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多様体論の一初等的問題について

Über eine elementare Frage der Mannigfaltigkeitslehre

初出
Jahresbericht der Deutschen Mathematiker-Vereinigung 第1巻(1890–91)75–78頁
原語
ドイツ語
形式
全文対訳(全17段落)
予備知識
不要。必要な数学は本文中でゼロから組み立てます

まず、これは何の話なのか

わずか4ページ。数学史上おそらく最も費用対効果の高い論文のひとつです。カントールは1874年に「実数全体は自然数と一対一に対応しない」ことをすでに証明していましたが、その証明は区間の入れ子と実数の連続性に深く依存する、込み入ったものでした。この1891年の小論で彼は、それを数の性質をいっさい使わずにやり直します。使うのは「mw、互いに排除しあう二つの記号」だけ。ここで初めて姿を現すのが、いわゆる対角線論法です。

そして論文はそこで終わりません。後半でカントールは、同じ原理が一般化できることを示します——いかなる集合にも、それより大きい集合が存在する。無限に「最大」はない。この一手が、20世紀の数学基礎論と、そこから派生したラッセルのパラドクス、ゲーデルの不完全性定理、チューリングの停止問題を、すべて同じ論法の子孫として生み出しました。朝に読む一本として、これほど短くて遠くまで届くものはそう多くありません。

ただし最後の二段落だけは、数学の論文としては異様な調子を帯びます。カントールはそこで、無限の大きさは「現実在的に無限大な基数」であり、有限の数とまったく同じ実在性をそなえている、と宣言する。当時これは論争的な主張でした。アリストテレス以来、無限は「際限なく進みうる」可能性としてのみ許され、完結した全体としては認められてこなかったからです。カントールはこの禁制を破ったかどで、クロネッカーをはじめとする同時代人から激しい攻撃を受けていました。あの結びは、数学的結論というより、その論争への応答として読むべきものです。

読む前に:五つの道具

この論文は数学の予備知識をほとんど要求しません。必要なのは次の五つの考え方だけで、どれも高校数学の範囲の言葉で説明できます。順に組み立てていきます。

1「同じ大きさ」を、数えずに決める

羊の群れと石ころの山があるとします。どちらが多いか。ふつうは両方を数えて比べますが、数えなくても比べる方法があります。羊を一匹小屋から出すたびに石を一つ脇へどける。羊が尽きたときに石も尽きていれば、両者は同じ数です。一対一に対応がつくかどうかだけを見ればよい。数を経由しなくてよいのです。

カントールはこの素朴な操作を、そのまま無限にも適用します。二つの集まりのあいだに、もれなく・ダブりなく相手を割り当てられるなら、その二つは「同じ大きさ」と呼ぶ。彼の用語ではこれを濃度(Mächtigkeit)が等しいと言います。

ここで違和感が生じるはずです

自然数 1, 2, 3, 4, … と、偶数 2, 4, 6, 8, … を考えます。偶数は自然数の一部にすぎないので、常識的には自然数のほうが多いはずです。ところが n ↦ 2n という割り当て——1には2、2には4、3には6……——は、もれもダブりもない完全な一対一対応です。したがって定義上、両者は「同じ大きさ」になってしまう。

これはガリレオのパラドクスとして古くから知られ、無限を数として扱ってはならない理由として繰り返し引かれてきました。全体が部分と等しくなるなら、その「数」は数ではない、と。カントールの決断は逆向きでした。彼はこれをパラドクスとしてではなく、無限の定義そのものとして引き受けます。「自分自身の真部分と一対一対応がつくもの、それが無限である」。禁止すべき異常ではなく、そこから始めるべき出発点だと見なしたわけです。

2「数列に並べる」と「番号を振る」は同じこと

数列 a1, a2, a3, … という高校数学の記法を思い出してください。数列を書くとは、要するに各項に1番、2番、3番……と番号を振ることです。ですから次の三つは、言い方が違うだけの同じ事柄になります。

