毎朝の一本2026.08.23 日目次へ

情動とは何か

What is an Emotion?

初出
Mind, vol. 9 (o.s.), no. 34, 1884年4月, pp. 188–205
原語
英語
形式
全訳+要所対訳
予備知識
不要(心理学・心の哲学)

まず、これは何の話なのか

悲しいから泣く。こわいから震える。腹が立つから殴りかかる——これは疑いようのない順序に見える。心がまず動き、その結果として身体が反応する。ジェームズがこの短い論文でやってのけたのは、この順序をそっくり裏返すことだった。私たちは泣くから悲しいのであり、震えるからこわいのであり、殴りかかるから腹が立つのだ。

これは言葉遊びではない。ジェームズの主張はもっと過激で具体的である。ある事態を知覚すると、その瞬間に——心が「情動」を感じるよりに——身体はすでに動きだしている。心臓が速まり、呼吸が浅くなり、顔が火照り、内臓がざわめく。そうした身体の変化を感じ取ること、それ自体が情動なのだ。情動とは身体の嵐が心に映った像であって、心が身体に命じて起こした結果ではない。だから、もし身体の変化をすべて取り去ってしまえば、あとに残るのは冷たく中立な「認識」だけで、そこには情動と呼べるものは何も残らない。

この論文が属している問いの圏を確かめておきたい。「情動とは何か」という問いは、デカルトが『情念論』(1649)で、スピノザが『エチカ』第三部で立てた問いの、まっすぐな子孫である。デカルトもまた、情念を身体(動物精気の運動)の乱れと結びつけたが、彼にとって知覚し判断するのはあくまで魂であり、順序は魂が先だった。ジェームズはこの順序を切り替える。彼が敵として名指すのは近代哲学者ではなく、当時の生理学——脳を「認知」と「意志」の器官としてのみ描き、情動を説明の外に置いていた同時代人たち——だが、彼が動かしているのは、まさしく近代の情念論が扱ってきた蝶番そのものである。

そしてこの論文の値打ちは、正しさよりも、それが人にどんな観察を強いるかにある。ジェームズは読者を自分自身の身体へ引きずり込む。恐怖から動悸と震えとうそ寒さを引き算してみよ、と。何が残るか。彼はほとんど何も残らないと言い、そう言い切ったあとで、最後にそっと弱気を漏らす。この一本は、心と身体のどちらが先かという古い問いを、内観の実験に変えてしまった。

論証の骨格

ジェームズが裏返したのは、下の左(常識)の矢印の向きである。右(ジェームズ)では、身体の変化が情動より先に来て、その変化を感じ取ること自体が情動になる。

常識の順序 ジェームズの順序 出来事の知覚 情動(心の動き) 身体の変化 出来事の知覚 身体の変化 その変化を感じる =情動 入れ替わったのは「情動」と「身体の変化」の位置
常識では〈知覚→情動→身体〉。ジェームズでは〈知覚→身体→情動〉。情動は原因ではなく、身体が起こした嵐の“読み取り”になる。

この一つの入れ替えから、論文の残りが導かれる。もし情動が身体の変化の感じであるなら、(1)その身体変化は常識が思うよりずっと多彩で微細なはずだ、(2)身体変化を全部引くと情動は消えるはずだ、(3)身体変化を人為的に作れば情動が生じ、抑えれば情動は萎むはずだ、(4)身体感覚を失った病者では情動も失われるはずだ——ジェームズはこの四つを順に確かめていく。

