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斉物論——物と論とをひとしくする

齊物論

成立
戦国時代、前4〜前3世紀頃。『荘子』内篇の第二篇
原語
漢文
底本
中國哲學書電子化計劃
形式
全文対訳(全13段)
予備知識
不要

まず、これは何の話なのか

戦国の世には、議論が仕事になった時期がある。国から国へ渡る士たちが、王の前で、また学派の門で、何が是で何が非かを争った。この篇の本文にも、その現場がそのまま顔を出す。「儒・墨の是非」——たがいに相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非とする(第4段)。指と馬、堅と白(第6段・第7段)は、当時、名と実の関係をめぐって組まれていた議論の型である。琴の名手や楽師と並べて「梧に據る」と書かれる惠子も、その議論の側の人として本文に置かれている(第7段)。

『荘子』内篇の第二篇。この篇は、その争いの現場に入っていきながら、どちらが正しいかを裁定しない。かわりに、争いが成り立っている仕組みのほうへ回り込む。是と非とはたがいを支えにして立つ(第5段)、区切りは道にもとからあるのではなく〈是〉を立てることでできる(第10段)、出来上がった心をそのまま師とするなら誰にでも師はある(第4段)——こうして、争いを勝たせも負けさせもせず、争いが要求している足場のほうを外していく。

形は論文ではない。対話(子綦と子游、齧缺と王倪、瞿鵲子と長梧子、罔両と影)、寓話(猿と木の実、麗姫、胡蝶)、硬い理屈(彼是・方生・道樞)、そして詩に近い連なり(「大知は閑閑、小知は閒閒」)が入れ替わる。結論へ一直線には進まない。同じ主題が角度を変えて戻ってくる——「莫若以明(明をもってするに如くはない)」は三度、「因是(是に因る)」は数度。読み終えたところが着地点とはかぎらない。

読む前に一つ。この篇は、言葉を疑いながら言葉で書かれている。しかもそれを自分から言う。第8段で、始めの前の前を数え上げたあと、「いま私はすでに謂ってしまった。しかし私の謂ったことが、はたして何かを謂ったことになるのか、分からない」と書く。破綻ではなく、そういう文章として組まれている。主張を取り出そうとするより、言い方が自分で自分を外していく運びを追うほうが、この篇には合う。なお題の「齊物論」は「齊物・論」(物をひとしくする論)とも「齊・物論」(もろもろの議論をひとしくする)とも切れて、本文にはその両方の材料がある。どちらかに決めないまま読んで差し支えない。

用語と鍵語の読み方

訳語の割れる語だけを挙げる。「訳と意味」は本訳が採った読みであって、どれも唯一の読みではない。段の番号は対訳の段に対応する。

原語読み訳と意味
齊物論せいぶつろん題名。「齊物・論」とも「齊・物論」とも切れる。前者なら物を等しく見る論、後者なら諸説を等しくならすこと。古注以来の両説で、本文にはどちらの材料もある。
吾喪我われ、われをうしなう第1段。「吾」と「我」を書き分けている。失われる側の〈我〉を、身についた自分・立場と取るか、他と対をなす自分と取るかで、篇全体の入口が変わる。
天籟てんらい第1段。人籟(竹の笛)・地籟(風と穴)に続く三つ目。本文は正面から定義せず、「万に吹いて同じからず、みなそれ自ら取る。怒らせるのは誰か」とだけ言う。吹く主体を立てない読みが有力だが、争いがある。
成心せいしん第4段。すでに出来上がってしまった心。「先入見」と負に取る説と、「各人に具わった心のかたち」と中立に取る説がある。前者なら批判、後者なら事実の指摘になる。
因是いんぜ「是に因る」。本篇の鍵語で繰り返し出る(第5・6・9段)。争う当人の〈是〉にそのまま従うと取る説と、〈おのずからそうであること〉に乗ると取る説がある。「因非」と対にもなる。
以明もってあきらかにす第4・5・7段の締めに三度。「明をもってする」。何の明かは書かれない。是非を照らし分ける明とも、是非を用いないことそれ自体とも読まれる。
道樞どうすう第5段。「道の枢(とぼそ)」、戸を回す軸。〈彼〉と〈是〉がその対(つれあい)を得られなくなったところを言う。続く「環中」(輪の中心)も同じ像。
兩行りょうこう第6段。どちらか一方を殺さず、両方を行かせる。折衷でも中立でもなく、是非の双方をそのまま立たせておくこと。
天鈞てんきん第6段。「天均」に作る本もある。ひとしさと取る説と、轆轤(ろくろ)——回る台——と取る説がある。本文では聖人が休む場所として置かれている。
葆光ほうこう第10段。おおわれた光。注ぎ入れても満ちず、汲んでも尽きず、どこから来るか分からないもの。「不言の辯、不道の道」を知る者に与えられた名。
封/畛ほう/しん第7・10段。物と物との区切り、田のあぜ。もとは無く、〈是〉を立てることによって生じるとされる。
物化ぶっか第13段の最後の一語。周と胡蝶には「必ず分(わけめ)がある」と言った直後に置かれる。「物の変化」とも「物としての移り」とも訳され、締めくくりの解釈がここで分かれる。

対訳本文

漢文
現代日本語訳
吾は我を喪う——万の孔を吼えさせる者は誰か

南郭子綦隱几而坐,仰天而噓,嗒焉似喪其耦。顏成子游立侍乎前,曰:「何居乎?形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎?今之隱几者,非昔之隱几者也。」子綦曰:「偃,不亦善乎而問之也!今者吾喪我,汝知之乎?女聞人籟而未聞地籟,女聞地籟而未聞天籟夫!」子游曰:「敢問其方。」子綦曰:「夫大塊噫氣,其名為風。是唯无作,作則萬竅怒呺。而獨不聞之翏翏乎?山林之畏佳,大木百圍之竅穴,似鼻,似口,似耳,似枅,似圈,似臼,似洼者,似污者;激者,謞者,叱者,吸者,叫者,譹者,宎者,咬者,前者唱于而隨者唱喁。泠風則小和,飄風則大和,厲風濟則眾竅為虛。而獨不見之調調、之刁刁乎?」子游曰:「地籟則眾竅是已,人籟則比竹是已。敢問天籟。」子綦曰:「夫吹萬不同,而使其自已1也,咸其自取,怒者其誰邪!」

南郭子綦(なんかくしき)が脇息にもたれて坐り、天を仰いで息を吐いた。ぼんやりと気の抜けたさまで、自分の耦(つれあい)を失ってしまったかのようであった。顔成子游(がんせいしゆう)が前に立って侍り、こう言った。「これはどうなさったのですか。からだはもとより枯れ木のようにさせることができ、心はもとより死んだ灰のようにさせることができるものなのでしょうか。今、脇息にもたれておられる方は、以前、脇息にもたれておられた方ではありません。」 子綦は言った。「偃(えん)よ、お前がそれを問うたのは、なんとよいことではないか。今しがたを喪ったのだ。お前にそれが分かるか。お前は人籟(じんらい)を聞いてはいても、まだ地籟を聞いていない。地籟を聞いてはいても、まだ天籟を聞いていないのだ。」 子游「そのやり方をおたずねします。」 子綦「そもそも大いなる土くれ〔大地〕が気を吐き出す、その名を風という。風はただ起こらずにいるだけであって、ひとたび起これば万の孔(あな)がいっせいに怒って吼える。あの長く吹き渡る音を、お前だけは聞いたことがないというのか。山や林の険しく高いあたり、ひとかかえ百もある大木の孔や穴——鼻に似たもの、口に似たもの、耳に似たもの、枡形(ますがた)に似たもの、杯に似たもの、臼に似たもの、深い窪みに似たもの、浅い水たまりに似たもの。〔そこから出る音は〕水がぶつかる音、矢が空を切る音、叱る音、吸う音、叫ぶ音、泣きわめく音、深く沈む音、鳥が哀しげに啼くような音。先を行くものが「于(ウー)」と唱えれば、あとに従うものが「喁(グー)」と応じる。そよ風ならば小さく和し、つむじ風ならば大きく和し、烈しい風がやめば、すべての孔はからっぽになる。あの木々が大きく揺れ、小さくそよぐさまを、お前だけは見たことがないというのか。」 子游「地籟とは、あの万の孔がそれなのですね。人籟とは、竹を並べた笛がそれなのですね。天籟をおたずねします。」 子綦「そもそも〔風は〕万のものを吹いて、その音はどれ一つ同じでない。しかも、その一つ一つがおのずから已(や)むようにさせている。どれもみな、それぞれが自分で取ったものだ。〔ならば〕吼えさせている者は、いったい誰なのか。」

かみくだくと
『荘子』内篇の第二篇「齊物論」の冒頭にあたる。通行本は郭象が整理した三十三篇本で、この篇はその内篇に置かれている。 この単位は対話の形をとるが、問いと答えが噛み合っていないところに要点がある。子游が問うたのは、からだを枯木のように、心を死灰のようにすることが「できるものなのか」という可能性の問いだった。子綦はそれに直接は答えず、別の語を持ち出す——今しがた吾は我を喪った、と。子游の見立て(枯木と死灰)と、子綦自身の言い方(吾が我を喪う)が並置されたまま、どちらが正しいとも言われない。 三つの籟の分量が極端に不均衡なことに注意したい。地籟には、孔の形が八つ、音が八つ、風の唱和、風の強弱、やんだあとの静けさ、木々の揺れまでが費やされる。人籟は子游が一句で片づけ、子綦はそれを訂正しない。そして天籟の答えはたった一文である。しかもその一文は、新しい音源をひとつも挙げない。「吹萬不同」と言ってすでに語り終えた万の孔に戻り、「咸其自取」——どれもみな自分で取ったものだ——と言うだけで終わる。子游は天籟を人籟・地籟と同じ列の第三項として数えようとしたが、返ってきた答えは第三の音源ではなかった、ということはこの本文から読み取れる。 最後の「怒者其誰邪」の「怒」は、前のほうの「作則萬竅怒呺」の「怒」と同じ字である。孔を吼え立たせる、そのはたらきを指す語をわざわざ拾い直して、それをなす者を問い、答えずに閉じる。反語と取れば「誰もいない」となり、問いのまま置かれたと取れば「言い当てられない何か」が残る。注釈の歴史はおおむねこの一句をめぐって二つに割れてきた。この篇全体をどちらの側から読むかが、ここで決まってしまう。 例は本文が挙げていないので訳者が補うと、パイプオルガンを思えばよい。送られる風はひとつだが、鳴る音は管の長さと形の数だけある。音色の違いは風の側にはなく、管の側にある。ただし本文が「自取」と言うのは音色の差だけでなく、鳴ること自体を孔の側に帰する言い方なので、この喩えはそこまでは届かない。 弱いところも言っておくと、地籟の描写は圧倒的に具体的で読ませるのに、肝心の天籟は説明ではなく問い返しで終わる。これを筆の冴えと見るか、論証の放棄と見るかは読者の判断に委ねられている。少なくとも、ここで天籟が定義されたとは言えない。
日ごと心で闘う——情態の萌すところは知られない

大知閑閑,小知閒閒;大言炎炎,小言詹詹。其寐也魂交,其覺也形開,與接為構,日以心鬭。縵者,窖者,密者。小恐惴惴,大恐縵縵。其發若機栝,其司是非之謂也;其留如詛盟,其守勝之謂也;其殺如秋冬,以言其日消也;其溺之所為之,不可使復之也;其厭也如緘,以言其老洫也;近死之心,莫使復陽也。喜怒哀樂,慮嘆變慹,姚佚啟態;樂出虛,蒸成菌。日夜相代乎前,而莫知其所萌。已乎已乎!旦暮得此,其所由以生乎!