① 自然数全体と一対一対応がつく
② 1番、2番、3番……と番号を振り尽くせる
E1, E2, E3, … という数列(=一列の名簿)の形に書ける

カントールが「数列の形にもたらしえない(sich nicht in die Reihenform bringen läßt)」と書くとき、それは「どんなふうに番号を振ろうとしても振り尽くせない」=「自然数より真に大きい」という意味です。この言い換えを頭に入れておけば、論文の主張はほとんど読めたようなものです。

なお、番号が振れるものは意外に多くあります。有理数(分数)全体は、無限に散らばっていて自然数よりはるかに多そうに見えますが、実は一列に並べられます。だからこそ「並べられないものが存在する」という主張には、証明が要るのです。

3舞台装置 —— mw の無限列

1874年にカントールが同じ定理を最初に証明したときは、実数の連続性や無理数の性質を使う、かなり込み入った議論でした。この1891年の論文の狙いは、数の性質をいっさい使わずに同じ結論に到達することです。そこで彼は、数の代わりにこんな道具を用意します。

mw——ただの二つの記号です。意味はありません。表と裏、○と×、0と1と思っても構いません。この二記号を無限に並べたもの

E = (m, w, m, m, w, w, m, …)

を一つの「要素」と呼びます。コインを無限回投げた記録、と考えるのが直観的でしょう。そして考えられるあらゆる記録を集めたものが、集合 M です。

実質的にはこれは実数の小数展開(の二進法版)と同じものですが、「無理数とは何か」という厄介な問いを迂回できる点が眼目です。カントールが「無理数の考察に依存しない」と誇るのはそこです。

4添字が二つになるだけ —— aμ,ν の読み方

論文で唯一とっつきにくいのが aμ,ν という二重添字ですが、これは表(マス目)の座標にすぎません。μ が行番号、ν が列番号です。

いま、記録 E1, E2, E3, … を上から順に書き並べた表を想像してください。aμ,ν は「上から μ 番目の記録の、左から ν 番目の文字」を指します。a3,5 なら3番目の記録の5文字目。それだけです。

そして aν,ν——行番号と列番号が同じもの——は、この表の左上から右下へ走る対角線の上にある文字です。論法の名前は、ここから来ています。

5「0か1の値をとる関数」=「部分集合」

論文の後半でカントールは、M を「0または1の値だけをとる関数 f(x) の全体」と定義します。これは現代の言い方では部分集合の全体(べき集合)のことです。

橋渡しはこうです。ある集まりの中から、いくつかを選んで部分集合をつくるとします。このとき「選んだものには1、選ばなかったものには0を割り当てる関数」を考えれば、部分集合と関数は完全に一対一に対応します。選び方を決めることと、0/1関数を決めることは、同じ一つの行為なのです(この関数を特性関数と呼びます)。

ですから論文後半の主張「ML より大きい」は、こう読めます——どんな集合についても、その部分集合の全体は、もとの集合より真に大きい。これが今日いうカントールの定理で、この定理があるために無限の大きさには天井がなくなります。

証明の骨格

道具がそろったので、前半の証明を先に絵にしておきます。証明したいのは「M の要素すべてに番号を振り尽くすことはできない」ことです。カントールの戦略は背理法——振り尽くせたと仮定して、その名簿に載っていないものを一つ作ってみせる——です。

1文字目2文字目 3文字目4文字目 E₁ =E₂ = E₃ =E₄ = mmmm wwww mwmw wmwm E₀ = wmww 対角線の文字をすべて裏返す
図:対角線論法。「すべての記録に番号を振り尽くせた」と仮定し、その名簿を表にする(上)。対角線上の文字 a1,1, a2,2, a3,3, … を拾い、一つずつ裏返して(mw)新しい記録 E0 を作る(下)。すると E0 は、E1 とは1文字目が違い、E2 とは2文字目が違い、Eν とは ν 文字目が違う。つまり名簿のどの行とも一致しない。ところが E0mw の無限列である以上、M の要素であるはずである。名簿は「すべて」を尽くしていなかった——仮定が崩れる。
この論法の急所