用語と原語

ジェームズの語彙は19世紀末の心理学・生理学のものである。読みにくさの大半は概念ではなく、術語と器官名にある。

原語/読み意味
emotionエモーション 情動 本訳では一貫して「情動」。恐怖・怒り・悲しみのように身体反応を伴う心の動き。より穏やかな「感情」「情緒」と訳し分ける理由は
the coarser emotionsコーサー・エモーションズ 粗い情動 身体の揺れが激しい情動(悲嘆・恐怖・怒り・愛)。対する「微妙な情動」(美的・知的な喜び)と区別される。
the exciting factエキサイティング・ファクト 誘発する事態 情動を引き起こすきっかけの出来事。「刺激」に近い。
bodily reverberationリヴァーバレーション 身体の反響 知覚が全身の器官に波及して返ってくること。ジェームズの鍵語。
viscera / visceralヴィセラ 内臓/内臓の 胃・腸・血管など随意には動かせない臓器。情動で真っ先にざわめく。
vaso-motorヴァゾモーター 血管運動(性) 血管を収縮・拡張させる神経のはたらき。赤面や蒼白の担い手。
plethysmographプレティスモグラフ 体積脈波計 腕などの血流量の増減を記録する装置。モッソの実験で使われた。
precordial anxietyプリコーディアル 前胸部の不安 みぞおち・胸の奥に来る締めつけられるような不安感。
mind-stuffマインド・スタッフ 心の材料 情動を組み立てる純粋に心的な素材。ジェームズはそんなものは残らないと言う。
a nonentityノンエンティティ 存在しないもの 実体のないもの、空語。「身体を欠いた情動はnonentityだ」。

全訳(要所対訳)

以下はジェームズの論文の全内容を、一節も飛ばさず日本語で追ったものである。議論の運びに従って小見出しを立てた。要所は原文と対訳で並べ、それ以外は訳文で本文を提示する。原文で大文字に組まれた語(PERCEPTIONなど)は強調である。

脳科学が置き去りにした領域

近年、脳の機能を熱心に探ってきた生理学者たちは、その説明を認知と意志のはたらきに限ってきた。フェリアやムンクといった研究者は、脳を感覚中枢と運動中枢に分けて論じるが、情動・欲望・快苦といった「美的(感受的)な領域」については、それに対応する脳内の仕組みをほとんど描こうとしない。ジェームズはここに二つの可能性を立てる。情動はそれ専用の中枢から湧くのか、それとも、通常の感覚中枢・運動中枢のはたらきから、ふつうの知覚と変わらぬ仕方で立ち上がるのか。彼は後者を採る。そのほうが脳の生理を単純にし、既存の枠組みが思っていた以上に広く使えることを示すからだ。

どの情動を論じるのか

ジェームズは対象を限定する。ここで扱うのは、はっきりした身体表現を伴う「粗い」情動——驚き・好奇・恐怖・怒り・愛・悲嘆——である。数学の問題が解けたときの知的な喜びや、色や音の連なりに覚える美的な快のような、目立った身体変化を伴わない「微妙な」感じは、いったん脇に置く(後段で戻ってくる)。とはいえこれら微妙な快は、ある神経活動がそれ自体で快をもたらしうること、身体への波及を待たずに快が生じうることを、あらかじめ示してもいる。

常識の順序と、その反転

ORIGINAL

Our natural way of thinking about these standard emotions is that the mental perception of some fact excites the mental affection called the emotion, and that this latter state of mind gives rise to the bodily expression.

これら標準的な情動について私たちが自然に考える筋道はこうだ。ある事実を心が知覚すると、それが情動と呼ばれる心の動きをかき立て、その心の状態がこんどは身体の表現を生み出す、と。

ORIGINAL

My thesis, on the contrary, is that the bodily changes follow directly the PERCEPTION of the exciting fact, and that our feeling of the same changes as they occur IS the emotion.

私の主張は逆である。身体の変化は、誘発する事実の知覚にじかに続いて起こる。そして、その変化が生じるのをそのつど感じ取ること、それこそが情動なのだ。

ORIGINAL

we feel sorry because we cry, angry because we strike, afraid because we tremble, and not that we cry, strike, or tremble, because we are sorry, angry, or fearful, as the case may be.

私たちは泣くから悲しいのであり、殴るから怒っているのであり、震えるからこわいのであって、悲しい・怒っている・こわいから泣き・殴り・震えるのではない——場合に応じて、そうなのだ。

常識では、身体の表現が最後に来る「排出物」にすぎない。ジェームズはそれを情動の中身そのものへと格上げする。もし知覚のあとに身体の状態が続かなければ、その知覚はまったく認識的な形にとどまり、色も温度もない。私たちは熊が危険だと判断はするが、こわいとは感じない。逃げるのが賢明だと思いはするが、恐怖は経験しない、というのだ。

