齊物論
戦国の世には、議論が仕事になった時期がある。国から国へ渡る士たちが、王の前で、また学派の門で、何が是で何が非かを争った。この篇の本文にも、その現場がそのまま顔を出す。「儒・墨の是非」——たがいに相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非とする(第4段)。指と馬、堅と白(第6段・第7段)は、当時、名と実の関係をめぐって組まれていた議論の型である。琴の名手や楽師と並べて「梧に據る」と書かれる惠子も、その議論の側の人として本文に置かれている(第7段)。
『荘子』内篇の第二篇。この篇は、その争いの現場に入っていきながら、どちらが正しいかを裁定しない。かわりに、争いが成り立っている仕組みのほうへ回り込む。是と非とはたがいを支えにして立つ(第5段)、区切りは道にもとからあるのではなく〈是〉を立てることでできる(第10段)、出来上がった心をそのまま師とするなら誰にでも師はある(第4段)——こうして、争いを勝たせも負けさせもせず、争いが要求している足場のほうを外していく。
形は論文ではない。対話(子綦と子游、齧缺と王倪、瞿鵲子と長梧子、罔両と影)、寓話(猿と木の実、麗姫、胡蝶)、硬い理屈(彼是・方生・道樞)、そして詩に近い連なり(「大知は閑閑、小知は閒閒」)が入れ替わる。結論へ一直線には進まない。同じ主題が角度を変えて戻ってくる——「莫若以明(明をもってするに如くはない)」は三度、「因是(是に因る)」は数度。読み終えたところが着地点とはかぎらない。
読む前に一つ。この篇は、言葉を疑いながら言葉で書かれている。しかもそれを自分から言う。第8段で、始めの前の前を数え上げたあと、「いま私はすでに謂ってしまった。しかし私の謂ったことが、はたして何かを謂ったことになるのか、分からない」と書く。破綻ではなく、そういう文章として組まれている。主張を取り出そうとするより、言い方が自分で自分を外していく運びを追うほうが、この篇には合う。なお題の「齊物論」は「齊物・論」(物をひとしくする論)とも「齊・物論」(もろもろの議論をひとしくする)とも切れて、本文にはその両方の材料がある。どちらかに決めないまま読んで差し支えない。
訳語の割れる語だけを挙げる。「訳と意味」は本訳が採った読みであって、どれも唯一の読みではない。段の番号は対訳の段に対応する。
| 原語 | 読み | 訳と意味 |
| 齊物論 | せいぶつろん | 題名。「齊物・論」とも「齊・物論」とも切れる。前者なら物を等しく見る論、後者なら諸説を等しくならすこと。古注以来の両説で、本文にはどちらの材料もある。 |
| 吾喪我 | われ、われをうしなう | 第1段。「吾」と「我」を書き分けている。失われる側の〈我〉を、身についた自分・立場と取るか、他と対をなす自分と取るかで、篇全体の入口が変わる。 |
| 天籟 | てんらい | 第1段。人籟(竹の笛)・地籟(風と穴)に続く三つ目。本文は正面から定義せず、「万に吹いて同じからず、みなそれ自ら取る。怒らせるのは誰か」とだけ言う。吹く主体を立てない読みが有力だが、争いがある。 |
| 成心 | せいしん | 第4段。すでに出来上がってしまった心。「先入見」と負に取る説と、「各人に具わった心のかたち」と中立に取る説がある。前者なら批判、後者なら事実の指摘になる。 |
| 因是 | いんぜ | 「是に因る」。本篇の鍵語で繰り返し出る(第5・6・9段)。争う当人の〈是〉にそのまま従うと取る説と、〈おのずからそうであること〉に乗ると取る説がある。「因非」と対にもなる。 |
| 以明 | もってあきらかにす | 第4・5・7段の締めに三度。「明をもってする」。何の明かは書かれない。是非を照らし分ける明とも、是非を用いないことそれ自体とも読まれる。 |
| 道樞 | どうすう | 第5段。「道の枢(とぼそ)」、戸を回す軸。〈彼〉と〈是〉がその対(つれあい)を得られなくなったところを言う。続く「環中」(輪の中心)も同じ像。 |
| 兩行 | りょうこう | 第6段。どちらか一方を殺さず、両方を行かせる。折衷でも中立でもなく、是非の双方をそのまま立たせておくこと。 |
| 天鈞 | てんきん | 第6段。「天均」に作る本もある。ひとしさと取る説と、轆轤(ろくろ)——回る台——と取る説がある。本文では聖人が休む場所として置かれている。 |
| 葆光 | ほうこう | 第10段。おおわれた光。注ぎ入れても満ちず、汲んでも尽きず、どこから来るか分からないもの。「不言の辯、不道の道」を知る者に与えられた名。 |
| 封/畛 | ほう/しん | 第7・10段。物と物との区切り、田のあぜ。もとは無く、〈是〉を立てることによって生じるとされる。 |
| 物化 | ぶっか | 第13段の最後の一語。周と胡蝶には「必ず分(わけめ)がある」と言った直後に置かれる。「物の変化」とも「物としての移り」とも訳され、締めくくりの解釈がここで分かれる。 |