注意すべきは、これが特定の名簿の不備を指摘しているのではないことです。「その並べ方は下手だ、もっとうまく並べればよい」という話ではありません。どんな名簿を持ってきても、その名簿自身を材料にして、そこに載っていないものを機械的に製造できる。逃れる術がない。だから「並べ方が存在しない」と結論できるのです。

網羅の主張に対して、その網羅性そのものを材料にして反例を作る——これが対角線論法の型です。この型はのちにラッセルのパラドクス(1901)、ゲーデルの不完全性定理(1931)、チューリングの停止問題(1936)へとそのまま受け継がれていきます。ゲーデルは「証明可能な命題の一覧」に対して、チューリングは「停止判定の一覧」に対して、まったく同じ手つきで対角線を引きました。それらはすべて、この4ページの子孫です。

用語と記号の読み方

記号・原語読み/訳意味
Mannigfaltigkeit多様体今日でいう集合。カントールはまだ Menge(集合)という語に統一しておらず、この揺れ自体が時代の刻印です。幾何学の「多様体」とは無関係。
Mächtigkeit濃度集合の「大きさ」。一対一対応がつくものどうしを同じ濃度とする。
Inbegriff総体「〜の全体」。ほぼ集合と同義で使われています。
νニューギリシャ文字。番号(何文字目か)を表す。n の代わり。
μミューギリシャ文字。こちらも番号(何番目の要素か)。
Eν要素Element の頭文字。ν 番目の記録。
aμ,νμ 番目の記録の ν 文字目。表の μ 行 ν 列。
m, w互いに排除しあう二つの記号。意味はなく、○と×でも0と1でもよい。
M, L集合の名前。後半では L が区間 [0,1]、M がその部分集合全体。
φ(x, z)ファイ二つの変数をとる関数。z を一つ決めるごとに一つの関数 f(x) が定まる、という仕掛けに使われます。
≧ 0 かつ ≦ 1今日の記法では 0 ≦ x ≦ 1、すなわち閉区間 [0,1]。
einfach unendliche Reihe単純無限列1番、2番、3番…と番号のついた無限の並び。要するに数列。

対訳本文

原文(独語)
現代日本語訳

In dem Aufsatze, betitelt: Über eine Eigenschaft des Inbegriffs aller reellen algebraischen Zahlen (Journ. Math. Bd. 77, S. 258), findet sich wohl zum ersten Male ein Beweis für den Satz, daß es unendliche Mannigfaltigkeiten gibt, die sich nicht gegenseitig eindeutig auf die Gesamtheit aller endlichen ganzen Zahlen 1, 2, 3, …, ν, … beziehen lassen, oder, wie ich mich auszudrücken pflege, die nicht die Mächtigkeit der Zahlenreihe 1, 2, 3, …, ν, … haben.

「すべての実代数的数の総体がもつ一性質について」と題した論文(『純粋・応用数学雑誌』第77巻258頁)において、おそらく初めて次の定理の証明が与えられた。すなわち、無限多様体のうちには、すべての有限整数 1, 2, 3, …, ν, … の全体と互いに一対一に対応づけることのできないものが存在する——あるいは私が用いる言い方をすれば、数列 1, 2, 3, …, ν, … の濃度をもたないものが存在する、という定理である。

かみくだくと17年前に私が証明したことがある、という前置き。内容は「番号を振り尽くせない無限の集まりが存在する」。「濃度をもたない」は「同じ大きさではない」ということ。

Aus dem in § 2 Bewiesenen folgt nämlich ohne weiteres, daß beispielsweise die Gesamtheit aller reellen Zahlen eines beliebigen Intervalles (α … β) sich nicht in der Reihenform

ω1, ω2, …, ων, …

darstellen läßt.

というのも、同論文の第2節で証明されたことから直ちに、たとえば任意の区間 (α … β) に属する実数の全体は、

ω1, ω2, …, ων, …

という数列の形には表せないことが帰結するからである。

かみくだくと具体例。数直線上のどんな短い区間をとっても、そこに含まれる実数を「1番、2番、3番…」と並べた名簿は作れない。実数は自然数より真に多い。

Es läßt sich aber von jenem Satze ein viel einfacherer Beweis liefern, der unabhängig von der Betrachtung der Irrationalzahlen ist.

しかしこの定理には、無理数についての考察にいっさい依存しない、はるかに単純な証明を与えることができる。

かみくだくと論文全体の宣言。「同じ結論に、もっと簡単に、しかも数の性質を使わずに到達する」。以下がその新しい証明。

Sind nämlich m und w irgend zwei einander ausschließende Charaktere, so betrachten wir einen Inbegriff M von Elementen

E = (x1, x2, …, xν, …),

welche von unendlich vielen Koordinaten x1, x2, …, xν, … abhängen, wo jede dieser Koordinaten entweder m oder w ist. M sei die Gesamtheit aller Elemente E.

いま mw を、互いに排除しあう任意の二つの記号とする。そして次の形の要素

E = (x1, x2, …, xν, …)

からなる総体 M を考える。ここで各要素は無限個の座標 x1, x2, …, xν, … に依存し、そのいずれの座標も mw のどちらかである。M をこうした要素 E の全体とする。

かみくだくと舞台装置の設営(道具3)。コインを無限回投げた記録が一つの E、考えうるあらゆる記録の集まりが M。「座標」とは何文字目かという位置のこと。

Zu den Elementen von M gehören beispielsweise die folgenden drei:

EI = (m, m, m, m, …),
EII = (w, w, w, w, …),
EIII = (m, w, m, w, …).

M の要素には、たとえば次の三つが属する。

EI = (m, m, m, m, …),
EII = (w, w, w, w, …),
EIII = (m, w, m, w, …).
かみくだくと全部表、全部裏、交互。ここで例示されているのは規則的な三つだが、M にはでたらめな記録も無数に含まれる——そちらが圧倒的多数であることが、以下で示される。

Ich behaupte nun, daß eine solche Mannigfaltigkeit M nicht die Mächtigkeit der Reihe 1, 2, …, ν, … hat.

Dies geht aus folgendem Satze hervor:

„Ist E1, E2, …, Eν, … irgendeine einfach unendliche Reihe von Elementen der Mannigfaltigkeit M, so gibt es stets ein Element E0 von M, welches mit keinem Eν übereinstimmt.“

さて私は、このような多様体 M が数列 1, 2, …, ν, … の濃度をもたない、と主張する。

これは次の定理から導かれる。

「E1, E2, …, Eν, … を、多様体 M の要素からなる任意の単純無限列とせよ。このとき M のうちには、いかなる Eν とも一致しない要素 E0 が必ず存在する。」

かみくだくと論文の心臓部。「いかなる名簿を持ってきても必ず、その名簿に載っていない記録を一つ挙げられる」。irgendeine(任意の)と stets(常に)の二語が効いている。特定の名簿への反論ではなく、あらゆる名簿への反論であることを、この二語が担保している。

Zum Beweise sei

E1 = (a1,1, a1,2, …, a1,ν, …)
E2 = (a2,1, a2,2, …, a2,ν, …)
· · · · · · · · · ·
Eμ = (aμ,1, aμ,2, …, aμ,ν, …)
· · · · · · · · · ·

Hier sind die aμ,ν in bestimmter Weise m oder w. Es werde nun eine Reihe b1, b2, … bν, … so definiert, daß bν auch nur gleich m oder w und von aν,ν verschieden sei.

Ist also aν,ν = m, so ist bν = w, und ist aν,ν = w, so ist bν = m.

証明のために、次のようにおく。

E1 = (a1,1, a1,2, …, a1,ν, …)
E2 = (a2,1, a2,2, …, a2,ν, …)
· · · · · · · · · ·
Eμ = (aμ,1, aμ,2, …, aμ,ν, …)
· · · · · · · · · ·

ここで aμ,ν は、それぞれ定まった仕方で m または w である。いま数列 b1, b2, … bν, … を、bν もまた mw のいずれかであり、かつ aν,ν とは異なる、というように定義する。

すなわち、aν,ν = m ならば bν = w とし、aν,ν = w ならば bν = m とするのである。

かみくだくと名簿を表にして書き下したところ(上の図と同じ)。aν,ν は対角線上の文字。bν は「対角線の ν 番目の文字を裏返したもの」。裏返す規則を、二行目で mw を入れ替えるだけの操作として明示している。

Betrachten wir alsdann das Element

E0 = (b1, b2, b3, …)

von M, so sieht man ohne weiteres, daß die Gleichung

E0 = Eμ

für keinen positiven ganzzahligen Wert von μ erfüllt sein kann, da sonst für das betreffende μ und für alle ganzzahligen Werte von ν

bν = aμ,ν,

also auch im besonderen

bμ = aμ,μ

wäre, was durch die Definition von bν ausgeschlossen ist.

そこで M の要素

E0 = (b1, b2, b3, …)

を考えれば、等式

E0 = Eμ

がいかなる正の整数値 μ についても成り立ちえないことは、直ちに見てとれる。なぜなら、もし成り立つとすれば、その μ について、そしてすべての整数値 ν について

bν = aμ,ν

が成り立ち、したがってとりわけ

bμ = aμ,μ

となるはずだが、これは bν の定義によって排除されているからである。

かみくだくととどめ。もし E0 が名簿の μ 番目と一致するなら、全文字が一致するはずで、とくに μ 文字目も一致するはず。ところが bμ は定義からして aμ,μ の裏返しである。矛盾。この一撃が μ の値によらず効くのが要点で、だから「どの行とも一致しない」と言い切れる。

Aus diesem Satze folgt unmittelbar, daß die Gesamtheit aller Elemente von M sich nicht in die Reihenform E1, E2, …, Eν, … bringen läßt, da wir sonst vor dem Widerspruch stehen würden, daß ein Ding E0 sowohl Element von M, wie auch nicht Element von M wäre.

この定理から直ちに、M のすべての要素の総体を E1, E2, …, Eν, … という数列の形にはもたらしえないことが従う。もしできるとすれば、ある一つのもの E0M の要素であると同時に M の要素でない、という矛盾に直面することになるからである。

かみくだくと背理法の締め。名簿が M を尽くしているなら E₀ もそこに載っているはず(=M の要素)。しかし E₀ はどの行とも違う(=載っていない)。ゆえに「尽くした名簿」という仮定が誤り。M は番号を振り尽くせない。

Dieser Beweis erscheint nicht nur wegen seiner großen Einfachheit, sondern namentlich auch aus dem Grunde bemerkenswert, weil das darin befolgte Prinzip sich ohne weiteres auf den allgemeinen Satz ausdehnen läßt, daß die Mächtigkeiten wohldefinierter Mannigfaltigkeiten kein Maximum haben oder, was dasselbe ist, daß jeder gegebenen Mannigfaltigkeit L eine andere M an die Seite gestellt werden kann, welche von stärkerer Mächtigkeit ist als L.

この証明が注目に値すると思われるのは、単にその著しい単純さのゆえだけではない。とりわけ、ここで用いられた原理がそのまま次の一般定理へ拡張できるからである。すなわち、明確に定義された多様体の濃度には最大のものが存在しない——言い換えれば、与えられたいかなる多様体 L に対しても、L より強い濃度をもつ別の多様体 M をその傍らに置くことができる、という定理である。

かみくだくと論文の転回点。ここから後半に入る。「同じ手つきで、もっと大きなことが言える」——無限の大きさには天井がない。カントール自身が、単純さより一般性のほうを誇っていることに注意。

Sei beispielsweise L ein Linearkontinuum, etwa der Inbegriff aller reellen Zahlgrößen z, welche ≧ 0 und ≦ 1 sind.

Man verstehe unter M den Inbegriff aller eindeutigen Funktionen f(x), welche nur die beiden Werte 0 oder 1 annehmen, während x alle reellen Werte durchläuft, die ≧ 0 und ≦ 1 sind.

たとえば L を線型連続体、すなわち 0 ≦ z ≦ 1 を満たすすべての実数量 z の総体としよう。

そして M を、x が 0 ≦ x ≦ 1 を満たすすべての実数値を走るとき、値として 0 または 1 の二つしかとらない一価関数 f(x) の総体と解することにする。

かみくだくと道具5の出番。L は区間 [0,1]。M は「[0,1] の各点に 0 か 1 を割り当てる方法」の全体、すなわち[0,1] の部分集合すべて。以下で示されるのは「部分集合の全体は、もとの区間より真に大きい」。

Daß M keine kleinere Mächtigkeit hat als L, folgt daraus, daß sich Teilmengen von M angeben lassen, welche dieselbe Mächtigkeit haben wie L, z. B. die Teilmenge, welche aus allen Funktionen von x besteht, die für einen einzigen Wert x0 von x den Wert 1, für alle übrigen Werte von x den Wert 0 haben.

ML より小さい濃度をもたないことは、M の部分集合のうちに L と同じ濃度をもつものを挙げうることから従う。たとえば、x のただ一つの値 x0 においてのみ値 1 をとり、他のすべての x において値 0 をとる関数の全体からなる部分集合がそれである。

かみくだくとまず「ML 以上である」ことの確認。点 x0 ひとつだけを選んだ部分集合(=一点集合)を考えれば、L の点と M の要素が一対一に対応する。だから M は少なくとも L と同じだけある。

M hat aber auch nicht gleiche Mächtigkeit mit L, da sich sonst die Mannigfaltigkeit M in eindeutige Beziehung zu der Veränderlichen z bringen ließe und M in der Form einer eindeutigen Funktion von den beiden Veränderlichen x und z

φ(x, z)

gedacht werden könnte, so daß durch jede Spezialisierung von z ein Element f(x) = φ(x, z) von M und auch umgekehrt jedes Element f(x) von M aus φ(x, z) durch eine einzige bestimmte Spezialisierung von z hervorginge. Dies führt aber zu einem Widerspruch. Denn versteht man unter g(x) diejenige eindeutige Funktion von x, welche nur die Werte 0 oder 1 annimmt und für jeden Wert von x von φ(x, x) verschieden ist, so ist einerseits g(x) ein Element von M, andererseits kann g(x) aus φ(x, z) durch keine Spezialisierung z = z0 hervorgehen, weil φ(z0, z0) von g(z0) verschieden ist.

しかし ML と等しい濃度をもつのでもない。もしそうであれば、多様体 M を変数 z と一対一に対応づけることができ、M を二変数 x, z の一価関数

φ(x, z)

の形で考えることができるはずだからである。つまり、z を特殊化するごとに M の一要素 f(x) = φ(x, z) が得られ、逆に M のいかなる要素 f(x) も、z のただ一つの定まった特殊化によって φ(x, z) から生じることになる。だがこれは矛盾に導く。というのも、g(x) を、値として 0 または 1 しかとらず、かつ x のあらゆる値について φ(x, x) とは異なるような一価関数と解するならば、一方で g(x) は M の要素であるが、他方 g(x) は φ(x, z) からいかなる特殊化 z = z0 によっても生じえない。なぜなら φ(z0, z0) は g(z0) とは異なるからである。

かみくだくと前半とまったく同じ手つきが、装いを変えて再演される。名簿の役を φ(x, z) が務める(z が行番号、x が列番号にあたり、行番号が連続体の値になっただけ)。対角線は φ(x, x)、裏返した新要素は g(x)。「φ(z0, z0)g(z0) と異なる」は、前半の「bμ ≠ aμ,μ」の言い換えそのもの。二つの証明を並べて見比べると、同一の骨格が透けて見えます。

Ist somit die Mächtigkeit von M weder kleiner noch gleich derjenigen von L, so folgt daraus, daß sie größer ist als die Mächtigkeit von L.

したがって M の濃度が L の濃度より小さくもなく等しくもない以上、そこから M の濃度は L の濃度より大きいことが従う。

かみくだくと「小さくない」+「等しくない」=「大きい」。当たり前に見えますが、実はここが本論文でいちばん危うい一歩です。訳注4を参照。

Ich habe bereits in den Grundlagen einer allgemeinen Mannigfaltigkeitslehre (Leipzig 1883; Math. Ann. Bd. 21) auf ganz anderem Wege gezeigt, daß die Mächtigkeiten kein Maximum haben; es wurde dort sogar bewiesen, daß der Inbegriff aller Mächtigkeiten, wenn wir letztere nach ihrer Größe geordnet denken, eine „wohlgeordnete Menge“ bildet, so daß in der Natur der Sache auf jede Mächtigkeit eine nächst größere folgt, aber auch auf jede ohne Ende aufsteigende Menge von Mächtigkeiten eine nächst größere folgt.

