチオ | 省察。単なる観想ではなく、書き手と読み手が共に歩む「省みの実践」。六日間の霊操になぞらえた形式。 |
| opinio | オピニオ | 意見。日常の思い込みと、それまで学問として受け入れてきた命題の両方を含む。 |
| assensio | アッセンシオ | 同意。判断を下すこと。デカルトは「同意」の側から真偽の問題を整理する——同意を保留すれば、その命題は真偽の場から一時撤退する。 |
| dubium | ドゥビウム | 疑い。真偽を保留する状態。「疑わしい」dubius と「疑わしいままにする」dubitare の名詞形。 |
| eversio | エウェルシオ | 覆し・総崩し。〈上に建てられたもの〉と〈土台〉を分けたうえで、土台を掘り崩す作業。単なる「否定」ではない。 |
| fundamentum | フンダメントゥム | 基礎・土台。上に積まれた諸命題を支える原理。デカルトは「fundamenta 複数」と書く——単一の絶対的な基礎ではなく、複数の支え。 |
| sensus | センスス | 感覚。五感、そして五感由来の知識全般。a sensibus(感覚から)と per sensus(感覚を経由して)の並置が本文に置かれる。 |
| prudentia | プルデンティア | 慎慮。実践的な賢明さ。第一撃を「証明」ではなく「慎慮」に負わせる書き方が独特。 |
| imaginatio | イマギナチオ | 想像力。夢の議論で、実物なしでも像を組み立てる能力として登場。ただし像は無から作れず、〈より単純な素材〉を必要とする。 |
| ratio | ラチオ | 理性。ここでは「懐疑を運用する規則」を説き明かす能力として現れる。ratio dubitandi(疑いの理由)という熟語も第2段に。 |
| Deum, fontem veritatis | デウム フォンテム | 真理の泉たる神。最も伝統的な神の呼び名。この神が第9段では〈万能なるが故に欺きうる神〉として、第12段では〈欺かぬ善き神〉として、両様に扱われる。 |
| genius malignus | ゲニウス マリグヌス | 悪しき霊。「悪魔」ではなく——本文に diabolus の語はない——「守護霊 genius」の悪版。ローマ以来の genius 観に、狡猾さと欺瞞への意志を注ぎ込んだデカルトの造形。 |
| fallere / decipere | ファッレレ/デキペレ | 欺く。fallere は「気づかせずに惑わす」、decipere は「陥れる・罠にかける」。悪しき霊は decipio される者に対して仕掛ける deceptor(欺瞞者)と呼ばれる。 |
全12段を、ラテン語原文と現代日本語訳の対訳で示します。段落番号は底本のものです。各段の下に「かみくだくと」を添えました。
1Animadverti jam ante aliquot annos quàm multa, ineunte aetate, falsa pro veris admiserim, & quàm dubia sint quaecunque istis postea superextruxi, ac proinde funditus omnia semel in vitâ esse evertenda, atque a primis fundamentis denuo inchoandum, si quid aliquando firmum & mansurum cupiam in scientiis stabilire; sed ingens opus esse videbatur, eamque aetatem expectabam, quae foret tam matura, ut capessendis disciplinis aptior nulla sequeretur. Quare tamdiu cunctatus sum ut deinceps essem in culpâ, si quod temporis superest ad agendum, deliberando consumerem. Opportune igitur hodie mentem curis omnibus exsolvi, securum mihi otium procuravi, solus secedo, seriò tandem & libere generali huic mearum opinionum eversioni vacabo.