第一の裏づけ——身体変化は常識よりはるかに多彩

ジェームズはまず、情動に伴う身体変化が、これまで考えられてきたよりずっと多く、微細だと言う。表情研究の古典——チャールズ・ベル『表情の解剖学』、ベイン、ダーウィンの論考——は外から見える徴候を記述したが、ダーウィンでさえ、個々の標準的情動を特徴づける身体変化を数え尽くしてはいない。モッソの体積脈波計の実験は、ごくわずかな意識の揺れにも循環系の全体が応じ、腕の血管が絶えず収縮と拡張を繰り返すことを示した。膀胱・腸・唾液腺・皮膚・肝臓、いずれの器官も、強い情動では大きく、穏やかな情動ではかすかに、その状態を変える。

心拍と呼吸のリズムはあらゆる情動に深く関与する。見落とされがちだが、随意筋もまた絶えず参加している。外見の姿勢が変わらないときでさえ、内側の筋の緊張は気分とともに揺れる——沈んだ気分では屈筋が、高揚した気分では伸筋が優位になる。こうした器官活動の無数の変化があるからこそ、情動のひとつひとつの色合いに、それぞれ固有の身体の反響が対応しうる。心の気分が一つひとつ違うように、身体の響きも一つひとつ違いうるのだ。

第二の裏づけ——真似ごとの情動は「空ろ」である

これほど多くの器官が同時に動くために、本物のきっかけなしに情動を忠実に再現することはできない。表情だけを人為的にこしらえても、それは無理に出すくしゃみのように、どこか空ろになる。情動をうまく真似るには、随意筋だけでなく、皮膚・腺・心臓・内臓の不随意の応答までを揃えねばならない。だが、それらは意のままにはならない。

第三の裏づけ(核心)——身体感覚を引き算する

ORIGINAL

If we fancy some strong emotion, and then try to abstract from our consciousness of it all the feelings of its bodily symptoms, we find we have nothing left behind, no "mind-stuff" out of which the emotion can be constituted, and that a cold and neutral state of intellectual perception is all that remains.

ある強い情動を思い浮かべ、そこからその身体的徴候の感じをすべて意識のうちで取り去ってみよ。すると、あとには何も残らない。情動をそれで組み立てられるような「心の材料」など残らず、残るのは冷たく中立な知的認識の状態だけである。

ORIGINAL

What kind of an emotion of fear would be left if the feeling neither of quickened heart-beats nor of shallow breathing, neither of trembling lips nor of weakened limbs, neither of goose-flesh nor of visceral stirrings, were present, it is quite impossible to think.

速まる鼓動の感じも、浅い呼吸も、震える唇も、力の抜けた手足も、鳥肌も、内臓のざわめきも——そのどれもがなかったとしたら、あとにどんな「恐怖」の情動が残るというのか。それを思い描くことは、まったく不可能である。

怒りについても同じだ、とジェームズは畳みかける。胸の高鳴り、顔の火照り、鼻孔の張り、食いしばる歯、みなぎる腕の力——それらをことごとく差し引けば、怒りはその感じもろとも蒸発してしまう。あとに残りうるのはせいぜい、「あの者は罰に値する」という冷血で無感動な、知性の領域だけにとどまる判決文だけである。悲嘆から涙とすすり泣きと胸の締めつけを引けば、「事態は嘆かわしい」という感情なき認識が残るにすぎない。標準的な情動はどれも同じことを告げる。

ORIGINAL

A purely disembodied human emotion is a nonentity.

まったく身体を欠いた人間の情動などというものは、存在しないものである。

ジェームズは正直に付け加える。自分の情動状態を内観すればするほど、それらは、ふつうその「表現」や「結果」と呼ばれている身体変化そのものから成っている、と思えてくる、と。もし全身が完全に麻痺して何も感じなくなれば、自分は情動の生から締め出され、純粋に認識するだけの存在になるだろう。古代の哲人はそうした身体を離れた知的生を尊んだが、近代の感受性からすればそれは味気ない、と彼は言う。

反論——社会的な情動は「対象」が慣習で決まるのでは

ここで有力な反論が出る。文明人の情動の対象——恥、侮辱、金銭、名誉——は、生まれつきの神経の仕組みが用意したものではなく、文化や慣習で決まる。だとすれば、まず「観念」があり、それが身体変化を引き起こすのであって、ジェームズの言う身体先行とは逆ではないか。