南郭子綦隱几而坐,仰天而噓,嗒焉似喪其耦。顏成子游立侍乎前,曰:「何居乎?形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎?今之隱几者,非昔之隱几者也。」子綦曰:「偃,不亦善乎而問之也!今者吾喪我,汝知之乎?女聞人籟而未聞地籟,女聞地籟而未聞天籟夫!」子游曰:「敢問其方。」子綦曰:「夫大塊噫氣,其名為風。是唯无作,作則萬竅怒呺。而獨不聞之翏翏乎?山林之畏佳,大木百圍之竅穴,似鼻,似口,似耳,似枅,似圈,似臼,似洼者,似污者;激者,謞者,叱者,吸者,叫者,譹者,宎者,咬者,前者唱于而隨者唱喁。泠風則小和,飄風則大和,厲風濟則眾竅為虛。而獨不見之調調、之刁刁乎?」子游曰:「地籟則眾竅是已,人籟則比竹是已。敢問天籟。」子綦曰:「夫吹萬不同,而使其自已1也,咸其自取,怒者其誰邪!」
南郭子綦(なんかくしき)が脇息にもたれて坐り、天を仰いで息を吐いた。ぼんやりと気の抜けたさまで、自分の耦(つれあい)を失ってしまったかのようであった。顔成子游(がんせいしゆう)が前に立って侍り、こう言った。「これはどうなさったのですか。からだはもとより枯れ木のようにさせることができ、心はもとより死んだ灰のようにさせることができるものなのでしょうか。今、脇息にもたれておられる方は、以前、脇息にもたれておられた方ではありません。」 子綦は言った。「偃(えん)よ、お前がそれを問うたのは、なんとよいことではないか。今しがた吾は我を喪ったのだ。お前にそれが分かるか。お前は人籟(じんらい)を聞いてはいても、まだ地籟を聞いていない。地籟を聞いてはいても、まだ天籟を聞いていないのだ。」 子游「そのやり方をおたずねします。」 子綦「そもそも大いなる土くれ〔大地〕が気を吐き出す、その名を風という。風はただ起こらずにいるだけであって、ひとたび起これば万の孔(あな)がいっせいに怒って吼える。あの長く吹き渡る音を、お前だけは聞いたことがないというのか。山や林の険しく高いあたり、ひとかかえ百もある大木の孔や穴——鼻に似たもの、口に似たもの、耳に似たもの、枡形(ますがた)に似たもの、杯に似たもの、臼に似たもの、深い窪みに似たもの、浅い水たまりに似たもの。〔そこから出る音は〕水がぶつかる音、矢が空を切る音、叱る音、吸う音、叫ぶ音、泣きわめく音、深く沈む音、鳥が哀しげに啼くような音。先を行くものが「于(ウー)」と唱えれば、あとに従うものが「喁(グー)」と応じる。そよ風ならば小さく和し、つむじ風ならば大きく和し、烈しい風がやめば、すべての孔はからっぽになる。あの木々が大きく揺れ、小さくそよぐさまを、お前だけは見たことがないというのか。」 子游「地籟とは、あの万の孔がそれなのですね。人籟とは、竹を並べた笛がそれなのですね。天籟をおたずねします。」 子綦「そもそも〔風は〕万のものを吹いて、その音はどれ一つ同じでない。しかも、その一つ一つがおのずから已(や)むようにさせている。どれもみな、それぞれが自分で取ったものだ。〔ならば〕吼えさせている者は、いったい誰なのか。」
大知閑閑,小知閒閒;大言炎炎,小言詹詹。其寐也魂交,其覺也形開,與接為構,日以心鬭。縵者,窖者,密者。小恐惴惴,大恐縵縵。其發若機栝,其司是非之謂也;其留如詛盟,其守勝之謂也;其殺如秋冬,以言其日消也;其溺之所為之,不可使復之也;其厭也如緘,以言其老洫也;近死之心,莫使復陽也。喜怒哀樂,慮嘆變慹,姚佚啟態;樂出虛,蒸成菌。日夜相代乎前,而莫知其所萌。已乎已乎!旦暮得此,其所由以生乎!
大いなる知はゆったりと広く、小さな知はこまごまと隙をうかがう。大いなる言は燃えさかるように盛んで、小さな言はくどくどとやかましい。 眠っているときは魂が交わり、目覚めているときは体が開いて〔外へ向かい〕、触れるものごとにもつれ合いをこしらえ、日々、心をもって闘う。だらだらと構えるもの、落とし穴のように深く仕掛けるもの、目を細かく張りめぐらすもの。小さな恐れにはびくびくと怯え、大きな恐れにはぼんやりと茫然となる。 その発することは弩(いしゆみ)の引き金と矢筈のよう——是非を見張って射るということである。その黙って留まることは誓いの言葉のよう——勝ちを守り抜くということである。その衰えることは秋から冬へ向かうよう——日ごとに消えていくということである。その溺れてなすところのふるまいは、もはや元へ引き返させることができない。その塞がっていくことは封印のよう——老いて涸れきったということである。死に近づいた心は、もう一度、陽に返らせることができない。 喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。思いわずらい、嘆き、心変わり、こわばり。浮かれ、気ままにふるまい、あけっぴろげになり、気取ってみせる。音楽が空洞から出てくるように、蒸された気が茸(きのこ)を生やすように、〔これらは〕日夜、目の前で入れ替わり立ち替わり現れる。だが、それがどこから萌したのかは誰も知らない。やめよ、やめよ。朝な夕なこれを得ていること、それこそが〔これらの〕生じてくるもとなのだろうか。
非彼無我,非我無所取。是亦近矣,而不知其所為使。若有真宰,而特不得其眹。可行已信,而不見其形,有情而無形。百骸、九竅、六藏,賅而存焉,吾誰與為親?汝皆說之乎?其有私焉?如是皆有,為臣妾乎,其臣妾不足以相治乎。其遞相為君臣乎,其有真君存焉。如求得其情與不得,無益損乎其真。一受其成形,不亡以待盡。與物相刃相靡,其行盡如馳,而莫之能止,不亦悲乎!終身役役而不見其成功,苶然疲役而不知其所歸,可不哀邪!人謂之不死,奚益?其形化,其心與之然,可不謂大哀乎?人之生也,固若是芒乎!其我獨芒,而人亦有不芒者乎!
かの〔情態〕がなければ我はなく、我がなければ〔それらが〕取りつく場もない。これもまた〔真実に〕近い。だが、何がそうさせているのかは分からない。まことの主宰者がいるかのようだ。ただ、そのしるしだけがつかめない。〔そのはたらきが〕行われていることはすでに確かなのに、その形は見えない。実(じつ)はあって形がない。 百の骨、九つの穴、六つの臓——そろって身に具わっている。私はそのどれと親しめばよいのか。お前はそのすべてを悦ぶのか。それとも、ひいきするものがあるのか。このようにみな〔等しく〕具わっているのだとすれば、すべてを臣下や侍女とするのか。臣下や侍女どうしでは、互いを治めるには足りないのではないか。それとも代わるがわる君となり臣となるのか。それとも、そこにまことの君が存(ま)しますのか。その実を求めて、得られようと得られまいと、そのまことには何の益も損もない。 ひとたびこの成った形を受け取れば、それを失わないままで尽き果てるのを待つ。物と刃を交え、擦り減らし合い、その歩みは馬を走らせるように尽きてゆき、誰にもこれを止めることができない。なんと悲しいことではないか。生涯あくせく働いて、その成し遂げたものを見ず、くたびれ果てて疲れきり、帰るところを知らない。哀しまずにいられようか。人がそれを「死んではいない」と言ったところで、何の益があるか。その形が化(か)われば、その心もそれとともにそうなる。大いなる哀しみと言わずにいられようか。人の生とは、もともとこのように暗いものなのか。それとも私だけが暗くて、人には暗くない者もいるのか。
夫隨其成心而師之,誰獨且無師乎?奚必知代而心自取者有之?愚者與有焉。未成乎心而有是非,是今日適越而昔至也。是以無有為有。無有為有,雖有神禹,且不能知,吾獨且柰何哉!夫言非吹也。言者有言,其所言者特未定也。果有言邪?其未嘗有言邪?其以為異於鷇音,亦有辯乎,其無辯乎?道惡乎隱而有真偽?言惡乎隱而有是非?道惡乎往而不存?言惡乎存而不可?道隱於小成,言隱於榮華。故有儒、墨之是非,以是其所非,而非其所是。欲是其所非而非其所是,則莫若以明。
そもそも、その成心に従ってこれを師とするのなら、いったい誰が師を持たずにいられよう。どうして必ず、〔物事の〕移り変わりを知って心が自ら〔師を〕取り出す者だけに、それがあるといえようか。愚か者にもまた〔師は〕ある。心にまだ何も成らないうちに是と非とがあるというのは、今日越へ発って昨日すでに着いた、というのと同じことだ。これは無いものを有るとすることである。無いものを有るとするなら、神のごとき禹であっても知ることはできまい。この私にいったい何ができようか。 そもそも言(ことば)は〔風が〕吹くのとは違う。言う者には言うことがある。ただ、その言うところのものが定まっていないだけだ。はたして言ったことになるのか。それとも、まだ一度も言ってはいないのか。〔人は〕それを雛鳥の声とは違うと思っているが、はたしてそこに区別があるのか、それとも区別はないのか。 道はどこに隠れて真と偽が〔生じたの〕か。言はどこに隠れて是と非が〔生じたの〕か。道はどこへ行ってしまって存(あ)らぬというのか。言はどこに存(あ)って不可だというのか。道は小さな出来上がりに隠れ、言は華やかな飾りに隠れる。だから儒家と墨家の是非が生じて、〔相手が〕非とするものを是とし、〔相手が〕是とするものを非とする。〔相手が〕非とするものを是とし、〔相手が〕是とするものを非としようとするのなら、明〔=あきらかな照らし〕を用いるに越したことはない。
物無非彼,物無非是。自彼則不見,自知則知之。故曰:彼出於是,是亦因彼。彼是,方生之說也。雖然,方生方死,方死方生;方可方不可,方不可方可;因是因非,因非因是。是以聖人不由,而照之于天,亦因是也。是亦彼也,彼亦是也。彼亦一是非,此亦一是非。果且有彼是乎哉?果且無彼是乎哉?彼是莫得其偶,謂之道樞。樞始得其環中,以應無窮。是亦一無窮,非亦一無窮也。故曰「莫若以明」。
物は〈彼(かれ)〉でないものはなく、物は〈是(これ)〉でないものはない。〈彼〉の側からは見えず、自ら知れば知られる。だから言うのだ——〈彼〉は〈是〉から出て、〈是〉もまた〈彼〉によって〔立つ〕、と。〈彼〉と〈是〉とは、並んで生じるという説である。 そうではあるが、生じるそばから死に、死ぬそばから生じる。可であるそばから不可であり、不可であるそばから可である。是に因れば非に因り、非に因れば是に因る。だから聖人はそれ〔=是非のみち〕に由らず、天に照らす。これもまた〈是に因る〉ということだ。 〈是〉もまた〈彼〉であり、〈彼〉もまた〈是〉である。彼〔の側〕にも一つの是非があり、此〔の側〕にも一つの是非がある。はたして〈彼〉と〈是〉の区別はあるのか。はたして無いのか。〈彼〉と〈是〉とがその対(つれあい)を得られない、それを〈道の枢(とぼそ)〉という。枢は、環の中(なか)を得てはじめて、無窮に応じることができる。是もまた一つの無窮であり、非もまた一つの無窮である。だから「明を用いるに越したことはない」と言うのだ。