私は数年前からすでに気づいていた——若い頃、どれほど多くの偽なるものを真として受け入れてきたか、そしてその上に後から積み上げてきたものが、いかに疑わしいものであるか、それゆえ、もし何か堅固で持続するものをいつか諸学問のうちに打ち立てたいと願うなら、生涯に一度、根こそぎ全てを覆し、最初の基礎からもう一度始めなくてはならないと。だが、それは巨大な仕事だと思えた。だから私は、諸学に取り組むのにこれ以上ふさわしい年齢はもう来ないというほど成熟した齢を待っていた。そのため、あまりに長く延ばしすぎた挙句、残された時間を思案に費やせば、それはもう職務怠慢というものになる、そこまで来てしまっていた。折よく、今日、私は精神をあらゆる心配事から解き放ち、静穏な閑暇を確保し、独り退いた——いよいよ真剣に、そして自由に、この、私の意見全般に対する覆し〔総崩し〕にとりかかろう。
2Ad hoc autem non erit necesse, ut omnes esse falsas ostendam, quod nunquam fortassis assequi possem; sed quia jam ratio persuadet, non minus accurate ab iis quae non plane certa sunt atque indubitata, quàm ab aperte falsis assensionem esse cohibendam, satis erit ad omnes rejiciendas, si aliquam rationem dubitandi in unâquâque reperero. Nec ideo etiam singulae erunt percurrendae, quod operis esset infiniti; sed quia, suffossis fundamentis, quidquid iis superaedificatum est sponte collabitur, aggrediar statim ipsa principia, quibus illud omne quod olim credidi nitebatur.
だがそのためには、それら〔の意見〕がすべて偽であることを示す必要はない——それはおそらく決して果たしえまい。すでに理性が説き明かしているのはこうだ——完全に確実で疑い得ないとは言えぬものからも、明らかに偽なるものからと同じくらい入念に、同意を差し控えるべきである、と。したがって、すべてを退けるには、その一つひとつに何かしら疑いの余地を見つけさえすれば十分である。だからといって、意見の一つずつを片端から検分する必要もない——それは無限の労になろう。ところが、基礎を掘り崩せば、その上に建てられたものは自ずと崩れ落ちるから、私は直ちに、私がかつて信じていた一切がそこに支えられていた当の諸原理へと切り込んでいこう。
3Nempe quidquid hactenus ut maxime verum admisi, vel a sensibus, vel per sensus accepi; hos autem interdum fallere deprehendi, ac prudentiae est nunquam illis plane confidere qui nos vel semel deceperunt.
言うまでもなく、私がこれまで最も真であるとして受け入れてきたもの一切は、感覚から、あるいは感覚を経由して受け取ったものである。ところが、この感覚が時に欺くことを、私はすでに経験している。そして、一度でも我々を欺いた者を全面的に信頼しないというのが、慎慮というものだ。
4Sed forte, quamvis interdum sensus circa minuta quaedam & remotiora nos fallant, pleraque tamen alia sunt de quibus dubitari plane non potest, quamvis ab iisdem hauriantur: ut jam me hîc esse, foco assidere, hyemali togâ esse indutum, chartam istam manibus contrectare, & similia. Manus verò has ipsas, totumque hoc corpus meum esse, quâ ratione posset negari? nisi me forte comparem nescio quibus insanis, quorum cerebella tam contumax vapor ex atrâ bile labefactat, ut constanter asseverent vel se esse reges, cùm sunt pauperrimi, vel purpurâ indutos, cùm sunt nudi, vel caput habere fictile, vel se totos esse cucurbitas, vel ex vitro conflatos; sed amentes sunt isti, nec minùs ipse demens viderer, si quod ab iis exemplum ad me transferrem.
とはいえ、感覚がある種の微細なもの、また遠くにあるものについて時に我々を欺くとしても、それでもなお、およそ疑うことのできない他の多くのことがある——たとえそれらが同じ感覚から汲み取られているとしても。たとえば、いま私がここにいること、炉端に座っていること、冬着をまとっていること、この紙を手で触れていること、その類のことである。それにこの手そのものが、そしてこの身体の全体が私のものであることを、どんな理屈で否定できようか。私が自分をどこぞの狂人になぞらえでもしないかぎりは——彼らは、頑固な黒胆汁の蒸気が脳をそこなっているために、この上なく貧しいのに自分は王だと言い張り、裸なのに緋の衣をまとっていると言い、頭が土器でできているとか、自分は丸ごと南瓜であるとか、ガラスから吹き成されているとか、そんなことを絶えず主張する。だがあの者たちは正気を失っているのであり、彼らから何か一例でも自分に当てはめるとすれば、私自身も彼らに劣らず狂って見えることだろう。
5Praeclare sane, tanquam non sim homo qui soleam noctu dormire, & eadem omnia in somnis pati, vel etiam interdum minùs verisimilia, quàm quae isti vigilantes. Quàm frequenter verò usitata ista, me hîc esse, togâ vestiri, foco assidere, quies nocturna persuadet, cùm tamen positis vestibus jaceo inter strata! Atqui nunc certe vigilantibus oculis intueor hanc chartam, non sopitum est hoc caput quod commoveo, manum istam prudens & sciens extendo & sentio; non tam distincta contingerent dormienti. Quasi scilicet non recorder a similibus etiam cogitationibus me aliàs in somnis fuisse delusum; quae dum cogito attentius, tam plane video nunquam certis indiciis vigiliam a somno posse distingui, ut obstupescam, & fere hic ipse stupor mihi opinionem somni confirmet.