大いなる知はゆったりと広く、小さな知はこまごまと隙をうかがう。大いなる言は燃えさかるように盛んで、小さな言はくどくどとやかましい。 眠っているときは魂が交わり、目覚めているときは体が開いて〔外へ向かい〕、触れるものごとにもつれ合いをこしらえ、日々、心をもって闘う。だらだらと構えるもの、落とし穴のように深く仕掛けるもの、目を細かく張りめぐらすもの。小さな恐れにはびくびくと怯え、大きな恐れにはぼんやりと茫然となる。 その発することは弩(いしゆみ)の引き金と矢筈のよう——是非を見張って射るということである。その黙って留まることは誓いの言葉のよう——勝ちを守り抜くということである。その衰えることは秋から冬へ向かうよう——日ごとに消えていくということである。その溺れてなすところのふるまいは、もはや元へ引き返させることができない。その塞がっていくことは封印のよう——老いて涸れきったということである。死に近づいた心は、もう一度、陽に返らせることができない。 喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。思いわずらい、嘆き、心変わり、こわばり。浮かれ、気ままにふるまい、あけっぴろげになり、気取ってみせる。音楽が空洞から出てくるように、蒸された気が茸(きのこ)を生やすように、〔これらは〕日夜、目の前で入れ替わり立ち替わり現れる。だが、それがどこから萌したのかは誰も知らない。やめよ、やめよ。朝な夕なこれを得ていること、それこそが〔これらの〕生じてくるもとなのだろうか

かみくだくと
対話が消え、人称も消える。ここにあるのは並列だけである——知と言の大小の対、寝覚めから日々の心闘へ、その闘い方の三つの型、恐れの大小、そして心が衰えていく順序、最後に情態の羅列。前段が孔の形と音を並べたのと、書き方の手つきが同じである。 心の衰えを追う部分は、はっきり一方向に進む。発する・留まる・衰える・溺れる・塞がる・死に近づく。しかもこの並びのなかで「復」の字が二度、いずれも否定を伴って使われている(「不可使復之也」「莫使復陽也」)。引き返せない、陽に返せない。不可逆だという語り方が本文の面に二度出ているということは、確認できる事実として指摘しておく。機栝の喩えがその先頭に置かれているのも符合する。放たれた矢は戻らない。 「樂出虛,蒸成菌」の二例は、空洞から音が出ること、湿った気が茸を生やすことを並べる。どちらも作り手が見えないまま何かが生じる事例で、直後に「莫知其所萌」と続くのだから、この並置の狙いは本文自身が明かしている。前段が万の孔を吼えさせる者は誰かと問うて答えなかったのと、同じ形の問いがここで情態について繰り返されている。 正直に言うと、この単位は『荘子』のなかでも本文の乱れが多い箇所で、訳は一案にすぎない。とくに「縵者,窖者,密者」は動詞を欠き、上の心闘に付けるか下の恐れに付けるかも本文だけでは決まらない。「閑閑」と「閒閒」の字形の近さも厄介で、大知と小知の評価が入れ替わりかねない。他の訳と突き合わせれば、ここは目に見えて食い違うはずである。食い違いは訳者の怠慢ではなく、この本文が抱えている問題だと思っていただきたい。 末尾の「已乎已乎」は、探究の打ち切りとも、嘆息とも読める。続く一句が疑問の形で終わっているため、打ち切ったあとに結論が置かれるわけではない。ここでも答えは与えられない。
真宰はいるか——百骸九竅のどれが君主か

非彼無我,非我無所取。是亦近矣,而不知其所為使。若有真宰,而特不得其眹。可行已信,而不見其形,有情而無形。百骸、九竅、六藏,賅而存焉,吾誰與為親?汝皆說之乎?其有私焉?如是皆有,為臣妾乎,其臣妾不足以相治乎。其遞相為君臣乎,其有真君存焉。如求得其情與不得,無益損乎其真。一受其成形,不亡以待盡。與物相刃相靡,其行盡如馳,而莫之能止,不亦悲乎!終身役役而不見其成功,苶然疲役而不知其所歸,可不哀邪!人謂之不死,奚益?其形化,其心與之然,可不謂大哀乎?人之生也,固若是芒乎!其我獨芒,而人亦有不芒者乎!

かの〔情態〕がなければ我はなく、我がなければ〔それらが〕取りつく場もない。これもまた〔真実に〕近い。だが、何がそうさせているのかは分からない。まことの主宰者がいるかのようだ。ただ、そのしるしだけがつかめない。〔そのはたらきが〕行われていることはすでに確かなのに、その形は見えない。実(じつ)はあって形がない。 百の骨、九つの穴、六つの臓——そろって身に具わっている。私はそのどれと親しめばよいのか。お前はそのすべてを悦ぶのか。それとも、ひいきするものがあるのか。このようにみな〔等しく〕具わっているのだとすれば、すべてを臣下や侍女とするのか。臣下や侍女どうしでは、互いを治めるには足りないのではないか。それとも代わるがわる君となり臣となるのか。それとも、そこにまことの君が存(ま)しますのか。その実を求めて、得られようと得られまいと、そのまことには何の益も損もない。 ひとたびこの成った形を受け取れば、それを失わないままで尽き果てるのを待つ。物と刃を交え、擦り減らし合い、その歩みは馬を走らせるように尽きてゆき、誰にもこれを止めることができない。なんと悲しいことではないか。生涯あくせく働いて、その成し遂げたものを見ず、くたびれ果てて疲れきり、帰るところを知らない。哀しまずにいられようか。人がそれを「死んではいない」と言ったところで、何の益があるか。その形が化(か)われば、その心もそれとともにそうなる。大いなる哀しみと言わずにいられようか。人の生とは、もともとこのように暗いものなのか。それとも私だけが暗くて、人には暗くない者もいるのか

かみくだくと
ここで初めて、羅列ではなく論証らしい形が出てくる。順を追うと、①彼と我の相互依存、②「近い、だが何がそうさせているかは分からない」、③まことの主宰者の仮設と、そのしるしがつかめないという即座の留保、④身体の部分をめぐる選言、⑤求めて得ても得なくても、そのまことには益損がない、⑥形の消尽をめぐる詠嘆。 ④が見どころである。百骸・九竅・六藏は「賅而存焉」——そろって具わっている、と言われるだけで、どれかが特別だとは言われない。そこで選択肢が並ぶ。すべてを臣妾とするのか。だが臣妾どうしでは互いを治めるに足りない。では代わるがわる君臣となるのか。それとも、まことの君がいるのか。等価な部分の集まりからは統治の中心が出てこない、という一点で最初の枝を潰し、残る二つを並べる。ただし第三の枝、まことの君については、提示されるだけで一言も論証されない。ここは弱点として指摘してよい。選言は尽くされておらず(部分の外にも内にも君がいない、という枝は挙げられていない)、最後の枝が結論の位置に置かれるのは論証の力によってではない。 そのうえで⑤が来る。求めて得られようと得られまいと、そのまことに益損はない。これは強い一手である。真君の有無をめぐる問いを、探索の成否から切り離してしまう。②で「分からない」と言ったことが、真君の不在の証拠にはならない、と先回りして封じている。裏を返せば、真君が実在するのかという問い自体には、本文はここでも答えていない。答えない、ということを積極的に言い切っている点が新しい。 本文にない比較なので訳者のものと断っておくと、経験のうちに現れるものの統一から実体的な自我を推論することの禁止、という近代の議論をどうしても思い出す。ただし重ならない。ここでの本文は、しるしがつかめないことから自我の実体性を否定する方向へは進まない。むしろ「見つからないこと」と「無いこと」を切り離して、まことの側は無傷だと言う。認識の限界を存在の限界に読み替えない、という点で、批判哲学の作法とは向きが逆である。 後半は論調が一変して詠嘆になる。「不亦悲乎」「可不哀邪」「可不謂大哀乎」と、悲しみの語が三度重ねられ、そのたびに度合いが上がる。しかも途中で「人がそれを死んでいないと言ったところで何の益があるか」と、不死という慰めを一句で退けている。形が化われば心もそれに従う、と言われる以上、身体の外に無傷の心を確保する道は塞がれている。 閉じ方に注意したい。師の権威で断定するのではなく、「もともとこのように暗いのか、それとも私だけが暗いのか」という自問で終わる。前の二つの単位が問いを残して閉じたのと同じ形が、ここで一人称の自問として繰り返される。
成心を師とする——是非はどこから出るか

夫隨其成心而師之,誰獨且無師乎?奚必知代而心自取者有之?愚者與有焉。未成乎心而有是非,是今日適越而昔至也。是以無有為有。無有為有,雖有神禹,且不能知,吾獨且柰何哉!夫言非吹也。言者有言,其所言者特未定也。果有言邪?其未嘗有言邪?其以為異於鷇音,亦有辯乎,其無辯乎?道惡乎隱而有真偽?言惡乎隱而有是非?道惡乎往而不存?言惡乎存而不可?道隱於小成,言隱於榮華。故有儒、墨之是非,以是其所非,而非其所是。欲是其所非而非其所是,則莫若以明。

そもそも、その成心に従ってこれを師とするのなら、いったい誰が師を持たずにいられよう。どうして必ず、〔物事の〕移り変わりを知って心が自ら〔師を〕取り出す者だけに、それがあるといえようか。愚か者にもまた〔師は〕ある。心にまだ何も成らないうちに是と非とがあるというのは、今日越へ発って昨日すでに着いた、というのと同じことだ。これは無いものを有るとすることである。無いものを有るとするなら、神のごとき禹であっても知ることはできまい。この私にいったい何ができようか。 そもそも言(ことば)は〔風が〕吹くのとは違う。言う者には言うことがある。ただ、その言うところのものが定まっていないだけだ。はたして言ったことになるのか。それとも、まだ一度も言ってはいないのか。〔人は〕それを雛鳥の声とは違うと思っているが、はたしてそこに区別があるのか、それとも区別はないのか。 道はどこに隠れて真と偽が〔生じたの〕か。言はどこに隠れて是と非が〔生じたの〕か。道はどこへ行ってしまって存(あ)らぬというのか。言はどこに存(あ)って不可だというのか。道は小さな出来上がりに隠れ、言は華やかな飾りに隠れる。だから儒家と墨家の是非が生じて、〔相手が〕非とするものを是とし、〔相手が〕是とするものを非とする。〔相手が〕非とするものを是とし、〔相手が〕是とするものを非としようとするのなら、明〔=あきらかな照らし〕を用いるに越したことはない

かみくだくと
この単位は二段に分かれる。前半は是非の出どころを心に求め、後半は言に求める。 前半の運びはこうである。各人が自分の成った心を師とするなら、師を持たない者はいない。とすれば「師がある」ということ自体は何も保証しない。それは〔移り変わりを〕知る者の特権ではなく、愚者にも等しくあるからである。逆に、心がまだ成らないのに是非があるというなら、それは今日発って昨日着いたという話で、無いものを有るとすることになる。この単位が並べているのは、是非には成心という出どころが要るということと、成心は誰にでもあるということの二つで、そこから「どの是非も等しく正しい」とも「どれも誤りだ」とも言っていない。言われるのは「神禹でも知りえない、私ひとりにどうしようがあろう」である。断定を避けたこの一句が、以下の調子を決めている。 後半。言は風の音とは違う、言う者には言う中身がある——ここまでは言の側に立つ。ところが「その言うところは定まっていない」と続き、では言ったことになるのかどうか、雛の声と区別があるのかどうか、と問いが重ねられる。ここは正確に読んでおきたい。この単位は「人の言は雛の声と同じだ」とは言っていない。問いのまま置いている。 そのうえで「惡乎」の問いが四つ来る。道はどこに隠れて真偽が生じたか、言はどこに隠れて是非が生じたか、道はどこへ行って存らぬのか、言はどこに存って不可なのか。後の二つは反語の形で、道が及ばぬ場所も、言が通らぬ場所もない、という含みになる。つまり問題は不在ではなく隠蔽である。そして答えは二つだけ与えられる——小成と栄華。部分的な出来上がりと、言葉の飾りである。この単位に出る固有名は、禹と儒・墨だけである。 弱いところも書いておく。最後の「以明」に何を入れるかで、この段落全体の主張が変わってしまう。是非を超えた高い視点を立てるとすれば、その視点自体がひとつの成心ではないのか、という問いがただちに返る。この単位はその問いに答えていない。後代の評として確かめられるものを一つ挙げれば、『荀子』解蔽篇は荘子を「天に蔽われて人を知らず」と評した。天の側からの照らしを立てると人の側の営みが見えなくなる、という批判で、少なくとも読み方の一つとしては当たっている。 例は原文にないので訳者が補うと、成心のない是非とは、尺度を決めないまま長短を言うようなものである。この単位の言い方では、それが「無いものを有るとする」にあたる。
彼と是——道の枢は環の中に立つ

物無非彼,物無非是。自彼則不見,自知則知之。故曰:彼出於是,是亦因彼。彼是,方生之說也。雖然,方生方死,方死方生;方可方不可,方不可方可;因是因非,因非因是。是以聖人不由,而照之于天,亦因是也。是亦彼也,彼亦是也。彼亦一是非,此亦一是非。果且有彼是乎哉?果且無彼是乎哉?彼是莫得其偶,謂之道樞。樞始得其環中,以應無窮。是亦一無窮,非亦一無窮也。故曰「莫若以明」。

物は〈彼(かれ)〉でないものはなく、物は〈是(これ)〉でないものはない。〈彼〉の側からは見えず、自ら知れば知られる。だから言うのだ——〈彼〉は〈是〉から出て、〈是〉もまた〈彼〉によって〔立つ〕、と。〈彼〉と〈是〉とは、並んで生じるという説である。 そうではあるが、生じるそばから死に、死ぬそばから生じる。可であるそばから不可であり、不可であるそばから可である。是に因れば非に因り、非に因れば是に因る。だから聖人はそれ〔=是非のみち〕に由らず、天に照らす。これもまた〈是に因る〉ということだ。 〈是〉もまた〈彼〉であり、〈彼〉もまた〈是〉である。彼〔の側〕にも一つの是非があり、此〔の側〕にも一つの是非がある。はたして〈彼〉と〈是〉の区別はあるのか。はたして無いのか。〈彼〉と〈是〉とがその対(つれあい)を得られない、それを〈道の枢(とぼそ)〉という。枢は、環の中(なか)を得てはじめて、無窮に応じることができる。是もまた一つの無窮であり、非もまた一つの無窮である。だから「明を用いるに越したことはない」と言うのだ。

かみくだくと
この単位を読むには、まず「是」の字が二役を演じていることを押さえねばならない。指示詞の〈これ・こちら〉と、是認の〈正しい〉である。「彼」はその対で〈あれ・あちら〉。第一文の「物は彼でないものはなく、物は是でないものはない」は、指示詞としてはほとんど自明の主張である——どの物も、誰かにとっては〈あれ〉であり、別の誰かにとっては〈これ〉である。ところが同じ字が是認の意味を帯びるとき、この自明の主張が、是と非の位置もまた立つ場所によって入れ替わる、という主張に変わる。議論の駆動力はこの二重性にあり、日本語の一語では移せないので、訳では字を残した。 続く運びは緊密である。〈彼〉は〈是〉から出、〈是〉もまた〈彼〉による。つまり両者は一方だけでは立たず、並んで生じる。そこから「方」の字を繰り返して、生と死、可と不可、是と非が畳みかけられる。ここで一つ注意を要する。「彼/是」の相互依存は指示のはたらきからほぼ論証されているのに対し、「生じるそばから死ぬ」は時間のなかの推移の話であって、同じ「方」の字で継がれてはいても、論の型は移っている。この滑りは論証されていない。この単位の議論のうち、いちばん脆いのはここだと訳者は見る。 「道枢」と「環中」は像として読むのがよい。扉の軸は輪の中心にあって自らは回らず、だからこそ扉がどちらへ振れても応じられる。「彼と是がその対を得られない」とは、向かい合う相手を失うということで、対立が解消されるのではなく、対立の項として数えられなくなる位置がある、と言っている。最後の「是もまた一つの無窮、非もまた一つの無窮」がそれを裏から言う。是を立てれば無限に是非が繰り出せ、非を立てても同じである。枢はその無限級数のうちの一項ではない。 難所は「亦因是也」である。聖人は是非の道に由らず天に照らす、それも〈是に因る〉ことだ——この「亦」を、聖人の照らしとてもう一つの是に因るにすぎぬという自己言及の含みと取るか、これこそが因是と呼ばれるものだと取るかで、この単位の色合いは大きく変わる[[注:因是]]。前者に取れば、この単位は自分の立場だけを例外にしない厳しさをもつことになるが、同時に、なぜ聖人の因是のほうがましなのかを言えなくなる。原文はどちらとも決めていない。 末尾の「故曰」は、直前に自分が挙げた句を引く形になっている。この単位の内部にその句は無く、同じ回のu04末尾にある。
道は歩いて成る——朝三暮四と両行

以指喻指之非指,不若以非指喻指之非指也;以馬喻馬之非馬,不若以非馬喻馬之非馬也。天地,一指也;萬物,一馬也。可乎可,不可乎不可。道行之而成,物謂之而然。惡乎然?然於然。惡乎不然?不然於不然。物固有所然,物固有所可。無物不然,無物不可。故為是舉莛與楹,厲與西施,恢恑憰怪,道通為一。其分也,成也;其成也,毀也。凡物無成與毀,復通為一。唯達者知通為一,為是不用而寓諸庸。庸也者,用也;用也者,通也;通也者,得也。適得而幾矣。因是已。已而不知其然,謂之道。勞神明為一,而不知其同也,謂之朝三。何謂朝三?曰狙公賦芧,曰:「朝三而莫四。」眾狙皆怒。曰:「然則朝四而莫三。」眾狙皆悅。名實未虧,而喜怒為用,亦因是也。是以聖人和之以是非,而休乎天鈞,是之謂兩行。

指をもって〈指が指ではない〉と喩(さと)すのは、指でないものをもって〈指が指ではない〉と喩すのに及ばない。馬をもって〈馬が馬ではない〉と喩すのは、馬でないものをもって〈馬が馬ではない〉と喩すのに及ばない。天地は一つの指であり、万物は一つの馬である。 可とされるところで可であり、不可とされるところで不可である。道は歩まれることで成り、物は呼ばれることでそうなる。どこでそうなのか。そうであるところでそうなのだ。どこでそうでないのか。そうでないところでそうでないのだ。物にはもとよりそうであるところがあり、物にはもとより可であるところがある。そうでない物はなく、可でない物はない。 だからこそ、細い草の茎と太い柱、癩(らい)を病む者と西施、大きなもの、ねじれたもの、いつわりのもの、怪しいもの——道はこれらを通じて一とする。分かれることは成ることであり、成ることは毀(こぼ)たれることである。およそ物には成も毀もなく、ふたたび通じて一である。 ただ達した者だけが、通じて一であることを知る。だからこそ〔是非を〕用いず、これを庸(よう)〔=ふだんのはたらき〕に寄せる。庸とは用いることであり、用いることとは通じることであり、通じることとは得ることである。得るところに至れば、〔道に〕ほぼ近い。〈是に因る〉だけのことだ。そうしていながら、その然る所以を知らない——これを道という。 神明を労して一としながら、それがもともと同じであることを知らない、これを〈朝三〉という。朝三とは何か。猿飼いがとちの実を配って言うには、「朝に三つ、暮れに四つ」。猿どもはみな怒った。「それでは朝に四つ、暮れに三つ」。猿どもはみな喜んだ。名も実も欠けていないのに、喜びと怒りがそのために働いた。これもまた〈是に因る〉ことである。だから聖人は是非によって和し、天鈞(てんきん)に休(いこ)う。これを〈両行〉という

かみくだくと
冒頭の指と馬は、この回でいちばん解の分かれる二文で、構文からして定まらない。読める筋を一つ示せば、こうなる——〈指は指ではない〉という論題を、指を持ち出して示そうとするより、指でないものを持ち出して示すほうがましだ。相手の立てた項の内側で相手に付き合うな、という方法上の注意である。そして「天地は一つの指、万物は一つの馬」と結ぶ。同じ操作はどんな大きさにも適用できるのだから、その論題は何も決着させない。ここは断定を避けて読むべき箇所で、訳者もこれ以上は言えない。 中段は、この文章のうちで最もよく引かれる二句を含む。「道は歩まれることで成り、物は呼ばれることでそうなる」。道路は通ることで道になり、物は名で呼ばれることでそのものになる。ただし、これを「何ものも何ものでもない」と読むのは誤りである。直後に「物にはもとよりそうであるところがあり、もとより可であるところがある。そうでない物はなく、可でない物はない」と続くからだ。この単位が立てているのは、何もかもが空虚だという主張ではなく、どの物にも〈そうである〉と言える点があり、〈可〉と言える点がある、という積極の側の主張である。だから細い茎と太い柱、醜と美、奇怪なものまで並べても、道はそれらを通して一とすることができる。 「分かれることは成ること、成ることは毀たれること」も、抽象的な逆説ではない。例は原文が挙げていないので訳者が補うと、木を切って器を作れば器が成るが、そのとき木は毀たれている。成と毀は同じ一つの出来事の二つの名になる。 「庸に寄せる」以下は、庸→用→通→得と字を継いでゆく連鎖で、日常のありふれたはたらきが〈一に通じる〉ことに接続される。仰々しい統一の作業をせずに、そのつどのはたらきに任せる、という含みである。「そうしていて、その然る所以を知らない」が道と呼ばれるのだから、ここでの到達点は知ではない。 最後の朝三暮四には、読み手が気づくはずの捩れがある。「神明を労して一としながら、もともと同じであることを知らない」ものが朝三と名づけられる。話のなかで労しているのは、総数が変わらないのに怒り、また喜ぶ猿どもである。ところが猿飼いのほうは、猿の是にそのまま乗って両方を成り立たせており、それが「これもまた是に因る」と評される。つまりこの単位は、愚かさの名として朝三を出しながら、同じ話の別の登場人物を聖人の型として使っている。批判の矛先が猿だけでなく、力ずくで一を作ろうとする者にも向いていると読めば、「勞神明為一」の一句が生きる。訳者はその読みを取るが、原文は名指しをしていない。 「両行」は両方がともに行くこと。名も実も欠けないまま、猿も飼い主も得るものを得た、という結末である。付言すると、現代日本語の「朝三暮四」は、目先の違いにこだわること、また言葉で人を欺くことの意で使われ、この単位が眼目とする「名実は虧けない」という点からはずれた用法になっている。
知の四段階と、名人たちの成らなかった成

古之人,其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者,至矣盡矣,不可以加矣。其次以為有物矣,而未始有封也。其次以為有封焉,而未始有是非也。是非之彰也,道之所以虧也。道之所以虧,愛之所以成。果且有成與虧乎哉?果且無成與虧乎哉?有成與虧,故昭氏之鼓琴也;無成與虧,故昭氏之不鼓琴也。昭文之鼓琴也,師曠之枝策也,惠子之據梧也,三子之知幾乎!皆其盛者也,故載之末年。唯其好之也,以異於彼,其好之也,欲以明之彼。非所明而明之,故以堅白之昧終。而其子又以文之綸終,終身無成。若是而可謂成乎,雖我亦成也。若是而不可謂成乎,物與我無成也。是故滑疑之耀,聖人之所圖也。為是不用而寓諸庸,此之謂以明。

古(いにしえ)の人は、その知に至り着いたところがあった。どこに至ったのか。いまだかつて物が有ったことはない、とする者があった——これが至極であり、極まりであり、これ以上を加えることはできない。その次は、物は有るが、いまだかつて封(さかい)〔=物と物との区切り〕が有ったことはない、とする。その次は、封は有るが、いまだかつて是非が有ったことはない、とする。是非があらわになること、それが道の虧(か)ける所以である。道の虧ける所以、それが愛の成る所以である。はたして成と虧とは有るのか。はたして成と虧とは無いのか。成と虧が有る、だからこそ昭氏が琴を鼓(ひ)くのである。成と虧が無い、だからこそ昭氏が琴を鼓かないのである。昭文が琴を鼓き、師曠が策(つえ)を枝(つ)き、恵子が梧(ご)に據(よ)る——三人の知はほとんど〔至極に〕近い。みなその盛んな者であり、だからこそ〔その技を〕晩年まで載(の)せつづけた。ただ、彼らはそれを好んだがゆえに、彼〔=他の人々〕と異なろうとし、好んだがゆえに、それを彼らに明らかにしようとした。明らかにすべきでないものを明らかにした、だから〈堅白〉の昧(くら)さで終わった。そしてその子もまた文〔=昭文〕の綸(いと)をもって終わり、生涯なにも成さなかった。これで成ったと言えるなら、私もまた成っていることになる。これで成ったと言えないなら、物も私も成るところがない。だからこそ、滑疑(こつぎ)の耀(かがや)き〔=まぎらわしくおぼろな光〕こそ、聖人の図(はか)るところである。だからこそ〔是非を〕用いず、これを庸(よう)に寄せる。これを〈以明〉という

かみくだくと
「古の人の知」を、上から下へ、失われていく順に四段に並べる。(1)そもそも物が無い、(2)物は有るが区切りが無い、(3)区切りは有るが是非が無い、(4)是非があらわれる。そして是非のあらわれが道の虧ける所以であり、その同じ所以が「愛」の成る所以だ、という。ここの「愛」は好悪の偏りで、成ることと虧けることが一つの事の表裏だという言い方になっている。 そこで「はたして成と虧は有るのか、無いのか」と問い、答えの代わりに昭氏の琴が置かれる。「成と虧が有る、だからこそ琴を鼓く。成と虧が無い、だからこそ琴を鼓かない」——本文はこの対句を並べるだけで、理由を一言も言わない。古来、弦を一つ鳴らせばその音は成るが、鳴らされなかった他の音はことごとく虧ける、と補って読まれてきた(郭象の注がこの線を出す)。訳者として言っておくと、この補いなしに対句は動かないが、補いは本文の外にある。 三人(昭文・師曠・恵子)の扱いは容赦がない。「三人の知はほとんど至極に近い」と一度持ち上げ、次の行で墜とす。墜とす理由は技の未熟ではない。好んだこと、他人と異なろうとしたこと、他人に明らかにしようとしたこと——この三つである。「明らかにすべきでないものを明らかにした」。同じ「明」の字が、この単位では否定的に二度使われ、末尾の「以明」で肯定的に使い直される。訳語を分けずに残したのはそのためで、訳者の判断である。 弱いところも書いておく。師曠の「枝策」も恵子の「據梧」も、何をしている場面なのか本文からは決められない(注に譲る)。「故載之末年」は文としてすでに崩れており、どちらに読んでも据わりが悪い。さらに、成らなかったことの証拠として子の代を持ち出す運びは、論としては弱い——父の技を継いだ子が成らなかったことは、父の技が成でないことの証明にならない。それでもこの段が効くのは、批判の刃が最後に自分へ返るからである。「これで成ったと言えるなら、私もまた成っている」——名人を斥ける基準は、そのまま語り手自身にもかかっている。
自分の言も同類か——始めの前の始めを遡る

今且有言於此,不知其與是類乎?其與是不類乎?類與不類,相與為類,則與彼無以異矣。雖然,請嘗言之。有始也者,有未始有始也者,有未始有夫未始有始也者。有有也者,有無也者,有未始有無也者,有未始有夫未始有無也者。俄而有無矣,而未知有無之果孰有孰無也。今我則已有謂矣,而未知吾所謂之其果有謂乎,其果無謂乎?

いまここに言(ことば)が有るとして、それが〈是〉と同類なのか、〈是〉と同類でないのか、私は知らない。同類であることと同類でないこととが、たがいに一つの類をなすのなら、〔私の言も〕彼〔=かの言〕と異なるところがない。とはいえ、ためしに言ってみよう。始めが有り、いまだ始めが有り始めていないものが有り、いまだかの〈いまだ始めが有り始めていない〉ということすら有り始めていないものが有る。有が有り、無が有り、いまだ無が有り始めていないものが有り、いまだかの〈いまだ無が有り始めていない〉ということすら有り始めていないものが有る。にわかにして有と無とが有った。しかし有と無とのうち、はたしてどちらが有でどちらが無なのか、まだ分からない。いま私はすでに謂(い)ってしまった。しかし私の謂ったことが、はたして何かを謂ったことになるのか、はたして何も謂っていないのか、分からない。

かみくだくと
ここで刃が語り手自身に向く。「いまここに言が有るとして、それは〈是〉と同類か、同類でないか」。そして「同類と不同類とがたがいに一つの類をなすなら、彼と異なるところがない」。自分の言を相手の言から区別しようとする、その区別を立てるという振る舞いにおいて、すでに相手と同じ側に立ってしまっている——という形である。批判している当のことを、批判する行為そのものでやってしまう。 見のがせないのは、その穴を自分で指摘したうえで「とはいえ、ためしに言ってみよう」と続けることだ。自己言及の困難を認めながら、そこで黙らない。 続く二系列——「始」の三段、「有無」の四段——は、遡行が止まらないことを実演する。始めの前に「まだ始まっていない」が有り、そのさらに前に「〈まだ始まっていない〉ということすらまだ始まっていない」が有る。有無についても一段ずつ後退する。注意しておきたいのは、ここで矛盾が導かれてはいないことである。背理法のように相手の主張を潰すのではなく、遡行を歩いてみせて、語りが足場を失うところまで連れて行くだけだ。これは訳者の見立てだが、最後の一文がそれを裏書きする。「いま私はすでに謂ってしまった。しかしそれが何かを謂ったことになるのか、何も謂っていないのか、分からない」。判断は宙に吊られたまま単位が閉じる。結論が出ないことが、この単位の結論の形である。
一と言えば二になる——万物一体の言い崩し

天下莫大於秋豪之末,而大山為小;莫壽乎殤子,而彭祖為夭。天地與我並生,而萬物與我為一。既已為一矣,且得有言乎?既已謂之一矣,且得無言乎?一與言為二,二與一為三。自此以往,巧歷不能得,而況其凡乎!故自無適有,以至於三,而況自有適有乎!無適焉,因是已。

天下に、秋の毫(け)の末(さき)より大きいものはなく、大山〔=泰山〕は小さい。夭(わか)くして死んだ子より長寿な者はなく、彭祖は若死にである。天地は私とともに生まれ、万物は私と一つである。すでに一つであるのなら、なお言が有り得ようか。すでにそれを〈一〉と謂ってしまったのなら、なお言が無いことが有り得ようか。一と言とで二となり、二と一とで三となる。ここから先は、巧みな暦算の者でも数え取ることができない。まして凡人ならなおさらだ。だから無から有へ行っても三に至る。まして有から有へ行くならなおさらだ。行くのをやめよ。〈是に因る〉だけのことだ

かみくだくと
「秋の毛の先より大きいものはなく、泰山は小さい」「夭折した子より長寿な者はなく、彭祖は若死に」。極端な言い切りを二つ、根拠を添えずに置く。根拠がないのは手抜きではないと訳者は読む。大小・長短がそもそも何かに対しての大小・長短でしかない以上、比較の基準を入れ替えれば言明ごと裏返る——そのことを、論証ではなく裏返った言明そのものを差し出して見せている。 「天地は私とともに生まれ、万物は私と一つである」。荘子の言としてよく引かれるのはこの一句だが、この単位で肝心なのは、その直後から自分でこれを崩しにかかることである。一であるならもう言は有り得ないはずだ。しかし「一」と呼んでしまった以上、言が無いことも有り得ない。そこで「一」と「言」で二、二と一で三。ここから先は暦算の名人でも数え切れない。つまりこの有名な一句は、到達点として立てられているのではなく、立てたとたんに数え上げが始まってしまう実例として出されている。引用されるときにこの落差が落ちることが多いので、断っておく。 最後の「無から有へ行っても三に至る、まして有から有へならなおさら」は、何も無いところから出発してさえ三つ数えてしまうのだから、有るものから有るものへ渡り歩けば際限がない、ということ。だから「行くな」。そして「因是已」——前段から繰り返されてきた言い回しに戻って閉じる。なお、万物一体の主張は雑篇「天下」が恵施の説として「氾愛萬物、天地一體也」と伝えており、この一句が同時代の弁者の論題と地続きであることは指摘しておいてよい。ただしそれはこの単位の外の話で、この単位はその論題を掲げるためではなく、掲げたものを数え崩すために使っている。
八徳と六合の外——論じることの位取り

夫道未始有封,言未始有常,為是而有畛也。請言其畛:有左,有右,有倫,有義,有分,有辯,有競,有爭,此之謂八德。六合之外,聖人存而不論;六合之內,聖人論而不議。春秋經世,先王之志,聖人議而不辯。故分也者,有不分也;辯也者,有不辯也。曰:何也?聖人懷之,眾人辯之以相示也。故曰:辯也者,有不見也。夫大道不稱,大辯不言,大仁不仁,大廉不嗛,大勇不忮。道昭而不道,言辯而不及,仁常而不成,廉清而不信,勇忮而不成。五者园而幾向方矣。故知止其所不知,至矣。孰知不言之辯,不道之道?若有能知,此之謂天府。注焉而不滿,酌焉而不竭,而不知其所由來,此之謂葆光。故昔者堯問於舜曰:「我欲伐宗、膾、胥敖,南面而不釋然。其故何也?」舜曰:「夫三子者,猶存乎蓬艾之間。若不釋然,何哉?昔者十日並出,萬物皆照,而況德之進乎日者乎!」

そもそも道には、もともと封(くぎり)がなく、言(ことば)には、もともと常(一定の定まり)がない。〈是〉を立てることによって畛(あぜ)ができる。その畛を言ってみよう。左があり、右があり、倫(すじみち)があり、義(わけかた)があり、分(わけめ)があり、辯(いいわけ)があり、競があり、爭がある。これを八德という。六合〔=天地と四方〕の外については、聖人はそのまま存(お)いて論じない。六合の内については、聖人は論じるが、議(あげつら)わない。春秋——世を経(おさ)めるもの、先王の志(しる)したもの——については、聖人は議(あげつら)うが、辯(わ)けて争わない。だから、分けるということには、分けないところがある。弁ずるということには、弁じないところがある。なぜか。聖人はそれを懐(いだ)いておき、衆人はそれを弁じて互いに示し合うからだ。だから言うのだ——弁ずる者には、見えていないところがある、と。

そもそも大いなる道は称(な)ざされず、大いなる弁は言わず、大いなる仁は仁ならず、大いなる廉は嗛(へりくだ)らず、大いなる勇は人をそこなわない。道は昭(あき)らかに示されれば道でなくなり、言は弁ずれば届かず、仁は一定に固まれば成らず、廉は清らかさを言い立てれば信じられず、勇は人をそこなえば成らない。この五つは、円(まる)いのに、ほとんど方(四角)のほうへ向かってしまっている

だから、知がその知らないところで止まる、それが至極である。誰が、言わない弁、道(い)わない道を知るだろうか。もし知りうる者があるなら、これを天府(てんぷ)〔=天の蔵〕という。注ぎ入れても満ちず、汲み出しても尽きず、しかもその出どころが分からない。これを葆光(ほうこう)〔=光を包む〕という

だから昔、堯が舜に問うた。「私は宗・膾・胥敖を伐とうと思うのだが、南面していて〔=王座にあって〕釈然としない。その故は何だろうか」。舜は言った。「かの三人〔=三国の君〕は、まだ蓬(よもぎ)や艾(もぐさ)の茂みの間にいるようなものです。あなたが釈然としないのは、なぜですか。昔、十の日(太陽)が並び出て、万物がみな照らされました。まして、徳が日にまさるものであればなおさらです」