ジェームズは進化の原理で応じる。もともと特定の環境に向けて発達した神経の放電傾向は、いったん備わると、思いもよらぬ刺激によっても引き金を引かれるようになる。そして人間にとって最も重要な環境は「他の人間」である。だから他人の眼差しや態度を意識すること自体が、恥・憤り・恐怖といった身体状態を呼び起こす。演壇を横切るのは部屋を横切るのと生理的に違うし、見知らぬ多数の眼が自分に注がれるとき私たちを襲う極端な自意識——それがstage-fright(あがり・舞台負け)である。

しかも身体反応の即時性を示す例には事欠かない。詩の一行に思いがけず走る戦慄。森で何かが動いた瞬間の、心臓が止まるような感じ。ジェームズ自身、幼い頃、馬から血を抜くのを見て気を失ったが、当時は血を見て気分が悪くなることがあるとは聞いたこともなく、自分の反応に自分で驚いたという。観念が恐怖を組み立てたのではない。身体がまず反応したのだ。

第四の裏づけ——表情を作れば情動が生じ、抑えれば萎む

ここからジェームズは、いわば実験に踏み込む。情動の身体表現を意のままに作りだせば、対応する情動そのものが立ち上がってくる。むろんこれは統御できる表現に限られるが、経験はこの原理を裏づける。パニックは逃げることで募り、悲嘆はすすり泣くことで深まり、怒りは荒い言動を重ねるほど燃えあがる。逆もまた真である。

ORIGINAL

Refuse to express a passion, and it dies. Count ten before venting your anger, and its occasion seems ridiculous. Whistling to keep up courage is no mere figure of speech.

情念を表現するのを拒めば、それは死ぬ。怒りをぶちまける前に十を数えよ、そうすればその原因は馬鹿げて見えてくる。勇気を保つために口笛を吹く——これはただの言葉のあやではない。

ここから道徳上の帰結も出る。快活でありたければ、眉を開き、眼を輝かせ、機嫌よく振る舞え。表情が気分を作るのだ。もっとも、表に出す人と抑える人という気質の違いはある。感傷的な人は情を「あふれさせ」て発散し、控えめな人は瓶に詰めるように溜め込む。だがこれは、原理が破れているのではなく、それぞれの気質の内側で同じ原理が働いているのだ、とジェームズは見る。

抑圧された情動の行き先についても彼は触れる。ふつうの表出路をふさがれた神経の流れは、別の、より悪い水路を穿つことがある——復讐の反芻となって内をむしばみ、身を乾いた熱で焼き、あるいはダンテの描くように人を石に変える(やがて訪れる涙が救いになる)。あるいは、抑圧は神経の流れを思考の領域へ振り向ける。情動を抑えるよう育てられた子は、感じ深くなるのではなく、むしろよく考える者になる。

病から来る裏づけ——理由なき情動と、感じない病

病理はこの説をさらに支える。精神病院には、まったく理由のない恐怖・怒り・憂鬱・思い上がりに囚われた患者がいる。神経系が情動の方向へ極端に不安定(labile)になり、さしたる刺激にも不釣り合いに応じてしまうのだ。ジェームズの知人にも病的な恐怖に悩む者があり、その人は、深く息が吸えず、心臓がばたつき、前胸部に不安が兆し、身を縮こまらせるという。ところが呼吸を意識して整え、姿勢をまっすぐに保つと、恐れがたちどころに薄らぐ——これは説の予言どおりだ。

逆の極には、感覚が失われるとともに情動も失われた病者がいる。ジェームズはスマルの記録した憂鬱・麻痺の患者を引く。認識は保たれているのに、何ひとつ感じない。暖かさにも、味にも、音楽にも、我が子の成長にも、快が湧かない。自分がこの世から切り離され、氷の壁に閉じ込められ、あるいはゴム引きの膜に覆われているようで、印象がその封じられた感受性まで届かない、と患者は言う。認識と感じが、これほど見事に切り離されるのだ。

最大の難所——身体を伴わないように見える情動

ここでジェームズは自説の弱点に正面から向かう。道徳的・知的・美的な感じは、一見、身体の反響を伴わない。幾何学の証明の運びに覚える快、和音の響きに覚える喜びは、身体感覚とは独立に生じるように見える。ヘルバルト派の心理学者は、観念どうしの「関係」から来る感じと、感覚に依存する感じとを区別した。もし美的知覚が身体の反響を経ずに即座に感情を呼ぶのなら、標準的な情動もまた身体を素通りしうる、ということになりはしないか。