実に見事なことだ——まるで私が、夜ごと眠り、夢のなかでそれと同じ一切を、いや時にはあの目覚めている者たちが経験するよりもっと真実らしからぬことまで、経験する人間ではないかのように。それにしてもどれほど頻繁に、あの見慣れた事柄——私がここにいる、着物をまとっている、炉端に座っている——を、夜の休息は私に信じ込ませることか。しかも実際には、私は着物を脱いで寝床のあいだに横たわっているというのに。しかし今はどうだ、確かに私は目覚めた眼でこの紙を見ている。私が動かしているこの頭は眠っていない。この手を、思慮をもって、そうと知りつつ伸ばし、そして感じている。眠っている者に、これほど判明なことが起こりはすまい。——まるで私が、これと似た考えに夢のなかで欺かれたことが以前にもあったのを、思い出しもしないかのようではないか。このことをより注意深く考えるにつれ、目覚めと眠りとを確かな徴によって見分けることは決してできないと、あまりにも明白に見えてきて、私は呆然とする。そしてこの呆然自体が、ほとんど、私はいま夢を見ているのだという見方を、私に裏づけてしまうのである。
6Age ergo somniemus, nec particularia ista vera sint, nos oculos aperire, caput movere, manus extendere, nec forte etiam nos habere tales manus, nec tale totum corpus; tamen profecto fatendum est visa per quietem esse veluti quasdam pictas imagines, quae non nisi ad similitudinem rerum verarum fingi potuerunt; ideoque saltem generalia haec, oculos, caput, manus, totumque corpus, res quasdam non imaginarias, sed veras existere. Nam sane pictores ipsi, ne tum quidem, cùm Sirenas & Satyriscos maxime inusitatis formis fingere student, naturas omni ex parte novas iis possunt assignare, sed tantummodo diversorum animalium membra permiscent; vel si forte aliquid excogitent adeo novum, ut nihil omnino ei simile fuerit visum, atque ita plane fictitium sit & falsum, certe tamen ad minimum veri colores esse debent, ex quibus illud componant. Nec dispari ratione, quamvis etiam generalia haec, oculi, caput, manus, & similia, imaginaria esse possent, necessario tamen saltem alia quaedam adhuc magis simplicia & universalia vera esse fatendum est, ex quibus tanquam coloribus veris omnes istae, seu verae, seu falsae, quae in cogitatione nostrâ sunt, rerum imagines effinguntur.
では夢を見ていることにしよう。この個々のこと——私は目を開ける、頭を動かす、手を伸ばす——が真ではないとしよう。おそらくは、こんな手も、こんな体そのものも、我々は持たないのだとしよう。それでもやはり、これだけは認めなくてはならない——眠りのなかで見えているものは、いわば描かれた絵のようなものであって、それらは、真の事物との相似のうえに以外は、作り得なかった、と。したがって少なくともこれら一般的なもの、すなわち目、頭、手、そして身体の全体は、想像上のものではなく、真なる何ものかとして存在する、と。実際、画家たちにしてからが、セイレーンやサテュロスの類を、この上なく異様な形で描き出そうと励むそのときでさえ、あらゆる点で新しい本性をそれらに与えることはできず、ただ異なった動物の肢体を混ぜ合わせているにすぎない。あるいはもし彼らが何か、それに似たものがおよそ何一つ見られたことがないほど新奇なものを考え出し、こうしてまったくの作りものであり偽であるものを描いたとしても、それでもなお、少なくともそれを組み立てるもとになる絵の具だけは、真のものでなくてはならない。それと違わぬ理屈で、たとえこれら一般的なもの——目、頭、手、その類——さえもが想像上のものであり得るとしても、それでもなお必然的に、少なくともこれよりさらに単純で普遍的な他の何ものかが真である、と認めなくてはならない。真の絵の具のようなそれらから、我々の思考のうちにある、真であれ偽であれ、事物のあらゆる像が描き出されるのである。
7Cujus generis esse videntur natura corporea in communi, ejusque extensio; item figura rerum extensarum; item quantitas, sive earumdem magnitudo & numerus; item locus in quo existant, tempusque per quod durent, & similia.
その類のものと思われるのは、物体的本性一般と、その延長である。同じく、延長されたものの形。同じく、量、すなわちそれらの大きさと数。同じく、それらが存在する場所、それらが持続する時間、そしてその類のものである。
8Quapropter ex his forsan non male concludemus Physicam, Astronomiam, Medicinam, disciplinasque alias omnes, quae a rerum compositarum consideratione dependent, dubias quidem esse; atqui Arithmeticam, Geometriam, aliasque ejusmodi, quae nonnisi de simplicissimis & maxime generalibus rebus tractant, atque utrum eae sint in rerum naturâ necne, parum curant, aliquid certi atque indubitati continere. Nam sive vigilem, sive dormiam, duo & tria simul juncta sunt quinque, quadratumque non plura habet latera quàm quatuor; nec fieri posse videtur ut tam perspicuae veritates in suspicionem falsitatis incurrant.
それゆえ、これらのことから、おそらく次のように結論しても間違いではあるまい——物理学、天文学、医学、その他、複合された事物の考察に依存する学問はすべて、確かに疑わしい。しかし算術、幾何学、およびその類の、最も単純で最も一般的な事柄だけを扱い、それらが事物の本性のうちに在るか否かをほとんど気にかけない学問は、何か確実で疑い得ないものを含んでいる、と。というのも、私が目覚めていようと眠っていようと、二と三を合わせれば五であり、正方形は四つより多くの辺を持ちはしない。これほど明々白々な真理が、偽であるという疑いを招くことがあり得るとは思われないのである。
9Verumtamen infixa quaedam est meae menti vetus opinio, Deum esse qui potest omnia, & a quo talis, qualis existo, sum creatus. Unde autem scio illum non fecisse ut nulla plane sit terra, nullum coelum, nulla res extensa, nulla figura, nulla magnitudo, nullus locus, & tamen haec omnia non aliter quàm nunc mihi videantur existere? Imò etiam, quemadmodum judico interdum alios errare circa ea quae se perfectissime scire arbitrantur, ita ego ut fallar quoties duo & tria simul addo, vel numero quadrati latera, vel si quid aliud facilius fingi potest? At forte noluit Deus ita me decipi, dicitur enim summe bonus; sed si hoc ejus bonitati repugnaret, talem me creasse ut semper fallar, ab eâdem etiam videretur esse alienum permittere ut interdum fallar; quod ultimum tamen non potest dici.