かみくだくと
区切りはどこから来るのか、という話から始まる。道には封(くぎり)がなく、言には常(一定の定まり)がない。区切りが生じるのは〈是〉を立てるからだ、というのがこの単位の最初の一文である。境界は世界の側にあるのではなく、是とする働きの側にある。 そのうえで八つの「德」が並ぶ。左・右・倫・義・分・辯・競・爭。この「德」は美徳ではなく、区切ったことで得られる持ち物のことである(訳注)。並びを追うと、左右という単なる位置から始まり、倫・義・分・辯という言い分けを経て、競・爭という争いで終わる。位置の指定が争いに行き着くという降り方をしているが、原文は、だから争いになる、とは書いていない。順序をそう読むのは訳者の側である。 次に聖人の三段。六合の外は存(お)いて論じない、六合の内は論じるが議さない、春秋(世を経めるもの、先王の記録)は議するが辯じない。存・論・議・辯の四語が階段をなす。ここで注意したいのは、この段が沈黙を勧めていないことである。聖人は論じるし、議しもする。止められているのは最後の一段、辯だけだ。 訳者の連想を一つ断っておくと、対象の領域ごとに語る権利を区切るという形は、読者になじみの枠組みで言えばカントが理性の越権を裁くやり方に外形が似ている。ただし荘子の側には、なぜ六合の外は論じられないのかという根拠が、この単位に一言もない。似ているのは形だけである。 後半は五つの否定——大道は称ばれず、大弁は言わず、大仁は仁ならず、大廉はへりくだらず、大勇は人をそこなわない——と、その裏返しの五つの失敗である。昭らかにする、弁ずる、固定する、清さを言い立てる、そこなう。どれも、あるものをそれと分かる形に出すことで、そのものを失う形をしている。円いのにほとんど方へ向かう、という一句がそれをまとめる。 そして知の話に戻り、知らないところで止まるのが至極だとして、天府と葆光の比喩で閉じる。注いでも満ちず、汲んでも尽きず、出どころの分からない器。 最後の堯と舜の問答は、この単位の中では収まりが悪い。舜は、伐とうとしている三国など蓬や艾の茂みの間にあるようなものだ、と言いながら、締めくくりは十の太陽が万物を照らす比喩であり、しかも徳はそれにまさると言う。この単位は少し前で、道は昭らかに示されれば道でなくなる、と言っていた。照らすことを退けた口が、照らすことの最上級で終わっている。この緊張は、この単位のうちでは解かれない。 同じことは全体にも言える。弁ずる者には見えていないところがある、と言うこの段は、八つの德を数え上げ、五つの否定を並べ、聖人の作法に段階をつけている。弁の禁止が、弁の形で述べられている。
泥鰌と猿と人——正しい住処は誰が知るか

齧缺問乎王倪曰:「子知物之所同是乎?」曰:「吾惡乎知之!」「子知子之所不知邪?」曰:「吾惡乎知之!」「然則物無知邪?」曰:「吾惡乎知之!雖然,嘗試言之。庸詎知吾所謂知之非不知邪?庸詎知吾所謂不知之非知邪?且吾嘗試問乎女:民溼寢則腰疾偏死,鰌然乎哉?木處則惴慄恂懼,猨猴然乎哉?三者孰知正處?民食芻豢,麋鹿食薦,蝍且甘帶,鴟鴉耆鼠,四者孰知正味?猨,猵狙以為雌,麋與鹿交,鰌與魚游。毛嬙、麗姬,人之所美也,魚見之深入,鳥見之高飛,麋鹿見之決驟。四者孰知天下之正色哉?自我觀之,仁義之端,是非之塗,樊然殽亂,吾惡能知其辯!」齧缺曰:「子不知利害,則至人固不知利害乎?」王倪曰:「至人神矣:大澤焚而不能熱,河、漢沍而不能寒,疾雷破山、風振海而不能驚。若然者,乘雲氣,騎日月,而遊乎四海之外。死生无變於己,而況利害之端乎!」

齧缺(げっけつ)が王倪(おうげい)に問うた。「あなたは、物がみな同じく〈是〉とするものを知っていますか」。「私にどうしてそれが知れよう」。「あなたは、あなたの知らないところを知っていますか」。「私にどうしてそれが知れよう」。「では、物には知が無いのですか」。「私にどうしてそれが知れよう。とはいえ、試みに言ってみよう。私が〈知る〉と言っているものが〈知らない〉ではない、とどうして分かろう。私が〈知らない〉と言っているものが〈知る〉ではない、とどうして分かろう。

そこで、試しにあなたに問おう。人は湿ったところに寝れば腰を病み、半身が萎える。鰌(どじょう)もそうだろうか。木の上に居れば、びくびくと震えて怖れる。猿もそうだろうか。この三者のうち、誰が正しい住処を知っているのか。人は芻豢(すうけん)を食べ、麋(おおじか)や鹿は草を食べ、蝍且(むかで)は蛇を甘いとし、鴟(ふくろう)や鴉(からす)は鼠を好む。この四者のうち、誰が正しい味を知っているのか。猿は、猵狙(へんそ)がこれを雌とし、麋は鹿と交わり、鰌は魚と泳ぐ。毛嬙(もうしょう)と麗姫(りき)は、人が美しいとするものだ。だが魚は彼女たちを見れば深く潜り、鳥は見れば高く飛び、麋や鹿は見れば駆け去る。この四者のうち、誰が天下の正しい色〔=美しさ〕を知っているのか。

私から見れば、仁義の端(いとぐち)も、是非の道すじも、入り乱れて雑然としている。私にどうしてその弁別が分かろう」。

齧缺が言った。「あなたが利と害を知らないのなら、至人ももとより利と害を知らないのですか」。王倪は言った。「至人は神(しん)である。大きな沢が焼けても熱くすることはできず、黄河や漢水が凍りついても寒くすることはできず、はげしい雷が山を裂き、風が海を揺すぶっても、驚かすことはできない。そのような者は、雲気に乗り、日月にまたがって、四海の外に遊ぶ。死生すら自分を変えない。まして利害の端(いとぐち)などなおさらだ」。

かみくだくと
三度の問いに、三度とも、私にどうしてそれが知れよう、と同じ答えが返る。三度目が効いている。では物には知が無いのか、という問いに対しても同じ答えを返すことで、知は無い、という否定の断定のほうも退けられる。知らないという主張に居直らない形になっている。 そのうえで、試みに言ってみよう、と条件を付けて語り出す。最初の一手は自分の言葉への適用である——私が〈知る〉と呼んでいるものが〈知らない〉でないと、どうして分かるか。ここまでが枠で、以下の動物の話はその枠の中で語られる例である。 例は三組ある。住処(人・鰌・猿の三者)、味(人・麋鹿・蝍且・鴟鴉の四者)、色(人・魚・鳥・麋鹿の四者)。加えて交わりの相手(猵狙と猿、麋と鹿、鰌と魚)。どれも、種が違えば適したものが違い、どれを基準に据える理由もない、という形をしている。生物学の素養がある読者なら、生息環境・食性・配偶行動・被食者の忌避反応という区分にきれいに対応しているのが見えるはずだが、この段が言おうとしているのは適応の事実ではなく、〈正しい〉という語が種を跨いだところで足場を失う、ということである。 ここでこの段の弱いところを挙げておく。例はすべて感覚と欲求の水準にある。湿った所に寝る、草を食う、美女を見て逃げる。ところが結論は、仁義の端、是非の塗——規範の水準に一気に移る。感覚が種ごとに違うことから、善悪や是非に共通の基準がないことは出てこない。両者は「自我觀之」(私から見れば)の一語で繋がれているだけで、この単位に論証はない。訳者の見るところ、ここは埋められていない飛躍である。 末尾の転調も見ておきたい。齧缺は、あなたが利害を知らないなら至人も知らないのか、と問う。王倪はこれに答えない。答える代わりに、至人は焼けても熱くならず、凍っても寒くならず、雷にも風にも驚かない、と言う。知の話が不傷の話にすり替わっている。しかも、それまで何一つ断定しなかった口が、至人については断定で語る。この落差に橋を架ける語は、この単位の中にはない。雲気に乗り四海の外に遊ぶという描写を比喩と取るかそのまま取るかも、この単位だけからは決められない。
大いなる夢と、論争を裁く者の不在

瞿鵲子問乎長梧子曰:「吾聞諸夫子,聖人不從事於務,不就利,不違害,不喜求,不緣道,无謂有謂,有謂无謂,而遊乎塵垢之外。夫子以為孟浪之言,而我以為妙道之行也。吾子以為奚若?」長梧子曰:「是黃帝之所聽熒也,而丘也何足以知之!且女亦大早計,見卵而求時夜,見彈而求鴞炙。予嘗為女妄言之,女以妄聽之,奚?旁日月,挾宇宙,為其脗合,置其滑涽,以隸相尊。眾人役役,聖人愚芚,參萬歲而一成純。萬物盡然,而以是相蘊。予惡乎知說生之非惑邪!予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪!麗之姬,艾封人之子也。晉國之始得之也,涕泣沾襟;及其至於王所,與王同筐床,食芻豢,而後悔其泣也。予惡乎知夫死者不悔其始之蘄生乎!夢飲酒者,旦而哭泣;夢哭泣者,旦而田獵。方其夢也,不知其夢也。夢之中又占其夢焉,覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也,而愚者自以為覺,竊竊然知之。君乎,牧乎,固哉!丘也,與女皆夢也;予謂女夢,亦夢也。是其言也,其名為弔詭。萬世之後,而一遇大聖知其解者,是旦暮遇之也。既使我與若辯矣,若勝我,我不若勝,若果是也?我果非也邪?我勝若,若不吾勝,我果是也?而果非也邪?其或是也,其或非也邪?其俱是也,其俱非也邪?我與若不能相知也,則人固受其黮闇。吾誰使正之?使同乎若者正之,既與若同矣,惡能正之!使同乎我者正之,既同乎我矣,惡能正之!使異乎我與若者正之,既異乎我與若矣,惡能正之!使同乎我與若者正之,既同乎我與若矣,惡能正之!然則我與若與人俱不能相知也,而待彼也邪?何化聲之相待,若其不相待。和之以天倪,因之以曼衍,所以窮年也。1謂和之以天倪?曰:是不是,然不然。是若果是也,則是之異乎不是也亦無辯;然若果然也,則然之異乎不然也亦無辯。化聲之相待,若其不相待。和之以天倪,因之以曼衍,所以窮年也。2忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟。」

瞿鵲子(くじゃくし)が長梧子(ちょうごし)に問うた。「私は夫子〔=孔子〕からこう聞きました。聖人は務め(仕事)に従事せず、利に就かず、害を避けず、求めることを喜ばず、道に縁(よ)らない。言うことが無いのに言うことが有り、言うことが有るのに言うことが無い。そうして塵や垢の外に遊ぶ、と。夫子はこれを孟浪(でたらめ)な言と考えましたが、私は妙なる道の行(おこな)いだと考えます。あなたはどうお考えですか」。

長梧子は言った。「これは黄帝でさえ聞いて惑うところだ。丘〔=孔子〕にどうして分かるものか。それに、あなたもまた早計にすぎる。卵を見て時を告げる鶏を求め、はじき玉を見て鴞(ふくろう)の炙り肉を求めるようなものだ。私はあなたのために、でたらめに言ってみよう。あなたもでたらめに聞いてくれ。どうか。

日月に寄り添い、宇宙をわきに挟み、それらとぴたりと合わさり、乱れて分かちがたいところはそのままに置き、隷(しもべ)であることをもって互いに尊ぶ。衆人はあくせくと働き、聖人は愚かに鈍い。万年の時を並べ合わせて、一つの混じりけないものを成す。万物はことごとくそうであって、そうであることによって互いに包み合っている。

私はどうして、生を悦ぶことが惑いではない、と知れよう。私はどうして、死を憎むことが、幼くして故郷を失ったまま帰ることを知らない者〔のようなもの〕ではない、と知れよう

麗の姫は、艾(がい)の国境役人の娘であった。晋の国が初めて彼女を手に入れたとき、涙が襟を濡らした。だが王のもとに至り、王と同じ寝台に寝、芻豢を食べるようになってから、泣いたことを後悔した。私はどうして、かの死んだ者が、はじめに生を求めたことを後悔していない、と知れよう。

夢で酒を飲んだ者は、朝になって哭き泣く。夢で哭き泣いた者は、朝になって狩りに出る。その夢のさなかには、それが夢だと分からない。夢の中で、さらにその夢を占ったりもする。覚めてはじめて、それが夢だったと分かる。そして大いなる覚めがあってはじめて、これが大いなる夢だったと分かる。ところが愚か者は、自分では覚めているつもりで、こせこせと知ったふうにしている。君(きみ)だ、牧(まきびと)だ、と〔序列をつける〕。固陋なことだ。丘〔=孔子〕もあなたも、みな夢である。私があなたを夢だと言うのも、また夢である。この言いようを、名づけて弔詭(ちょうき)という。万世の後に、その解き方を知る大聖に一たび出会えたとしても、それは朝夕のうちに出会ったようなものだ。

かりに私とあなたが論争したとしよう。あなたが私に勝ち、私があなたに勝てなかったとして、あなたが果たして是なのか、私が果たして非なのか。私があなたに勝ち、あなたが私に勝てなかったとして、私が果たして是なのか、あなたが果たして非なのか。どちらかが是で、どちらかが非なのか。どちらも是なのか、どちらも非なのか。私とあなたが互いに知り合えないのなら、ほかの人はもとより、その暗がりを引き受けるほかない。私は誰にそれを正させようか。あなたと同じ者に正させれば、その者はすでにあなたと同じなのだから、どうして正せよう。私と同じ者に正させれば、すでに私と同じなのだから、どうして正せよう。私ともあなたとも異なる者に正させれば、すでに私ともあなたとも異なるのだから、どうして正せよう。私ともあなたとも同じ者に正させれば、すでに私ともあなたとも同じなのだから、どうして正せよう。そうであれば、私もあなたも〔第三の〕人も、みな互いに知り合えない。それでもなお、かの者を待つのか。

化声(かせい)〔=移り変わる言論の声〕が互いに相手を待つのは、待たないのと同じことだ。これを天倪(てんげい)によって和らげ、曼衍(まんえん)に因(よ)る。それが年を窮(まっと)うするゆえんである。

何を〈天倪によって和らげる〉というのか。答えて言う——是と不是、然と不然〔とを、ひとしなみにすることだ〕。是がもし果たして是であるのなら、是が不是と異なることには、弁ずるまでもない。然がもし果たして然であるのなら、然が不然と異なることにも、弁ずるまでもない。

化声が互いに相手を待つのは、待たないのと同じことだ。これを天倪によって和らげ、曼衍に因る。それが年を窮うするゆえんである。

年を忘れ、義を忘れ、無竟(むきょう)〔=限りのないところ〕に振(ふる)い、だから無竟に寓(よ)せるのだ」。

かみくだくと
この単位はまず、語りの枠を二重に括弧に入れるところから始まる。瞿鵲子は、聖人についての話を夫子から聞いたと言う。長梧子が「丘」と応じているので、この夫子は孔子である。伝えられた話では、その孔子自身がこれを孟浪(でたらめ)な言として退けており、瞿鵲子のほうが妙なる道の行だと買っている。長梧子はさらにその上から、これは黄帝でさえ聞いて惑うところだ、孔子に分かるものか、と言う。誰の言葉として受け取ればよいのかが、最初から宙に浮かせてある。 続く、私はでたらめに言ってみるからあなたもでたらめに聞け、という前置きは読み飛ばせない。以下に来る宇宙的な描写も、生死についての反語も、この免責の内側で語られる。ここを外して、荘子はこう説いた、と引くと、この段の作りを壊すことになる。卵を見て鶏鳴を求め、はじき玉を見て焼いた鳥肉を求めるという二つの比喩も、結論を急ぐなという同じ警告である。 中心には二つの反語がある。生を悦ぶことが惑いでないと、どうして知れるか。死を憎むことが、幼くして家を出たまま帰り方を忘れた者のようでないと、どうして知れるか。麗姫の話はその例として置かれる。晋に連れて行かれるとき襟を濡らして泣いた娘が、王の寝台と美食を得たのちに、泣いたことを後悔した。評価は、位置が変われば反転する。 ただし、訳者の注意として言えば、この推論は一つ余分なものを要る。麗姫には、後悔できる次の位置が実際にあった。死者にそれがあるかどうかを、この単位は言っていない。反語は「知れようか」の形をとって断定を避けているが、避けたぶんだけ、生を悦ぶ側の評価を崩す力も弱い。 夢の段は、この単位のうちでもっとも構造がはっきりしている。夢のさなかはそれが夢と分からない、夢の中で夢を占うことさえある、覚めてはじめて分かる、そして大いなる覚めがあってはじめてこれが大いなる夢と分かる。入れ子である。眼目は、語り手が自分をその外に置かないことだ。孔子もあなたも夢、あなたを夢だと言う私も夢。そしてその言いように、弔詭(きわめて奇怪な言)という名を自分で付ける。 近代哲学から来た読者への注意を一つ。デカルトの夢の懐疑と形は似るが、向きが違う。デカルトの夢は覚醒を取り戻すための一段階であり、疑いは後で解かれる。ここでは大覚は万世に一度の出会いとして遠くに置かれ、しかもそれを語っている当人が夢の内にいると自称する。抜け出す方向の議論ではない。これは訳者の比較であって、原文がデカルトに触れているわけではない。 後半の、論争を裁く者がいないという議論は、この段でもっとも形の整ったところである。私とあなたが争って一方が勝ったとして、勝ちは是を意味しない。ではほかの者に正させるとして、その者は、あなたと同じか、私と同じか、私ともあなたとも異なるか、私ともあなたとも同じか——場合は尽くされている。そして四つのどれも失格になる。当事者のどちらかと同じなら偏っており、どちらとも異なるなら判定の共通の足場がなく、両方と同じでも同じ理由で失格する。 効いている前提は、正す者の資格を、当事者との一致・不一致だけで測るという点である。第四の場合(私ともあなたとも同じ者)は、私とあなたが対立している以上どう成り立つのか分かりにくく、二人の言い分にそれぞれ部分的に同意する者、と取ればひとまず読める。なお、この論争の相手として誰が想定されているかは、この単位には書かれていない。 結びの、化声が互いに相手を待つのは待たないのと同じ、以下は、天倪・曼衍という語義の定まらない語に寄りかかっており(訳注)、前段の切れ味に比べて明らかに輪郭が甘い。年を忘れ義を忘れ、限りのないところに身を寄せるという締めも、直前の場合分けが到達した結果から論理的に出てくるものではなく、態度の表明である。渡された本文はこの一節を二度繰り返しており、その事情は訳注に記した。
影の答えと胡蝶の夢——結語としての物化

罔兩問景曰:「曩子行,今子止,曩子坐,今子起,何其無特操與?」景曰:「吾有待而然者邪!吾所待又有待而然者邪!吾待蛇蚹、蜩翼邪!惡識所以然?惡識所以不然?」昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也,自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。

罔両(もうりょう)が景(かげ)に問うた。「さきほどあなたは歩いていた、今あなたは止まっている。さきほどあなたは坐っていた、今あなたは起っている。どうしてそんなに、自分だけの操(みさお)が無いのか」

景は言った。「私は待つもの〔=依り所〕があってそうなのだろうか。私の待つものにも、また待つものがあってそうなのだろうか。私は蛇の腹鱗(はらうろこ)、蟬の翅(はね)を待っているのだろうか。どうしてそうであるゆえんを知れよう。どうしてそうでないゆえんを知れよう」。

かつて荘周は、夢で胡蝶(こちょう)となった。栩栩然(くくぜん)として胡蝶であった。自ら愉しんで、心のままであった。周であることを知らなかった。にわかに覚めると、蘧蘧然(きょきょぜん)として周であった。周が夢で胡蝶となったのか、胡蝶が夢で周となっているのか、〔それが〕分からない。周と胡蝶とには、必ず分(わ)かちがあるはずである。これを物化(ぶっか)という

かみくだくと
二つの短い話が、つなぎの語なしに並べて置かれている。前は罔両と景の問答、後は荘周と胡蝶。両者をどうつなぐかは、原文には書かれていない。 罔両の問いは、歩く・止まる・坐る・起つの四つを並べ、そのどれも影の自前ではないと難ずる。求められているのは「特操」、自分だけの操である。原文が使うこの語は人の節操を言う語で、影にその有無を問うところで、問いはすでに少し傾いている(この評は訳者のもの)。 景の答えは、期待される答えを外す。ここで影が「私は形に待(よ)っている」と言えば話は終わる。原文はそう言わない。言うのは、私には待つものがあってそうなのか、その待つものにもまた待つものがあってそうなのか、という重ねの問いで、依り所を一段ずつ後ろへ送る。そして連鎖の終点を示さないまま、なぜそうであるか、なぜそうでないかを知る術がない、と閉じる。答えを与えるのではなく、答えの形を崩している。しかも影が口にする依り所は蛇の腹鱗と蟬の翅で、どちらも自分の身には属さない。 訳者が例を補うと——原文に例は無い——置時計の針になぜ動くのかと問えば歯車が答えになり、歯車に問えばぜんまいが答えになるが、ぜんまいで止まるのは、問うのをやめる場所を決めただけである。景の答えは、そのやめる場所を置かない。 胡蝶の話には段階がある。夢のあいだは周であることを知らない。覚めれば、はっきりと周である。そのうえで、どちらが夢なのか決められない。ここまでなら、直前の段の大いなる夢の続きとして読める。だが原文はそこで止まらず、「必ず分有らん」と、区別があることを認める。周と胡蝶が同じだ、とは一字も書かれていない。書かれているのは、区別があり、そのうえで一方が他方になる、それを物化と呼ぶ、ということである。境目が消えたのではなく、境目のまま渡ったことになっている。 論として見れば、この段は何も証明しない。影の答えは問いの列であり、胡蝶の話は報告である。夢を疑うための手続きも、物化がどういう事態かの規定も原文には無く、「物化」の語は最後に一度置かれ、説明されないまま篇が終わる。論争は誰にも正させられないと言った直前の段の締めくくりとしては、論証しないことに筋は通っている。ただ、ここから何かを取り出そうとする読者には、最後の一語が空白のまま渡される。後世の注がこの二字に多くを書き込んできたのは、その空白のせいでもある。

訳注

  1. 「似喪其耦」。耦は「対(つい)をなすもの・つれあい」。身に対する心、あるいは吾に対する我のように、二つ一組の片方を指す。ただし何と何の対なのかを本文は明示しない。下文の「吾喪我」と響き合わせて読むのが通行だが、その対応も本文が言明しているわけではない。
  2. 顔成子游の名。ここで師は弟子を名で呼びかけている。子游は字(あざな)。
  3. 「今者吾喪我」。一人称が「吾」と「我」に書き分けられている。吾を主体の側、我を対象化され所有された自己の側と読む解釈が広く行われるが、本文自身はこの区別を説明しない。訳では書き分けが見えるよう強調を付した。
  4. らい。もと管を並べた笛の名で、転じて笛の音、さらに孔から出る音一般を指す。この単位では人籟・地籟・天籟の三段に用いられる。
  5. 「大塊噫氣」。大塊は大いなる土のかたまり、すなわち大地。噫は「げっぷをする、気を吐き出す」。
  6. 于・喁はともに風が孔を過ぎるときの擬音。先行する風が「于」と発すれば後続が「喁」と応じる、という唱和の形で書かれている。日本語の音写は便宜的なもの。
  7. 竹管を並べ束ねてつくる楽器(笙・竽の類)。
  8. 校訂上の難所。「使其自已也」の「已」を「止(や)む」と読めば「それぞれが自分でやむようにさせている」、「己(おのれ)」の借字と読む本文に従えば「それぞれをそれ自身から出させている」となる。ただし、音の起こりを外の吹き手にではなく孔それぞれに帰する点では読みは変わらず、直後の「咸其自取」がその方向を支える。訳は前者を採り、後者の含みを消さない語順にした。
  9. 「閑」と「閒」は字形が近く、伝写のうえで混同されやすい。訓詁も一定せず、閑閑を「ゆったり広い」、閒閒を「こまごまと分け隔てる・隙をうかがう」と対にして読むのが通行だが、大小の評価が反転しかねない箇所である。
  10. 心の闘い方を名詞で三つ並べた句。縵はゆるく張った幕のようにだらだらしたもの、窖は地中の穴蔵のように深く隠したもの、密は網目を細かく詰めたもの。動詞を欠き、上の「日以心鬭」に付けるか下の「小恐惴惴」に付けるかも本文だけでは決まらない。
  11. 機は弩(いしゆみ)の引き金、栝は弦にかける矢筈(やはず)。放たれれば戻らない速さと不可逆さをいう。なお「其司是非」の司は「伺(うかが)う」に通ずるとして「是非を見張る」と読んだ。
  12. 洫は本来「みぞ」。ここでは「溢」に通ずるとみて「老いて〔欲に〕溺れきる」と読む説と、「涸」の意にとって「老いて涸れきる」と読む説がある。訳は後者を採った。
  13. 「樂は虛より出で、蒸は菌を成す」。楽の音は楽器の空洞から出、蒸れた気は茸を生やす。直後に「莫知其所萌」と続くので、生じるもとが見えないまま生じる事例として並べられている。
  14. 「旦暮得此,其所由以生乎」。「此」の指すものによって読みが割れる。直前の情態そのものを指すと取れば「朝夕にこれを得ていること自体が、それらの生ずるもとなのか」、「其所萌」を知ることを指すと取れば「もしこれを知りえたなら、生ずるもとが分かるのか」となる。訳は前者。
  15. 「彼」の指示対象は、この単位のなかには明示されていない。直前に並べられた情態の群れを指すと読むのが通行だが、本文自身は指定していない。訳では〔情態〕と補い、訳者の補いであることを括弧で示した。
  16. 真宰・真君はともに「まことの主宰者・まことの君」。本文はこれを「有るかのようだ(若有)」「そこに存するのか(其有…乎)」という形でしか言わず、有ると断定してはいない。宰は司る者、君は臣に対する語で、直前の臣妾・君臣の比喩をそのまま受けている。
  17. 情はここでは感情ではなく「実(じつ)・まことのありよう」。下文の「求得其情與不得」の情も同じ意味で用いられている。
  18. 「一受其成形,不亡以待盡」。「亡」を「失う」と取れば「その形を失わないまま尽きるのを待つ」、「忘」の借字と読めば「〔形を〕忘れずに尽きるのを待つ」となる。異文をもつ箇所で、読みは一定しない。訳は前者を採った。
  19. 芒は「くらい・ぼんやりして見分けがつかない」。篇のこの箇所は自問の形で閉じられ、答えは示されない。
  20. 「成心」——すでに成り立って固まった心。「成」は出来上がったこと。後世の注には、これを否定的な先入見と取る読みと、各人にそなわった心そのものと中立に取る読みとがある。訳では語をそのまま残した。
  21. 「知代」——「代」は交代・移り変わり。〔物事の〕推移を知ることと解した。この二字は古来解が分かれ、「代」を世代・更迭の意に取る説もある。文脈上は「愚者にもまたある」と対になり、それが賢い者だけの特権ではないという運びを作る。
  22. 「今日適越而昔至」——今日出発して昨日着く。『莊子』天下篇が惠施の説として挙げる十事のうちに「今日適越而昔來」があり、同型の逆説である。ここでは詭弁の一例としてではなく、「無いものを有るとする」ことの見本として引かれている。
  23. 禹——夏の始祖とされ、洪水を治めた伝説をもつ。「神禹」はその神異をたたえた呼び方で、ここでは知の極みの代名詞として置かれる。その禹にも知りえない、と言う。
  24. 「言非吹也」——「吹」は風が吹くこと、また吹いて出る音。言は単なる息の音ではない、の意。この単位の内部には〈吹〉が何を承けるかを示す語がない。訳では〔風が〕を補った。
  25. 「鷇」は孵ったばかりで親に養われる雛。「鷇音」はその鳴き声。人の言と雛の声に区別があるかという問いは、この単位では問いのまま置かれ、答えが与えられない。
  26. 「小成」は小さくまとまった出来上がり、部分的な達成。「榮華」は草木の花、転じて言葉の華やかな飾り。道も言も、失われるのではなく〈隠れる〉と言われている点が眼目で、直前の「道はどこへ行って存らぬのか」という反語と対応する。
  27. 「以明」は「明を用いる」とも「明らかなものに依る」とも読まれ、定訳がない。訳では原語のまま残した。同じ「明」の字がこの単位では二度、否定的に用いられており(「明らかにしようとした」「明らかにすべきでないものを明らかにした」)、訳し分けると原文の仕掛けが消えるため、あえて分けなかった。
  28. 「彼」と「是」——「是」は指示詞の〈これ・こちら〉と、是認の〈正しい〉を兼ねる。この単位の議論はその二重性の上に立っており、日本語の一語では移せない。訳では字を残し、「彼」に〈あれ・あちら〉の意を持たせた。
  29. 「自彼則不見,自知則知之」——「知」を「是」に作る本、またそう改めて読む説がある。「彼の側からは見えず、是(こちら)の側からなら知られる」と読むほうが対句として整うが、ここは字のまま「自ら知れば」と訳した。
  30. 「方生之說」——「方」は〈ちょうど…するとき〉〈並んで〉。彼と是は一方が立てば他方も立つ、同時に生じるという説。続く「方生方死」以下は同じ字を、時間のなかの同時性のほうへ滑らせて畳みかける。
  31. 「因是」——〈是に因る〉。この回では三度現れる(u05に一度、u06に二度)。すでにある〈是〉に乗るだけで、自分の側から是と定めない態度を指すと取るのが有力。英訳者A・C・グレアムは「因是」を the 'that's it' which goes by circumstance、「為是」を the 'that's it' which deems と訳し分けた。訳では直訳のまま〈是に因る〉とし、解釈を訳文で決めないようにした。
  32. 「樞」は戸のとぼそ、扉が回る軸。「環中」は輪の中央のうつろ。軸は輪の中心にあって自らは動かず、回転のどこにでも応じられる。「莫得其偶」の「偶」は対(つい)・相手で、彼と是がたがいに向かい合う相手を失うことをいう。
  33. 「指」と「馬」——現存の『公孫龍子』には、白馬は馬にあらずと論じる白馬論と、「物莫非指,而指非指」に始まる指物論がある。この単位は人名も書名も挙げていないが、この種の論題が当時流通していたことは確かめられる。文の構造(Aをもって〈AがAにあらず〉を喩すのは、非Aをもってするに及ばない)については解が分かれ、相手の立てた項の内側で論じるなという方法上の注意と読む説が多い。
  34. 「莛」は草の茎・細い棒、「楹」は太い柱で、小と大の対。「厲」は癩(らい)を病む者と取るのが通行の解で、越の美女とされる西施と対にして醜の極を示す。「恢恑憰怪」は、大きい・ねじれた・いつわった・怪しいの四字を並べたもの。
  35. 「庸」は日常のありふれたはたらき。「寓」は寄せる・仮に置く。続く「庸也者,用也……」は、庸→用→通→得と字を送っていく連鎖で、音義の近い字を継ぐ古い訓詁の形式をとる。
  36. 「狙公」は猿飼い。「芧」はとちの実(一説にどんぐりの類)。「莫」は暮に同じ。同じ話は『列子』黄帝篇にも見えるが、現行『列子』の成立年代には議論がある。
  37. 「天鈞」の「鈞」は均(ひとしい)に通じ、また陶器を作る轆轤(ろくろ)の意でもある。回りながら中心が均衡を保つ器物の像として読める。同じ回のu05にある「環中」と同種の像である。「両行」は両方がともに行くこと。「和之以是非」は〈是非を用いて和す〉とも〈是と非とを和す〉とも読めるので、訳は字順のまま「是非によって和し」とした。
  38. 「封」は本来、境を土盛りして封じることをいう字で、ここでは物と物とを分ける区切りを指す。訳では「封(さかい)」と読み、〔 〕で補った。
  39. 昭氏=昭文で、琴の名手として挙げられる。師曠は楽師の名。その「枝策」は、策(つえ)を杖(つ)くとも、拍子を取る棒を執るとも読まれ、確定しない。恵子(恵施)の「據梧」も、梧(あおぎり)の木によりかかるとも、梧几=机によりかかって論ずるとも読まれる。本文から確実に取り出せるのは、三者がそれぞれの道を極めた者だということだけで、動作の中身は決められない。
  40. 「故載之末年」は難文で、(a)その技を晩年まで担い続けた、(b)その名が後の世まで記載された、の二読がある。「載」を「載(の)せる・行なう」と取るか「記載する」と取るかの差。訳は(a)を採ったが、決め手はない。
  41. 堅白の論。石の「堅さ」と「白さ」は同時には把握されないとして両者を離す議論で、『公孫龍子』に「堅白論」の篇がある。本文はこれを、明らかにしようとしてかえって暗くなるものの典型として「昧(くら)さ」と呼ぶ。
  42. 「綸」は糸。昭文の子が父の琴の弦を継いだと読むのが普通だが、「綸」を「論」に通ずるとして父の説を継いだと読む説もある。どちらでも「終身無成」——受け継いでも成らなかった、という点は変わらない。
  43. 「滑疑」ははっきりしないさま。この句は二通りに読まれてきた。(a)「圖」を図る・めざすと取り、聖人はその、まぎらわしくおぼろな光をこそ図る、(b)「圖」を「啚(=鄙)」の借字と見て、聖人はそれを斥ける。直後が「不用而寓諸庸」と続くこと、すなわち分明な是非の光を用いない方向に進むことから、訳は(a)を採った。
  44. 「其與是類乎」の「是」は、直前までの議論を指すとも、是非の「是」そのものを指すとも読める。訳では〈是〉のまま残し、どちらにも開いておいた。
  45. 「俄而有無矣」は、(a)にわかに有と無とが有った、(b)にわかにして「無」が有(あ)った、の両様に読める。直後が「有無之果孰有孰無」と受けるので、訳は(a)。
  46. 「秋豪」は秋に生えかわる獣の細毛で、極小のものの代名詞。「大山」は泰山で、テキストにより「太山」に作る。
  47. 彭祖は長寿の代名詞として伝えられる人物。「殤子」は成人に達しないまま死んだ子をいう。
  48. 「巧歷」は暦算に巧みな者、すなわち計算の名人。
  49. 「封」は土を盛って作る境、「畛」は田と田のあいだのあぜ道。どちらも区切り・境界線を指す語で、原文は境界の比喩を農地の語で立てている。「為是而有畛」の〈是〉は、直前の単位の末尾にある〈因是〉の〈是〉と同じ語である。
  50. 「德」は美徳ではなく「得」——そこで得られるもの、現れ出た性状——の意に取るのが通例。左・右は位置、倫はすじみち、義はことわけ、分は区分、辯は言い分けを指す。倫を「論」、義を「議」に通じて読む説もあり、確定しない。競と爭は、並んで先を競うことと、向かい合って言い争うことの別と解される。
  51. 天地上下と四方。世界の全体を指す常套語。「存而不論」の「存」は、そのまま置いて手をつけない意。
  52. 「春秋」を魯の年代記(のち孔子に帰される『春秋』)と取るか、史書・年代記一般と取るかで解が分かれる。「經世」は世を経(おさ)める意にも、世を経(へ)る=時代を追って記す意にも読める。「志」は記録・書きとどめたものの意。
  53. 「大廉不嗛」の「嗛」は、「謙」に通じてへりくだる意に取るのが通行の読み。ほかに「慊」(あきたらない)に取る説もある。訳は前者に従った。直後の「廉清而不信」(廉潔を言い立てれば信じられない)と釣り合う読みになる。
  54. 「园」は「圓(円)」の異体。円は転がって定まらないもの、方は角があって定まるもの。「幾」はほとんど、の意。五つの大なるものは本来円いのに、名指し・弁別・固定によって方へ寄ってしまう、という趣旨に取れる。「园」を「刓」(けずる、そこなう)と読む説もある。
  55. 「天府」は天の蔵・府庫。「葆光」は光を包み隠すこと、「葆」は「保」「包」に通じるとされる。注いでも満ちず汲んでも尽きないという言い方は容器の比喩だが、この単位はそれ以上の説明を加えない。
  56. 三つの小国の名。『荘子』人間世篇にも「堯、叢枝・胥敖を攻む」という近い記述があり、同じ伝承を指すと見られる。「南面」は君主が北を背に南を向いて座ること、すなわち王座にあることを言う。
  57. 十個の太陽が同時に現れたという古伝。『淮南子』本経訓には、十日が並び出て作物を焦がし草木を枯らしたので羿(げい)が射落とした、という話がある。ここでは災厄としてではなく、あまねく照らすことの比喩として使われている。
  58. 「悪(いず)くんぞ知らんや」。知らないという断定ではなく、知る資格を問い返す反語。この単位では、三つの異なる問いに対してこの句がそのまま三度返される。
  59. 半身が萎える病。湿った所に寝ると腰を病むという当時の通念による。
  60. 「芻」は草を食う家畜(牛・羊)、「豢」は穀を食う家畜(犬・豚)。あわせて家畜の肉、人の常食を指す。
  61. 「蝍且」はムカデとするのが通行の説(一説に別の虫)。「帶」は細い蛇。ムカデが蛇を食うという当時の見聞による。「鴟」はふくろうの類。
  62. 猿に似た獣の名。「猨,猵狙以為雌」は、猵狙が猿を雌(つがい)とする、と読むのが通行だが、句読を変えて「猨・猵狙、以て雌と為す」と読む説もある。いずれにせよ、人の目には種の合わない組み合わせが並べられている。
  63. ともに古代の美女の名として伝えられる。麗姫は、後に出る長梧子の話にも、別の役割で現れる。
  64. 「神」は超自然の存在ではなく、はかり知れないはたらきを言う語。以下の、雲気に乗り四海の外に遊ぶという描写を比喩と取るかそのまま取るかは、この単位だけからは決められない。
  65. 凍りふさがること。「河」は黄河、「漢」は漢水。
  66. 「夫子」は師の敬称。長梧子が「丘」(孔子の名)と応じているので、ここでの夫子は孔子を指す。この同定はこの単位の中だけで根拠が取れる。
  67. とりとめがなく、粗雑ででたらめなさま。音を借りた語で、字義から解けない。
  68. 時を告げるもの、すなわち鶏。卵を見た段階で鶏鳴を求める、という早計の比喩。
  69. 「鴞」はふくろう(一説に別の鳥)。「彈」ははじき弓の玉。玉を見た段階で焼いた鳥肉を求める、という比喩。
  70. ぴたりと合わさって継ぎ目がないこと。「脗」は「吻」に同じ。直後の「滑涽」は乱れて分かちがたいさまで、ここでは整理せずそのまま置く対象として言われている。
  71. 難句。「隸」は下僕・卑しい者。貴賤の別を立てず、卑しいものもそのまま尊いとする、と取る読みが多い。ほかに、互いに隷属し合うと読む説などもあり、定説がない。
  72. 愚かで鈍く、分別のないさま。直前の「役役」(あくせく働く)と対になる。ここでの愚は貶し言葉ではない。
  73. 「参」を、まじえる・並べ合わせる意に取り、万年の時を一つに合わせて混じりけのない純を成す、と読んだ。「参」を「三」と取る説、「一成純」を「一(ひと)たび純を成す」と読む説などがあり、確定しない。
  74. 幼くして故郷を離れ、そのまま帰る所を知らないこと。「弱」は年少の意。
  75. 四角い寝台、あるいは立派な寝台。「筐」を「匡」(正しい・やすらか)に通じるとする説もある。
  76. きわめて奇怪なこと。「弔」を「至」(きわめて)の意に取る読みによる。語り手が自分の言葉に自分でこの名を付けている点が眼目。
  77. 暗くて見分けのつかないさま。
  78. 校訂上の問題。渡された本文では、「化聲之相待…所以窮年也」の一節が二度現れ、一度目の頭に「何」の字が付いている。通行本(郭象注本の系統)では、この一節は「然若果然也…亦無辯」の後に一度だけ置かれ、「何」は「何謂和之以天倪」(何を天倪によって和すというのか)の頭に付く。したがってここの「何」は下の「謂和之以天倪」から離れた字、一節の重複は転写上の重出と見るのが自然である。訳は本文の姿を残して二度とも訳し、「何」はここでは読まず、下の問いの頭で読んだ。
  79. 「倪」は端・きわ。自然の分かれめ、人為によらない区切り、と解される。「倪」を「睨」(見る)や「圻」(さかい)に通じるとする説もあり、語義は確定しない。訳は音のまま残した。
  80. とめどなく広がり移っていくさま。定まった形を取らない推移を言う。
  81. 「是不是,然不然」の読みは分かれる。(一)是と不是、然と不然を並べた名詞句と取り、両者をひとしなみにする意とする読み。(二)「是を不是とし、然を不然とする」と動詞に取る読み。直後の「是若果是也、則是之異乎不是也亦無辯」が是と不是を対にして扱っているので、訳は(一)に従い、補いを〔 〕で示した。
  82. 「竟」は「境」に同じ。果て・限りの意で、「無竟」は限りのないところ。「寓」はかりに身を寄せること。
  83. 「罔両」は影のまわりにできる薄い影、半影のこと。「景」は「影」の古い字で、ここでは本影にあたる。同じ語を魍魎(山川の精怪)と解する用法も古くからあるが、この段では景と対に置かれているので半影と取った。訳では音読みのまま残し、語義は注に回した。
  84. 「特」は単独であること、「操」はみさお。「操」は節操・操守の語で、本来は人の徳を言うのに使う。動くも止まるも自前では決められない影に、その徳の有無を問うている。訳は「自分だけの操」とした。「主体性」「自律」といった近代語を当てると、原文にない概念が入り込む。
  85. 「待」は依り所とする、寄りかかること。「有待」は『荘子』の術語で、「逍遙遊」篇にも、なお待つ所有る者と、何ものにも待たない在り方との対比が出る。この段の景の答えは四句すべてが「邪(や)」で終わり、断定を一つも含まない。問いとも詠嘆とも取れるが、訳は問いに寄せた。なお郭象はこの問答を注して、依り所をどこまでも遡れば終点は無く、結局は何にも依らずおのずから然る〈獨化〉に行き着くと読んだ。後世の荘子理解に大きく効いた読みだが、〈獨化〉の語も、終点の明示的な否定も、この段の原文には無い。
  86. 「蚹」は蛇の腹の下の鱗。古来二通りに読まれてきた。(一)蛇はその腹鱗によって進み、蟬は翅によって飛ぶ、と取り、動くための当てを挙げたとする読み。(二)「蛇蚹」を蛇の脱け殻、「蜩翼」を蟬の脱け殻と取り、殻が本体に従うように影は形に従う、とする読み。訳は(一)に従った。どちらで読んでも、影が挙げる依り所が自分の身に属さないものである点は変わらない。
  87. ひらひらと生きて動くさま。蝶であるときの形容で、覚めた側の「蘧蘧然」と対になる。訳語を当てず音読みのまま残したのは、この二語の対がこの段の骨格だからである。
  88. 「喻」は「愉」に通じ、たのしむ。「適志」は心のおもむくままであること。文末の「與」は詠嘆。蝶であるあいだの満足を、外から観察して言うのではなく、そのときの内側から言っている。
  89. 注に「形有るの貌」——輪郭のはっきりしたさま——と解するものがあり、別に「はっと驚くさま」と読む説もある。前者なら、覚めた周が確かな形をもってそこに在ること、後者なら覚めぎわの驚きを言う。訳は「栩栩然」と揃えて音読みのまま残した。
  90. 「分」は区別、分際。この一句をどう読むかで段全体の意味が変わる。(一)物の次元では周と胡蝶は確かに別である、と認めたうえで、その別を越えて移ることを「物化」と呼ぶ、と読む。(二)「分」を、周は周として、胡蝶は胡蝶として、それぞれに満ちた在りようと取る読み。いずれにせよ、この句は両者が同一だとは言っていない。どちらが夢か決めない直前の文と、区別を認めるこの文とを、矛盾とせずに読むことが求められる。
  91. 「物の化(か)」とも「物と化(な)る」とも読める。訳語を当てず「物化」のまま残した。この語は篇の最後に一度置かれるだけで、原文はこれを定義しない。したがって語義は、直前の二つの話——影が依り所を遡りきれないこと、周と胡蝶のあいだの移り——から読み取るほかない。

読み終えたあとに

受け継がれた点。まず語が残った。第6段の狙公と猿の話は「朝三暮四」という成語になり、第13段は「胡蝶の夢」として詩の定型の一つになった(李商隠「錦瑟」の「莊生曉夢に蝴蝶に迷ふ」など)。「天籟」も、作為のない自然の音・天成の詩を指す語として詩論に入っている。

読み方の骨組みとしては、魏晋以降の受容が大きい。『老子』『荘子』『周易』を「三玄」として読む学が起こり、西晋の郭象が付けた注は、その後長くこの篇の標準的な読み方になった。とくに第1段の「怒らせるのは誰か」を、吹かせる主宰者を立てずに読む方向——ものはそれぞれ自ら然るのだ——は、郭象の読みが決定づけた。仏教が入ってからは、老荘の語を借りて仏典を読む段階(格義)を経て、禅の語録にも本篇の語や像が繰り返し現れる。

否定・修正された点。時代の近いところから、すでに反論がある。荀子は『解蔽』で「荘子は天に蔽(おお)われて人を知らず」と評した。天のはたらきばかり見て、人の側の作為——礼や制度、世を治める仕事——が視野から落ちる、という批判である。是非の区別を立ててはじめて秩序が立つと考える立場から、この篇は繰り返し危険視された。

もう一つ、古くから突かれてきたのが自己言及である。すべての是非は相対的だ、という主張それ自体が一つの是非ではないのか。ただしこれは外からの発見ではない。第8段が自分から同じことを書き、第12段は「私があなたを夢だと言うのも、また夢だ」と言う。この篇を論駁の効く文章と見るか、論駁の届かない書き方と見るかは、いまも決着していない。

本文そのものにも修正が入っている。今日の『荘子』三十三篇は郭象が定めたかたちで、『漢書』芸文志は「莊子五十二篇」と記す。失われた部分がある。内篇を荘周その人の作とする伝統的な見方も、近現代の文献学では留保付きで扱われる。加えて本篇は字句の異同と難読の多い文章であり、この訳も複数ある読みの一つにすぎない。

原文と訳について/出典

底本。中國哲學書電子化計劃(ctext.org/zhuangzi/adjustment-of-controversies/zh)から本文を機械的に取得し、そのまま採用しました。段落分割は底本に従います。

次に読むなら

  • 『荘子』逍遙遊篇 — 内篇の第一、この篇のすぐ前。大鵬と蜩、無用の大木。大小をくらべる話を先に読んでおくと、第9段の「秋の毫の末より大きいものはなく、泰山は小さい」が急に立ち上がってくる。
  • 『荘子』天下篇 — 巻末に置かれた学術史。惠施の「歴物十事」と辯者たちの命題が並ぶ。本篇が相手にしていた議論の実物がここにある。指と馬、堅と白の出どころも見える。
  • セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』 — 編者の連想として挙げる。動物ごとに住処も味も美も違う——第11段の王倪の問答とほぼ同じ形の議論が、地中海の側にもある。出口は違い、向こうは判断を保留し、こちらは「両行」と言う。