私はすでに『一般多様体論の基礎』(ライプツィヒ、1883年。『数学年報』第21巻)において、まったく別の道筋によって、濃度に最大のものが存在しないことを示しておいた。そこではさらに、すべての濃度の総体は、それらを大きさの順に並べて考えるならば「整列集合」をなすこと、したがって事柄の本性上、いかなる濃度にもその次に大きい濃度が続き、また際限なく上昇していく濃度のいかなる集合に対しても、その次に大きい濃度が続くことまでが証明されている。

かみくだくと自著の参照。ただしここでカントールが「証明されている」と書いていることは、実際には証明されていませんでした。しかも「すべての濃度の総体」という言い方は、本論文の結論(天井がない)と正面から衝突しかけています。数年後にパラドクスとして噴出する亀裂が、この一文にすでに口を開いています。訳注5参照。

Die „Mächtigkeiten“ repräsentieren die einzige und notwendige Verallgemeinerung der endlichen „Kardinalzahlen“; sie sind nichts anderes als die aktual-unendlich-großen Kardinalzahlen und haben dieselbe Realität und Bestimmtheit wie jene, nur daß die gesetzmäßigen Beziehungen unter ihnen, die auf sie bezügliche „Zahlentheorie“, eine wesentlich andere ist als im Gebiete der endlichen Zahlen.

「濃度」は、有限の「基数」の唯一かつ必然的な一般化を表すものである。それは現実在的に無限大な基数にほかならず、有限基数とまったく同じ実在性と規定性をそなえている。ただ異なるのは、濃度のあいだに成り立つ法則的な関係、すなわち濃度に関する「数論」が、有限数の領域におけるそれとは本質的に別のものである、という点だけである。

かみくだくと数学論文としては異様に形而上学的な結び。aktual-unendlich(現実在的無限)は、可能的無限=際限なく進みうるだけのもの、に対する語です。「無限は完結した全体としては与えられない」という長い禁制への、真正面からの否認。当時カントールはクロネッカーらの激しい攻撃を受けており、この一文は防戦であると同時に信仰告白でもありました。

Die weitere Erschließung dieses Forschungsgebietes ist Aufgabe der Zukunft.

この研究領域のさらなる開拓は、未来の課題である。

かみくだくとその未来に待っていたのは連続体仮説でした。カントール自身は解けないまま病に倒れ、コーエンが1963年に「解けないことが証明できる」と示すまで70年余りかかります。

訳注

  1. 1874年の論文「すべての実代数的数の総体がもつ一性質について」(Crelles Journal 第77巻)。カントールが実数の非可算性を最初に証明した論文で、そこでの証明は区間の入れ子構造を使う、はるかに手数の多いものでした。本論文はその「やり直し」にあたります。
  2. 校訂上の問題箇所。1891年の初出および多くの転写では、この添字が aμ,ν と印刷されています。しかし議論が成立するのは対角成分 aν,ν の場合に限られます(μ はこの文脈では何も指していない自由な文字であり、そのままでは意味をなしません)。直後の「aν,ν = m ならば bν = w」という文、および後段の bμ = aμ,μ もそれを裏づけます。ここでは aν,ν と読んで訳しました。初出の誤植とみるのが自然です。
  3. 現代の記法でいえば、M は区間 [0, 1] の部分集合全体(べき集合)にほかなりません。値 0/1 の関数とは、その関数が 1 を返す点の集合の特性関数です。つまりこの後半部分はべき集合定理(カントールの定理)の最初の証明です。
  4. 原文はここで自身の1878年の論文(Crelles Journal 第84巻242頁)を参照させています。「より小さくない」かつ「等しくない」から「より大きい」を導くこの推論は、当時まだ証明されていない前提——任意の二つの濃度はつねに大小比較できる、という比較可能性——に依拠しています。二つの無限が「どちらが大きいとも言えない」可能性を、この段階のカントールは排除できていませんでした。厳密な正当化には、ベルンシュタイン=シュレーダーの定理(1897年頃)と、選択公理を用いた整列可能定理(ツェルメロ、1904年)を待たねばなりません。カントール自身が生涯もっとも気にしていた弱点でもあります。
  5. ここでカントールが「証明されている」と述べる主張——すべての濃度が整列するという命題——は、実際には証明されていませんでした。さらに深刻なことに、「すべての濃度の総体」を一つの集合として語ることは、本論文の主定理(濃度に最大はない)と衝突します。もしそれが集合なら、その濃度より大きい濃度が存在するはずですが、その濃度も「すべての濃度」に含まれていなければならない。この亀裂はまもなくブラリ=フォルティのパラドクス(1897)、ラッセルのパラドクス(1901)として表面化し、公理的集合論の建設へとつながっていきます。本論文の証明そのものは今日でも完全に有効であり、揺らいだのは「集合とは何か」という枠組みのほうでした。