とはいえ、私の精神には一つの古い意見が根深く植えつけられている——万能なる神が存在し、私は今このようにあるものとして、その神によって創られたのだ、と。しかしそれなら、地というものが全く存せず、天も、延長された物も、形も大きさも場所も、何一つ存しないのに、それでいて、これら全てが、まさに今のように私に存在すると見えるように、神が仕組まなかったと、どうして私に分かるだろう。いや、それどころか——他人が、自分は完璧に知っていると信じ込んでいる事柄について、時として誤っていると私が判断するのと同じく、私自身も、二と三を足すたびに、あるいは正方形の辺を数えるたびに、あるいはそれよりもっと平易に案じられる他の何かにおいて、誤らされている、ということが有り得ないだろうか。とはいえ、おそらく、神は私がそのように欺かれることを望まなかったのだ——神は最も善なるものと言われるのだから。しかし、私が常に欺かれるように私を創ったこと、それが神の善性に反するというのであれば、時に欺かれるのを許すこともまた、その同じ善性に反すると見えるだろう。もっとも、この後のほうは、そう言うことができない。
10Essent verò fortasse nonnulli qui tam potentem aliquem Deum mallent negare, quàm res alias omnes credere esse incertas. Sed iis non repugnemus, totumque hoc de Deo demus esse fictitium; at seu fato, seu casu, seu continuatâ rerum serie, seu quovis alio modo me ad id quod sum pervenisse supponant; quoniam falli & errare imperfectio quaedam esse videtur, quo minùs potentem originis meae authorem assignabunt, eo probabilius erit me tam imperfectum esse ut semper fallar. Quibus sane argumentis non habeo quod respondeam, sed tandem cogor fateri nihil esse ex iis quae olim vera putabam, de quo non liceat dubitare, idque non per inconsiderantiam vel levitatem, sed propter validas & meditatas rationes; ideoque etiam ab iisdem, non minùs quàm ab aperte falsis, accurate deinceps assensionem esse cohibendam, si quid certi velim invenire.
だがおそらく、これほど力ある神が存在することを否定するほうを、他の一切の事柄を不確実だと信じるよりも好む者たちもいるだろう。彼らに逆らうのはよそう。神についてのこの一切は、まるごと作りごとだと認めてしまおう。しかし、彼らが、私が今あるところのものに到達したのは、運命によってであれ、偶然によってであれ、事物の連続した系列によってであれ、その他どんな仕方によってであれ、と想定するとしよう——欺かれること、誤ることは、何らかの不完全性であると思われるのだから、彼らが私の起源の作り手をより力の乏しいものとして割り当てれば割り当てるほど、私が常に欺かれるほど不完全なものである見込みは、それだけ高くなるのである。こうした論に対して、私には答えるべきものが実際にない。そしてついに認めざるを得なくなる——かつて私が真だと思っていたもののうちに、疑うことが許されぬものは何一つない、と。しかもそれは軽率さや軽薄さによってではなく、堅固で熟慮された理由によってなのだ。それゆえ、もし何か確実なものを見出したいと望むなら、以後は、これらのものからも、明らかに偽なるものからと同じくらい入念に、同意を差し控えなくてはならない。
11Sed nondum sufficit haec advertisse, curandum est ut recorder; assidue enim recurrunt consuetae opiniones, occupantque credulitatem meam tanquam longo usu & familiaritatis jure sibi devinctam, fere etiam me invito; nec unquam iis assentiri & confidere desuescam, quamdiu tales esse supponam quales sunt revera, nempe aliquo quidem modo dubias, ut jam jam ostensum est, sed nihilominus valde probabiles, & quas multo magis rationi consentaneum sit credere quàm negare. Quapropter, ut opinor, non male agam, si, voluntate plane in contrarium versâ, me ipsum fallam, illasque aliquandiu omnino falsas imaginariasque esse fingam, donec tandem, velut aequatis utrimque praejudiciorum ponderibus, nulla amplius prava consuetudo judicium meum a rectâ rerum perceptione detorqueat. Etenim scio nihil inde periculi vel erroris interim sequuturum, & me plus aequo diffidentiae indulgere non posse, quandoquidem nunc non rebus agendis, sed cognoscendis tantùm incumbo.