以指喻指之非指,不若以非指喻指之非指也;以馬喻馬之非馬,不若以非馬喻馬之非馬也。天地,一指也;萬物,一馬也。可乎可,不可乎不可。道行之而成,物謂之而然。惡乎然?然於然。惡乎不然?不然於不然。物固有所然,物固有所可。無物不然,無物不可。故為是舉莛與楹,厲與西施,恢恑憰怪,道通為一。其分也,成也;其成也,毀也。凡物無成與毀,復通為一。唯達者知通為一,為是不用而寓諸庸。庸也者,用也;用也者,通也;通也者,得也。適得而幾矣。因是已。已而不知其然,謂之道。勞神明為一,而不知其同也,謂之朝三。何謂朝三?曰狙公賦芧,曰:「朝三而莫四。」眾狙皆怒。曰:「然則朝四而莫三。」眾狙皆悅。名實未虧,而喜怒為用,亦因是也。是以聖人和之以是非,而休乎天鈞,是之謂兩行。
指をもって〈指が指ではない〉と喩(さと)すのは、指でないものをもって〈指が指ではない〉と喩すのに及ばない。馬をもって〈馬が馬ではない〉と喩すのは、馬でないものをもって〈馬が馬ではない〉と喩すのに及ばない。天地は一つの指であり、万物は一つの馬である。 可とされるところで可であり、不可とされるところで不可である。道は歩まれることで成り、物は呼ばれることでそうなる。どこでそうなのか。そうであるところでそうなのだ。どこでそうでないのか。そうでないところでそうでないのだ。物にはもとよりそうであるところがあり、物にはもとより可であるところがある。そうでない物はなく、可でない物はない。 だからこそ、細い草の茎と太い柱、癩(らい)を病む者と西施、大きなもの、ねじれたもの、いつわりのもの、怪しいもの——道はこれらを通じて一とする。分かれることは成ることであり、成ることは毀(こぼ)たれることである。およそ物には成も毀もなく、ふたたび通じて一である。 ただ達した者だけが、通じて一であることを知る。だからこそ〔是非を〕用いず、これを庸(よう)〔=ふだんのはたらき〕に寄せる。庸とは用いることであり、用いることとは通じることであり、通じることとは得ることである。得るところに至れば、〔道に〕ほぼ近い。〈是に因る〉だけのことだ。そうしていながら、その然る所以を知らない——これを道という。 神明を労して一としながら、それがもともと同じであることを知らない、これを〈朝三〉という。朝三とは何か。猿飼いがとちの実を配って言うには、「朝に三つ、暮れに四つ」。猿どもはみな怒った。「それでは朝に四つ、暮れに三つ」。猿どもはみな喜んだ。名も実も欠けていないのに、喜びと怒りがそのために働いた。これもまた〈是に因る〉ことである。だから聖人は是非によって和し、天鈞(てんきん)に休(いこ)う。これを〈両行〉という。
古之人,其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者,至矣盡矣,不可以加矣。其次以為有物矣,而未始有封也。其次以為有封焉,而未始有是非也。是非之彰也,道之所以虧也。道之所以虧,愛之所以成。果且有成與虧乎哉?果且無成與虧乎哉?有成與虧,故昭氏之鼓琴也;無成與虧,故昭氏之不鼓琴也。昭文之鼓琴也,師曠之枝策也,惠子之據梧也,三子之知幾乎!皆其盛者也,故載之末年。唯其好之也,以異於彼,其好之也,欲以明之彼。非所明而明之,故以堅白之昧終。而其子又以文之綸終,終身無成。若是而可謂成乎,雖我亦成也。若是而不可謂成乎,物與我無成也。是故滑疑之耀,聖人之所圖也。為是不用而寓諸庸,此之謂以明。
古(いにしえ)の人は、その知に至り着いたところがあった。どこに至ったのか。いまだかつて物が有ったことはない、とする者があった——これが至極であり、極まりであり、これ以上を加えることはできない。その次は、物は有るが、いまだかつて封(さかい)〔=物と物との区切り〕が有ったことはない、とする。その次は、封は有るが、いまだかつて是非が有ったことはない、とする。是非があらわになること、それが道の虧(か)ける所以である。道の虧ける所以、それが愛の成る所以である。はたして成と虧とは有るのか。はたして成と虧とは無いのか。成と虧が有る、だからこそ昭氏が琴を鼓(ひ)くのである。成と虧が無い、だからこそ昭氏が琴を鼓かないのである。昭文が琴を鼓き、師曠が策(つえ)を枝(つ)き、恵子が梧(ご)に據(よ)る——三人の知はほとんど〔至極に〕近い。