読み終えたあとに

この論文の証明そのものは、130年後の今日もそのまま通用します。対角線論法は数学の標準的な道具になり、細部が疑われたことは一度もありません。壊れたのは証明ではなく、その周りの枠組みのほうでした。

終わりから二番目の段落で、カントールは「すべての濃度の総体」を一つの集合のように語ります。しかし本論文の主定理は、いかなる集合にもそれより大きい集合がある、と述べている。もし「すべての濃度の総体」が集合であるなら、その濃度より大きい濃度が存在するはずで、しかもそれは「すべての濃度」の中にすでに含まれていなければならない。彼自身が証明した定理が、彼自身の言い回しを噛み砕いてしまう。この亀裂は数年のうちにブラリ=フォルティのパラドクス(1897)、ラッセルのパラドクス(1901)として表面化しました。

20世紀の公理的集合論は、この線引きを技術的に固定する作業です。集合として扱ってよい集まりと、扱ってはならない「大きすぎる集まり」を区別する。無限そのものは扱える——カントールは正しかった。しかし「無限のすべて」を一つの全体として扱おうとした瞬間に破綻する。彼が破ったはずの禁制は、廃止されたのではなく、適用範囲を精密に測り直されたことになります。

結びの一行のゆくえ

「この研究領域のさらなる開拓は、未来の課題である。」——その未来にまず待っていたのは連続体仮説でした。自然数の濃度と実数の濃度のあいだに、中間の濃度は存在するか。カントールはこれを繰り返し証明しようと試みて果たせず、証明できたと信じては撤回することを何度も繰り返しています。答えが出たのは1963年、コーエンによって。ただしその答えは「存在するとも、しないとも証明できない」という、彼が想定していなかった第三の種類のものでした。

原文と訳について/出典

本文のドイツ語は、下記の公開転写と段落単位で照合しながら再現したものです。1891年の初出誌面(および Zermelo 編『論文集』1932年)と、句読点・組版・添字の細部において異同がありうることをお断りしておきます。厳密な引用が必要な場合は原誌面またはツェルメロ版をご参照ください。訳文は本サイト用の新訳で、原文の語順をなるべく保ちつつ、現代日本語として読める範囲で整えています。Mannigfaltigkeit は「多様体」、Mächtigkeit は「濃度」、Inbegriff は「総体」と訳しました。カントールがまだ Menge(集合)という語に統一していない時期の論文であり、術語の揺れそのものが読みどころでもあるため、原語の区別は訳語にも残しています。

次に読むなら:カントール「すべての実代数的数の総体がもつ一性質について」(1874)(同じ定理の、はるかに手数の多い最初の証明)/ツェルメロ「任意の集合が整列可能であることの証明」(1904)(本論文の訳注4・5が指摘した穴を埋める試み)/ゲーデル「形式的に決定不可能な命題について」(1931)(対角線論法の最も有名な子孫)。