ジェームズはこう応じる。丁寧に内観すれば、美的な場面でも身体の「共鳴板」は思うよりずっと鳴っている。ただし、長年その道に親しんだ玄人では、情動としての感受性が鈍り、代わりに趣味の判別が鋭くなって、身体の震えを欠いた「純粋」で脳内的な情動が生じる——それは青ざめ、乾いて、あの高揚の輝きを欠く。玄人の最上級の賛辞が「そう悪くはない(not so very bad)」であり、ショパンの称賛の極みが「私は何にも動じない(Rien ne me choque)」であったのは、そのためだ。感傷的な素人が示す温かさとは対照的である。

ジェームズはヴェネツィアのアカデミア美術館で見た一組のイギリス人夫婦を思い出す。凍える寒さの中、彼らはティツィアーノの『聖母被昇天』の前に一時間も座り、妻は聖母の「なんという自己放棄! なんという恐縮したような表情!」と褒めそやした——ティツィアーノ本人が見たら胸が悪くなったろう、と彼は書く。要するに、あらゆる技芸と学問において、「関係が正しいか誤りか」を見てとることと、それに伴う情動の火照りとは、二つの別のものであって一つではない。巨匠は知覚においてくつろぎ、身体の騒ぎは判断のときにだけ訪れる。科学の「驚異」を煽る読み物が、実験室の当人を白けさせるのも同じである。ここには、霊と肉の永遠の相克めいたものがある。

脳生理への帰結

ここまで来ればジェームズの見取り図は単純になる。大脳皮質に、各感覚器・各皮膚部位・各筋・各関節・各内臓に対応する知覚中枢と感覚中枢がありさえすれば、情動を説明するのに専用の「情動中枢」を新たに立てる必要はない。必要なのはふつうの反射回路だけだ。知覚が身体各部を動かし、その身体各部からの感覚がまた皮質へ返る——情動はこの往復のなかに宿る。

決定的な検証と、最後の弱気

とはいえ、決定的な検証は得がたい、とジェームズは認める。運動も知性も損なわずに全身の感覚だけが完全に失われ、そのとき情動の無関心(apathy)が生じるかどうか——それを見られれば決着がつくのだが、ヒステリー性の麻痺は不完全だし、器質性の完全麻痺はきわめて稀である。彼はウィンターの学位論文が報告した麻痺の症例に触れる。その患者は粘液質で、農作業のほかには物事に関心を示さず、穏やかで無気力だった——感覚の喪失に情動の鈍麻が伴っていたように見える、と。

ORIGINAL

The best thing I can say for it is, that in writing it, I have almost persuaded myself it may be true.

この説について私が言える精一杯のことは、これを書いているあいだに、私は自分自身を、それが本当かもしれないと、ほとんど説き伏せてしまった、ということである。

革命的な主張を投げ込んでおいて、ジェームズは断定でなく、この上ない控えめさで筆を置く。証明したのではない。ただ、書きながら自分でほとんど信じかけた、と。この一文が、論文全体の誠実さを保証している。