みなその盛んな者であり、だからこそ〔その技を〕晩年まで載(の)せつづけた。ただ、彼らはそれを好んだがゆえに、彼〔=他の人々〕と異なろうとし、好んだがゆえに、それを彼らに明らかにしようとした。明らかにすべきでないものを明らかにした、だから〈堅白〉の昧(くら)さで終わった。そしてその子もまた文〔=昭文〕の綸(いと)をもって終わり、生涯なにも成さなかった。これで成ったと言えるなら、私もまた成っていることになる。これで成ったと言えないなら、物も私も成るところがない。だからこそ、滑疑(こつぎ)の耀(かがや)き〔=まぎらわしくおぼろな光〕こそ、聖人の図(はか)るところである。だからこそ〔是非を〕用いず、これを庸(よう)に寄せる。これを〈以明〉という。
今且有言於此,不知其與是類乎?其與是不類乎?類與不類,相與為類,則與彼無以異矣。雖然,請嘗言之。有始也者,有未始有始也者,有未始有夫未始有始也者。有有也者,有無也者,有未始有無也者,有未始有夫未始有無也者。俄而有無矣,而未知有無之果孰有孰無也。今我則已有謂矣,而未知吾所謂之其果有謂乎,其果無謂乎?
いまここに言(ことば)が有るとして、それが〈是〉と同類なのか、〈是〉と同類でないのか、私は知らない。同類であることと同類でないこととが、たがいに一つの類をなすのなら、〔私の言も〕彼〔=かの言〕と異なるところがない。とはいえ、ためしに言ってみよう。始めが有り、いまだ始めが有り始めていないものが有り、いまだかの〈いまだ始めが有り始めていない〉ということすら有り始めていないものが有る。有が有り、無が有り、いまだ無が有り始めていないものが有り、いまだかの〈いまだ無が有り始めていない〉ということすら有り始めていないものが有る。にわかにして有と無とが有った。しかし有と無とのうち、はたしてどちらが有でどちらが無なのか、まだ分からない。いま私はすでに謂(い)ってしまった。しかし私の謂ったことが、はたして何かを謂ったことになるのか、はたして何も謂っていないのか、分からない。
天下莫大於秋豪之末,而大山為小;莫壽乎殤子,而彭祖為夭。天地與我並生,而萬物與我為一。既已為一矣,且得有言乎?既已謂之一矣,且得無言乎?一與言為二,二與一為三。自此以往,巧歷不能得,而況其凡乎!故自無適有,以至於三,而況自有適有乎!無適焉,因是已。
天下に、秋の毫(け)の末(さき)より大きいものはなく、大山〔=泰山〕は小さい。夭(わか)くして死んだ子より長寿な者はなく、彭祖は若死にである。天地は私とともに生まれ、万物は私と一つである。すでに一つであるのなら、なお言が有り得ようか。すでにそれを〈一〉と謂ってしまったのなら、なお言が無いことが有り得ようか。一と言とで二となり、二と一とで三となる。ここから先は、巧みな暦算の者でも数え取ることができない。まして凡人ならなおさらだ。だから無から有へ行っても三に至る。まして有から有へ行くならなおさらだ。行くのをやめよ。〈是に因る〉だけのことだ。
夫道未始有封,言未始有常,為是而有畛也。請言其畛:有左,有右,有倫,有義,有分,有辯,有競,有爭,此之謂八德。六合之外,聖人存而不論;六合之內,聖人論而不議。春秋經世,先王之志,聖人議而不辯。故分也者,有不分也;辯也者,有不辯也。曰:何也?聖人懷之,眾人辯之以相示也。故曰:辯也者,有不見也。夫大道不稱,大辯不言,大仁不仁,大廉不嗛,大勇不忮。道昭而不道,言辯而不及,仁常而不成,廉清而不信,勇忮而不成。五者园而幾向方矣。故知止其所不知,至矣。孰知不言之辯,不道之道?若有能知,此之謂天府。注焉而不滿,酌焉而不竭,而不知其所由來,此之謂葆光。故昔者堯問於舜曰:「我欲伐宗、膾、胥敖,南面而不釋然。其故何也?」舜曰:「夫三子者,猶存乎蓬艾之間。若不釋然,何哉?昔者十日並出,萬物皆照,而況德之進乎日者乎!」
そもそも道には、もともと封(くぎり)がなく、言(ことば)には、もともと常(一定の定まり)がない。〈是〉を立てることによって畛(あぜ)ができる。その畛を言ってみよう。左があり、右があり、倫(すじみち)があり、義(わけかた)があり、分(わけめ)があり、辯(いいわけ)があり、競があり、爭がある。これを八德という。六合〔=天地と四方〕の外については、聖人はそのまま存(お)いて論じない。六合の内については、聖人は論じるが、議(あげつら)わない。春秋——世を経(おさ)めるもの、先王の志(しる)したもの——については、聖人は議(あげつら)うが、辯(わ)けて争わない。だから、分けるということには、分けないところがある。弁ずるということには、弁じないところがある。なぜか。聖人はそれを懐(いだ)いておき、衆人はそれを弁じて互いに示し合うからだ。だから言うのだ——弁ずる者には、見えていないところがある、と。
そもそも大いなる道は称(な)ざされず、大いなる弁は言わず、大いなる仁は仁ならず、大いなる廉は嗛(へりくだ)らず、大いなる勇は人をそこなわない。道は昭(あき)らかに示されれば道でなくなり、言は弁ずれば届かず、仁は一定に固まれば成らず、廉は清らかさを言い立てれば信じられず、勇は人をそこなえば成らない。この五つは、円(まる)いのに、ほとんど方(四角)のほうへ向かってしまっている。
だから、知がその知らないところで止まる、それが至極である。誰が、言わない弁、道(い)わない道を知るだろうか。もし知りうる者があるなら、これを天府(てんぷ)〔=天の蔵〕という。注ぎ入れても満ちず、汲み出しても尽きず、しかもその出どころが分からない。これを葆光(ほうこう)〔=光を包む〕という。
だから昔、堯が舜に問うた。「私は宗・膾・胥敖を伐とうと思うのだが、南面していて〔=王座にあって〕釈然としない。その故は何だろうか」。舜は言った。「かの三人〔=三国の君〕は、まだ蓬(よもぎ)や艾(もぐさ)の茂みの間にいるようなものです。あなたが釈然としないのは、なぜですか。昔、十の日(太陽)が並び出て、万物がみな照らされました。まして、徳が日にまさるものであればなおさらです」。
齧缺問乎王倪曰:「子知物之所同是乎?」曰:「吾惡乎知之!」「子知子之所不知邪?」曰:「吾惡乎知之!」「然則物無知邪?」曰:「吾惡乎知之!雖然,嘗試言之。庸詎知吾所謂知之非不知邪?庸詎知吾所謂不知之非知邪?且吾嘗試問乎女:民溼寢則腰疾偏死,鰌然乎哉?木處則惴慄恂懼,猨猴然乎哉?三者孰知正處?民食芻豢,麋鹿食薦,蝍且甘帶,鴟鴉耆鼠,四者孰知正味?猨,猵狙以為雌,麋與鹿交,鰌與魚游。毛嬙、麗姬,人之所美也,魚見之深入,鳥見之高飛,麋鹿見之決驟。四者孰知天下之正色哉?自我觀之,仁義之端,是非之塗,樊然殽亂,吾惡能知其辯!」齧缺曰:「子不知利害,則至人固不知利害乎?」王倪曰:「至人神矣:大澤焚而不能熱,河、漢沍而不能寒,疾雷破山、風振海而不能驚。若然者,乘雲氣,騎日月,而遊乎四海之外。死生无變於己,而況利害之端乎!」
齧缺(げっけつ)が王倪(おうげい)に問うた。「あなたは、物がみな同じく〈是〉とするものを知っていますか」。「私にどうしてそれが知れよう」。「あなたは、あなたの知らないところを知っていますか」。「私にどうしてそれが知れよう」。「では、物には知が無いのですか」。「私にどうしてそれが知れよう。とはいえ、試みに言ってみよう。私が〈知る〉と言っているものが〈知らない〉ではない、とどうして分かろう。私が〈知らない〉と言っているものが〈知る〉ではない、とどうして分かろう。
そこで、試しにあなたに問おう。人は湿ったところに寝れば腰を病み、半身が萎える。鰌(どじょう)もそうだろうか。木の上に居れば、びくびくと震えて怖れる。猿もそうだろうか。この三者のうち、誰が正しい住処を知っているのか。人は芻豢(すうけん)を食べ、麋(おおじか)や鹿は草を食べ、蝍且(むかで)は蛇を甘いとし、鴟(ふくろう)や鴉(からす)は鼠を好む。この四者のうち、誰が正しい味を知っているのか。猿は、猵狙(へんそ)がこれを雌とし、麋は鹿と交わり、鰌は魚と泳ぐ。毛嬙(もうしょう)と麗姫(りき)は、人が美しいとするものだ。だが魚は彼女たちを見れば深く潜り、鳥は見れば高く飛び、麋や鹿は見れば駆け去る。この四者のうち、誰が天下の正しい色〔=美しさ〕を知っているのか。
私から見れば、仁義の端(いとぐち)も、是非の道すじも、入り乱れて雑然としている。私にどうしてその弁別が分かろう」。
齧缺が言った。「あなたが利と害を知らないのなら、至人ももとより利と害を知らないのですか」。王倪は言った。「至人は神(しん)である。大きな沢が焼けても熱くすることはできず、黄河や漢水が凍りついても寒くすることはできず、はげしい雷が山を裂き、風が海を揺すぶっても、驚かすことはできない。そのような者は、雲気に乗り、日月にまたがって、四海の外に遊ぶ。死生すら自分を変えない。まして利害の端(いとぐち)などなおさらだ」。
瞿鵲子問乎長梧子曰:「吾聞諸夫子,聖人不從事於務,不就利,不違害,不喜求,不緣道,无謂有謂,有謂无謂,而遊乎塵垢之外。夫子以為孟浪之言,而我以為妙道之行也。吾子以為奚若?」長梧子曰:「是黃帝之所聽熒也,而丘也何足以知之!且女亦大早計,見卵而求時夜,見彈而求鴞炙。予嘗為女妄言之,女以妄聽之,奚?旁日月,挾宇宙,為其脗合,置其滑涽,以隸相尊。眾人役役,聖人愚芚,參萬歲而一成純。萬物盡然,而以是相蘊。予惡乎知說生之非惑邪!予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪!麗之姬,艾封人之子也。晉國之始得之也,涕泣沾襟;及其至於王所,與王同筐床,食芻豢,而後悔其泣也。予惡乎知夫死者不悔其始之蘄生乎!夢飲酒者,旦而哭泣;夢哭泣者,旦而田獵。方其夢也,不知其夢也。夢之中又占其夢焉,覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也,而愚者自以為覺,竊竊然知之。君乎,牧乎,固哉!丘也,與女皆夢也;予謂女夢,亦夢也。是其言也,其名為弔詭。萬世之後,而一遇大聖知其解者,是旦暮遇之也。既使我與若辯矣,若勝我,我不若勝,若果是也?我果非也邪?我勝若,若不吾勝,我果是也?而果非也邪?其或是也,其或非也邪?其俱是也,其俱非也邪?我與若不能相知也,則人固受其黮闇。吾誰使正之?使同乎若者正之,既與若同矣,惡能正之!使同乎我者正之,既同乎我矣,惡能正之!使異乎我與若者正之,既異乎我與若矣,惡能正之!使同乎我與若者正之,既同乎我與若矣,惡能正之!然則我與若與人俱不能相知也,而待彼也邪?何化聲之相待,若其不相待。和之以天倪,因之以曼衍,所以窮年也。1謂和之以天倪?曰:是不是,然不然。是若果是也,則是之異乎不是也亦無辯;然若果然也,則然之異乎不然也亦無辯。化聲之相待,若其不相待。和之以天倪,因之以曼衍,所以窮年也。2忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟。」
瞿鵲子(くじゃくし)が長梧子(ちょうごし)に問うた。「私は夫子〔=孔子〕からこう聞きました。聖人は務め(仕事)に従事せず、利に就かず、害を避けず、求めることを喜ばず、道に縁(よ)らない。言うことが無いのに言うことが有り、言うことが有るのに言うことが無い。そうして塵や垢の外に遊ぶ、と。夫子はこれを孟浪(でたらめ)な言と考えましたが、私は妙なる道の行(おこな)いだと考えます。あなたはどうお考えですか」。
長梧子は言った。「これは黄帝でさえ聞いて惑うところだ。丘〔=孔子〕にどうして分かるものか。それに、あなたもまた早計にすぎる。卵を見て時を告げる鶏を求め、はじき玉を見て鴞(ふくろう)の炙り肉を求めるようなものだ。私はあなたのために、でたらめに言ってみよう。あなたもでたらめに聞いてくれ。どうか。
日月に寄り添い、宇宙をわきに挟み、それらとぴたりと合わさり、乱れて分かちがたいところはそのままに置き、隷(しもべ)であることをもって互いに尊ぶ。衆人はあくせくと働き、聖人は愚かに鈍い。万年の時を並べ合わせて、一つの混じりけないものを成す。万物はことごとくそうであって、そうであることによって互いに包み合っている。
私はどうして、生を悦ぶことが惑いではない、と知れよう。私はどうして、死を憎むことが、幼くして故郷を失ったまま帰ることを知らない者〔のようなもの〕ではない、と知れよう。
麗の姫は、艾(がい)の国境役人の娘であった。晋の国が初めて彼女を手に入れたとき、涙が襟を濡らした。だが王のもとに至り、王と同じ寝台に寝、芻豢を食べるようになってから、泣いたことを後悔した。私はどうして、かの死んだ者が、はじめに生を求めたことを後悔していない、と知れよう。
夢で酒を飲んだ者は、朝になって哭き泣く。夢で哭き泣いた者は、朝になって狩りに出る。その夢のさなかには、それが夢だと分からない。夢の中で、さらにその夢を占ったりもする。覚めてはじめて、それが夢だったと分かる。そして大いなる覚めがあってはじめて、これが大いなる夢だったと分かる。ところが愚か者は、自分では覚めているつもりで、こせこせと知ったふうにしている。君(きみ)だ、牧(まきびと)だ、と〔序列をつける〕。固陋なことだ。丘〔=孔子〕もあなたも、みな夢である。私があなたを夢だと言うのも、また夢である。この言いようを、名づけて弔詭(ちょうき)という。万世の後に、その解き方を知る大聖に一たび出会えたとしても、それは朝夕のうちに出会ったようなものだ。
かりに私とあなたが論争したとしよう。あなたが私に勝ち、私があなたに勝てなかったとして、あなたが果たして是なのか、私が果たして非なのか。私があなたに勝ち、あなたが私に勝てなかったとして、私が果たして是なのか、あなたが果たして非なのか。どちらかが是で、どちらかが非なのか。どちらも是なのか、どちらも非なのか。私とあなたが互いに知り合えないのなら、ほかの人はもとより、その暗がりを引き受けるほかない。私は誰にそれを正させようか。あなたと同じ者に正させれば、その者はすでにあなたと同じなのだから、どうして正せよう。私と同じ者に正させれば、すでに私と同じなのだから、どうして正せよう。私ともあなたとも異なる者に正させれば、すでに私ともあなたとも異なるのだから、どうして正せよう。私ともあなたとも同じ者に正させれば、すでに私ともあなたとも同じなのだから、どうして正せよう。そうであれば、私もあなたも〔第三の〕人も、みな互いに知り合えない。それでもなお、かの者を待つのか。
化声(かせい)〔=移り変わる言論の声〕が互いに相手を待つのは、待たないのと同じことだ。これを天倪(てんげい)によって和らげ、曼衍(まんえん)に因(よ)る。それが年を窮(まっと)うするゆえんである。
何を〈天倪によって和らげる〉というのか。答えて言う——是と不是、然と不然〔とを、ひとしなみにすることだ〕。是がもし果たして是であるのなら、是が不是と異なることには、弁ずるまでもない。然がもし果たして然であるのなら、然が不然と異なることにも、弁ずるまでもない。
化声が互いに相手を待つのは、待たないのと同じことだ。これを天倪によって和らげ、曼衍に因る。それが年を窮うするゆえんである。
年を忘れ、義を忘れ、無竟(むきょう)〔=限りのないところ〕に振(ふる)い、だから無竟に寓(よ)せるのだ」。
罔兩問景曰:「曩子行,今子止,曩子坐,今子起,何其無特操與?」景曰:「吾有待而然者邪!吾所待又有待而然者邪!吾待蛇蚹、蜩翼邪!惡識所以然?惡識所以不然?」昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也,自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。
罔両(もうりょう)が景(かげ)に問うた。「さきほどあなたは歩いていた、今あなたは止まっている。さきほどあなたは坐っていた、今あなたは起っている。どうしてそんなに、自分だけの操(みさお)が無いのか」。
景は言った。「私は待つもの〔=依り所〕があってそうなのだろうか。私の待つものにも、また待つものがあってそうなのだろうか。私は蛇の腹鱗(はらうろこ)、蟬の翅(はね)を待っているのだろうか。どうしてそうであるゆえんを知れよう。どうしてそうでないゆえんを知れよう」。
かつて荘周は、夢で胡蝶(こちょう)となった。栩栩然(くくぜん)として胡蝶であった。自ら愉しんで、心のままであった。周であることを知らなかった。にわかに覚めると、蘧蘧然(きょきょぜん)として周であった。周が夢で胡蝶となったのか、胡蝶が夢で周となっているのか、〔それが〕分からない。周と胡蝶とには、必ず分(わ)かちがあるはずである。これを物化(ぶっか)という。
受け継がれた点。まず語が残った。第6段の狙公と猿の話は「朝三暮四」という成語になり、第13段は「胡蝶の夢」として詩の定型の一つになった(李商隠「錦瑟」の「莊生曉夢に蝴蝶に迷ふ」など)。「天籟」も、作為のない自然の音・天成の詩を指す語として詩論に入っている。
読み方の骨組みとしては、魏晋以降の受容が大きい。『老子』『荘子』『周易』を「三玄」として読む学が起こり、西晋の郭象が付けた注は、その後長くこの篇の標準的な読み方になった。とくに第1段の「怒らせるのは誰か」を、吹かせる主宰者を立てずに読む方向——ものはそれぞれ自ら然るのだ——は、郭象の読みが決定づけた。仏教が入ってからは、老荘の語を借りて仏典を読む段階(格義)を経て、禅の語録にも本篇の語や像が繰り返し現れる。
否定・修正された点。時代の近いところから、すでに反論がある。荀子は『解蔽』で「荘子は天に蔽(おお)われて人を知らず」と評した。天のはたらきばかり見て、人の側の作為——礼や制度、世を治める仕事——が視野から落ちる、という批判である。是非の区別を立ててはじめて秩序が立つと考える立場から、この篇は繰り返し危険視された。
もう一つ、古くから突かれてきたのが自己言及である。すべての是非は相対的だ、という主張それ自体が一つの是非ではないのか。ただしこれは外からの発見ではない。第8段が自分から同じことを書き、第12段は「私があなたを夢だと言うのも、また夢だ」と言う。この篇を論駁の効く文章と見るか、論駁の届かない書き方と見るかは、いまも決着していない。
本文そのものにも修正が入っている。今日の『荘子』三十三篇は郭象が定めたかたちで、『漢書』芸文志は「莊子五十二篇」と記す。失われた部分がある。内篇を荘周その人の作とする伝統的な見方も、近現代の文献学では留保付きで扱われる。加えて本篇は字句の異同と難読の多い文章であり、この訳も複数ある読みの一つにすぎない。
底本。中國哲學書電子化計劃(ctext.org/zhuangzi/adjustment-of-controversies/zh)から本文を機械的に取得し、そのまま採用しました。段落分割は底本に従います。