しかし、これらのことに気づいただけではまだ足りない。忘れずにいるよう心を配らねばならない。というのも、慣れ親しんだ意見が絶えず戻ってきて、私の軽信を占領してしまうからだ——長い使用と親しさの権利によって、その軽信を自分に縛りつけたかのように、しかもほとんど私の意に反して。そして、それらの意見が実際にそうであるところのもの、すなわち、たしかに何らかの仕方では疑わしいものの、それでもなお大いに真実らしく、否定するよりは信じるほうがはるかに理にかなっている——そういうものだと私が想定しつづけるかぎり、私はそれらに同意し信頼する習慣から、決して抜け出せはしない。それゆえ、私の考えでは、こうするのが悪くないやり方だろう。意志をそっくり反対側へ振り向けて、私自身を欺くのである。それらの意見をしばらくのあいだ、まったく偽であり想像上のものであると見なしてしまう。そうしてついには、両側の先入見の重りが釣り合わされたかのようになり、いかなる悪しき習慣も、もはや私の判断を事物の正しい知覚から捩じ曲げることがなくなるまで。実際、そこから危険も誤りも当座は生じないと私は知っているし、また、いま私は行為すべき事柄にではなく、認識すべき事柄にのみ携わっているのだから、不信をほどほど以上に甘やかすことはできないのである。
12Supponam igitur non optimum Deum, fontem veritatis, sed genium aliquem malignum, eundemque summe potentem & callidum, omnem suam industriam in eo posuisse, ut me falleret: putabo coelum, aërem, terram, colores, figuras, sonos, cunctaque externa nihil aliud esse quàm ludificationes somniorum, quibus insidias credulitati meae tetendit: considerabo meipsum tanquam manus non habentem, non oculos, non carnem, non sanguinem, non aliquem sensum, sed haec omnia me habere falsò opinantem: manebo obstinate in hac meditatione defixus, atque ita, siquidem non in potestate meâ sit aliquid veri cognoscere, at certe hoc quod in me est, ne falsis assentiar, nec mihi quidquam iste deceptor, quantumvis potens, quantumvis callidus, possit imponere, obfirmatâ mente cavebo. Sed laboriosum est hoc institutum, & desidia quaedam ad consuetudinem vitae me reducit. Nec aliter quàm captivus, qui forte imaginariâ libertate fruebatur in somnis, cùm postea suspicari incipit se dormire, timet excitari, blandisque illusionibus lente connivet: sic sponte relabor in veteres opiniones, vereorque expergisci, ne placidae quieti laboriosa vigilia succedens, non in aliquâ luce, sed inter inextricabiles jam motarum difficultatum tenebras, in posterum sit degenda.
そこで私は、〈真理の泉たる至善の神〉ではなく、〈ある悪意の霊、しかも最強にして最も狡猾なる者〉が、私を欺くためにその全産業を注ぎ込んだ、と仮定することにしよう。天も、大気も、地も、色も、形も、音も、その他あらゆる外界のものは、この霊が私の軽信に仕掛けた罠——夢の欺きに過ぎない、と思うことにする。私自身を、手を持たないもの、目も、肉も、血も、いかなる感覚をも持たないもの、しかしこれら全てを持っていると誤って思い込む者として、考えるとしよう。私はこの瞑想のうちに堅く定まって留まる。そうすれば、たとえ私に真なる何ものかを知ることが力の及ぶところでないとしても、少なくとも私にできること——虚偽に同意しないこと、この欺瞞者がいくら強かろうと、いくら狡猾であろうと、私に何ものかを押しつけることができぬよう——それだけは、精神を固く据えて用心しよう。しかし、この方針は労多く、ある種の怠惰が、私を生活の慣れの方へと引き戻す。ちょうど、たまさか夢のなかで想像上の自由を享受していた囚人が、後になって、自分が眠っているのだと疑い始めるとき、目覚めることを恐れて、その甘美な幻に緩やかに目を細めるように——そのように、私もまた自ずと、古い意見へと滑り戻ってしまう。そして目覚めることが恐ろしくなる——この静穏な眠りに、労苦に満ちた覚醒が続くとき、それが何らかの光のなかでではなく、いま揺り動かされた諸々の困難の、解き解しがたい暗闇のなかで、この先ずっと過ごさねばならなくなるのではないか、と。
受け継がれた点。「学問には堅固な出発点が要る」という直観は、これ以後の近代哲学全体の共通の前提となりました。デカルト自身は第二省察で「私は考える、私はある」(Cogito, ergo sum は『方法叙説』のフランス語版に対応する形。『省察』のラテン語本文では Ego sum, ego existo と書かれます)へ進み、この一点から神の存在を経由して外界の確実性を回復する構造を組みます。カントは、この「一点から演繹する」構造そのものを疑いつつも、経験に先立って主観の側にあるものを追及する方向は明らかにデカルトから継承しました。20世紀のフッサール現象学の「エポケー(判断中止)」は、第一省察の「同意の停止」の直系にあたります。
否定・修正された点。批判は同時代から始まっていました。同書に付された「異論と答弁」で、ホッブズ、ガッセンディ、アルノーらが反論を寄せています。
第一に、悪しき霊による普遍的懐疑を経ても「私」が残るという構図が本当に成り立つのか——「考える」の主語は持続する実体でなくてはならないのか、と問われました。ヒュームの束理論はここから来ます。
第二に、デカルトは明晰判明な知覚の確実性を神の誠実さで保証し、その神の存在を明晰判明な知覚で証明する。この論法が循環しているのではないかという指摘は、アルノーが第四異論で既に出しており、「デカルトの循環」として以後くり返し検証されました。
第三に、「感覚は時に欺くが常に欺くわけではない」ことから感覚全体を一律に留保するのは、慎慮の原則の過剰適用ではないか、という指摘があります(オースティン『感覚と可感対象』)。第4段でデカルト自身が置いた反論——欺かれるのは微細なものと遠くのものについてだ——は、実は却下されずに夢の議論へ迂回されている、という読み方です。
第四に、身体を持たぬ「思考する自我」という構想そのものが心身問題を難問化した張本人だ、という指摘は、20世紀の心の哲学における物理主義や、メルロ=ポンティによる身体化された主観の哲学の共通の出発点になっています。
もう一点、第4段の狂気の却下は、ミシェル・フーコー『狂気の歴史』が「デカルトは狂気を論証によってではなく排除によって退けた」と論じ、これにジャック・デリダが反論して、1960年代に長い論争になりました。デカルトが狂人の例を「彼らの例を自分に当てはめれば私も狂って見える」という理由で退けているのは事実で、そこに論証があるかどうかが争点です。
第一省察は、これらの批判を見越して書かれてはいません。それでもなお、批判の側は「地面を掘って土台を露わにする」というデカルト自身の作業の形式を採用して彼を批判しました。この形式が近代哲学の共通の様式になったのです。
底本。The Latin Library 所収の Descartes: Meditatio I(thelatinlibrary.com/descartes/des.med1.shtml)を底本とし、本文をそのまま採用しました。段落分割と段落番号も底本に従います。綴りは底本の正書法(quàm、vitâ、seriò などのアクセント、coelum、quaecunque、& の使用)をそのまま残しました。1641年パリ Michel Soly 初版と1642年アムステルダム Elzevir 第二版のあいだには v/u の区別や大文字化に差異がありますが、第一省察の本文に意味の差はありません。
校訂。第4段の fovo assidere は底本の誤植と判断し、foco assidere に改めました(訳注6)。Project Gutenberg 版 Meditationes de prima philosophia(Ebook 23306、gutenberg.org/ebooks/23306)を第二の証人として、この箇所および第9段 non potest dici、第12段 Nec aliter を確認しています。
訂正の記録。本稿は二度の訂正を経ています。
最初に公開した版は、原文を記憶から復元し公開転写と突き合わせる方法で作られており、要所6段のみの対訳でした。その方法では検出できない原文の誤りが3箇所ありました——第2段 omnia esse falsa(正しくは omnes esse falsas)、第9段 non licet dici(正しくは non potest dici)、第12段 Non aliter(正しくは Nec aliter)。底本の本文を直接採用して組み直し、全12段の完全対訳に改め、訳者要約による連結を全廃しました。
二度目は第9段末尾の訳です。ab eâdem etiam videretur esse alienum permittere ut interdum fallar を「その同じ善性からいって別段矛盾しないと見えるだろう」と訳していましたが、これは意味の反転でした。alienus ab は「〜に反する・相容れない」であり、正しくは「時に欺かれるのを許すこともまた、その同じ善性に反すると見えるだろう」です。デカルトは常時の欺きと時おりの欺きを同じ天秤に載せており、両者を切り離してはいません。この誤りは、原文を訂正したときに当該段の訳を作り直さず、旧訳の骨格を残したまま末尾だけ継ぎ当てたために生じたものです。訳と .gloss と訳注12を書き直しました。読者のご指摘によります。