訳注

  1. 「情動」という訳語について。英語 emotion は、日本語では「感情」「情動」「情緒」と訳し分けられてきた。本訳は一貫して情動を当てた。理由は、ジェームズがここで論じるのが、身体反応を伴う比較的激しい心の動き(恐怖・怒り・悲嘆)だからである。のちの心理学でも、身体・生理を伴う急性の反応を情動(emotion)、より持続的で穏やかな心の状態を感情(feeling)と呼び分ける慣行が定着した。ジェームズ自身は emotionfeeling をさほど厳密に区別していないが、彼の議論の焦点が「身体の反響」にある以上、情動と訳すのが趣旨に忠実である。旧訳には「情緒とは何ぞや」と題したものもある。
  2. 「古代の哲人はそうした身体を離れた知的生を尊んだ」。ジェームズがここで念頭に置くのは、情念(パトス)を魂の乱れとみなし、それを離れた観照的生を最高とみた古代の理知主義——プラトン以来の伝統、とりわけストア派の不動心(アパテイア)である。彼の立場はその正反対で、身体の揺れを情動の欠陥ではなく本体とみなす。近代の情念論(デカルト『情念論』、スピノザ『エチカ』第三部)が、情念を身体と結びつけつつなお魂の側に主導権を残したのに対し、ジェームズは主導権を身体へ移した点が新しい。
  3. 抑圧が思考を育てるという件。この一節(原注でも補われる)は、のちの精神分析の「昇華」概念を先取りしているようにも読めるが、ジェームズの説明はあくまで神経生理的である——ふさがれた放電が思考の水路へ流れ込む、という力学的な描像であって、無意識の欲動論ではない。混同しないよう補っておく。
  4. 呼吸と姿勢で恐れが和らぐという観察。ジェームズはこれを説の傍証として挙げるが、原注では、恐怖の症例のなかには心臓の乱れをほとんど伴わないものもあり、その場合は身体からの反響ではなく脳中枢そのものの興奮が恐れの幻覚を作っているのかもしれない、と自ら留保を付している。都合のよい例だけを並べていない点は、この論文の美点である。今日の呼吸法・姿勢による不安緩和の技法と響き合う観察でもある。
  5. 固有名の底本表記。本文中の人名は、ジェームズの原綴りに従い、フェリア(Ferrier)、ムンク(Munk)、モッソ(Mosso)、チャールズ・ベル(Sir Charles Bell)、ベイン(Bain)、ダーウィン(Darwin)、シュナイダー(Schneider, Der thierische Wille)、スマル(Semal, De la Sensibilité générale, Paris, 1876)、ウィンター(Georg Winter, Ein Fall von allgemeiner Anaesthesie, Heidelberg, 1882)とした。ショパンの「Rien ne me choque」は原文でもフランス語のまま置かれている。

読み終えたあとに

この論文が世に出た翌1885年、デンマークの生理学者カール・ランゲが、血管運動の変化を軸にほぼ同じ考えを独立に発表した。以後この説はジェームズ=ランゲ説と呼ばれる。ジェームズの1884年論文自体はランゲに一言も触れていない(時系列が逆だからだ)。この符合そのものが、「情動=身体変化の知覚」という着想が時代の空気のなかで熟していたことを物語る。

受け継がれた点。情動を「頭のなか」の出来事から引きずり出し、心拍・呼吸・内臓・筋という身体へ、そして内観できる経験の質感へと結び直したことは、決定的だった。「表情を作れば気分が従う」という主張は、その後の表情フィードバック仮説の実験(顔の筋肉の操作が気分を変える)へつながり、呼吸や姿勢による情動制御の技法とも響き合う。

否定・修正された点。1927年、生理学者ウォルター・キャノンが強力な反論を突きつけた(キャノン=バード説)。(1)大脳から内臓への神経を切っても動物は情動反応を示す。(2)内臓の変化はあまりに遅く、稲妻のような恐怖の速さに間に合わない。(3)恐怖でも怒りでも内臓の状態は似通っており、多彩な情動を細かく区別できるほど身体反応は特異的ではない。(4)アドレナリンを注射して身体を「情動状態」にしても、本物の情動は生じない。ジェームズが夢みた「情動ごとに固有の身体の反響」という細密さは、この批判で大きく削られた。

その後の揺り戻し。1962年、シャクターとシンガーの二要因説は、「身体の覚醒」と「それをどう意味づけるかの認知」の掛け算として情動を捉え、ジェームズ的な身体先行を認知でくるみ直した。さらに1994年以降、神経学者アントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」は、身体状態の感知が意思決定と情動の核であることを臨床と実験から示し、ジェームズの大筋を現代的に復権させた(『デカルトの誤り』『無意識の脳 自己意識の脳』)。今日の内受容感覚(interoception)研究や、リサ・フェルドマン・バレットの「構成された情動」理論も、身体信号と意味づけの絡み合いという、ジェームズが最初に据えた土俵の上で議論している。

要するにこの一本は、細部(身体反応が情動を一対一で決めるという強い主張)ではキャノンに敗れ、大筋(情動は身体を感じることに根ざす)ではダマシオらに勝った。百四十年後もなお、情動を論じる者はまずジェームズのこの問い方から始めねばならない。それが、生き延びた論文というものである。

原文と訳について/出典

本ページは全訳+要所対訳の形をとった。論文の内容は一節も飛ばさず日本語で提示し、原文は、公開されている電子版と校合して確実に固められた要所のみを対訳とした。訳文の責任は本紙にある。固有名・書名・年号は原文表記と照合した。

底本・参照した公開テキスト:

次に読むなら: