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われらのアメリカ

Nuestra América

初出
「ラ・レビスタ・イルストラーダ・デ・ヌエバ・ヨルク」1891年1月10日。同月30日、メキシコの「エル・パルティード・リベラル」に再掲。
原語
スペイン語
形式
全文対訳(全22段)
底本
Wikisource
予備知識
不要

まず、これは何の話なのか

1891年1月、ニューヨークで書かれ、ニューヨークとメキシコ市の新聞に載った論説である。書いたのはキューバ人のホセ・マルティ。当時のキューバはまだスペインの植民地で、彼は十六歳で政治犯として石切場に送られ、以後の生涯の大半を国外で過ごした亡命者だった。この文章を書いている時点で、彼はキューバ独立戦争の準備を進めている最中である。四年後、彼はその戦争の戦場で死ぬ。

この文章には、名指しされていない相手が二ついる。一つは、スペイン語圏アメリカの有識者層——ヨーロッパで学び、ヨーロッパの書物と制度で自分の国を統治しようとする人々である。もう一つは、北の隣国だ。本篇の直前、1889年10月から1890年4月にかけてワシントンで第一回米州国際会議が開かれ、続いて1891年の初めには米州通貨委員会が開かれていた。合衆国が南北のアメリカを一つの通商圏としてまとめようとするその動きを、マルティはウルグアイの領事として、また新聞の通信員として間近で見ている。文章の後半に「北のアメリカ」「この大陸の金髪の民」が現れるのは、その場所からである。ただし本文は会議の名も年号も出さない。読者がそれを知っている前提で書かれている。

形は新聞論説だが、論証は定義と推論では進まない。像で進む。七里の靴を履いた巨人、眠ったまま世界を呑む彗星、絹の鞘の合わない鉈、ビロードの爪で戻ってくる虎、練り粉に突っ込んだ両手。一つの段落のなかで主語が変わり、比喩に比喩が接がれる。最初に読んで像が結ばないところは、たいてい後でもう一度、別の姿で戻ってくる。虎は中ほどで一度現れ、終わり近くで「内の虎」と「外の虎」になって帰ってくる。主張だけを取り出そうとせず、繰り返される像のほうを追うと読みやすい。

中心にあるのは統治の話である。国は、その国が何でできているかを知った者にしか統治できない——「知ることは解くことである」。ここからマルティは、当時のスペイン語圏で広く通用していた「文明と野蛮」という枠組みを正面から退ける。戦いは文明と野蛮のあいだにあるのではない、偽りの博識と自然とのあいだにあるのだ、と。もう一つ、読む前に断っておきたい。この文章には落ち着きの悪い場所がある。終わり近くで彼は「人種の憎しみなど無い、人種というものが無いからだ」と書くが、同じ文章のなかに「金髪の民」「物言わぬインディオ」「雄々しい民」という語彙が並んでいる。矛盾として切り捨てず、彼が誰に向かって、誰について語っているのかを見分けながら読むと、この文章のいちばん争われてきた場所が見えてくる。

用語と鍵語の読み方

スペイン語の単語がそのまま思想の道具になっている箇所が多く、訳語の選び方で文章の姿が変わる。以下は本文で採った訳語と、その選択で捨てたものの覚え書きである。読みは現代スペイン語のおおよその音を仮名で示した。

原語読み訳と意味
nuestra Américaヌエストラ・アメリカわれらのアメリカ。本文は「北のアメリカ」と区別してこの語を使う。「ラテンアメリカ」と訳すと、北も南も同じ一つのアメリカだという本文の構図が消えるので、字義どおりにした。
hombre naturalオンブレ・ナトゥラル自然の人間。「野生の人間」「土地の人」とも訳せる。本文では「人工的な学者」の対語で、書物によらず土地から出てきた人間を指す。ルソーに同じ語があるが、本文が指すのは理論上の原初状態ではなく、現に統治の場にいる人間である。
letradoレトラード文字の人、学者。植民地以来、法と文書で統治してきた層を指す語。「知識人」と訳すと制度上の位置が落ちるので「学者」とした。本文では「人工的な学者」として現れる。
criolloクリオーリョ新大陸生まれのスペイン系の人。本文では「異国風のクリオーリョ」として、土着のメスティーソに敗れる側に置かれる。「白人」と訳さないのは、ここで問われているのが血統ではなく、異国風か土着かという構えだからである。
mestizoメスティーソ混血の人。本文では人の分類であると同時に、「われらの混血のアメリカ」というように大陸そのものの形容にもなる。人を指す箇所は片仮名、大陸を指す箇所は「混血の」と訳し分けた。
civilización y barbarieシビリサシオン・イ・バルバリエ文明と野蛮。本文が「そのあいだに戦いがあるのではない」と名指しで退ける対句。当時のスペイン語圏で共有されていた枠組みで、サルミエント『ファクンド』(1845)がその代表である。
puebloプエブロ民、国民、民衆。一語で「一国の人民」から「村里」までを覆う。本文では複数形が主権を持つ集団を指すことが多く、文脈に応じて「民」「諸国民」「民衆」と訳し分けた。冒頭の「村」はこれとは別の語(aldea)である。
razaラサ人種、種族。「インディオの種族」では血統によるまとまりを、「人種というものが無い」では生物学的な分類を指す。同じ語の二つの用法が同居しているので、前者を「種族」、後者を「人種」とした。
castaカスタ植民地期に肌の色と出自で人を格づけした身分区分。「階級」でも「人種」でもないので訳語を当てず片仮名にした。本文の「分裂した都市のカスタたち」は、独立後もこの区分が生き残っていることを指している。
decoroデコロ体面、矜持。「品位」「威信」とも訳せるが、他者の目の前で保たれる自尊という含みを残すため「体面」とした。北の隣国に手綱をかけるものとして本文の終盤に置かれる。
gamonalガモナル地方の顔役。土地と人を握って政治を左右する有力者を指すアンデス地方の語。「大地主」と訳したが、経済規模より、土地に根を張った支配のありようを指す言葉である。
virilビリル雄々しい。語根は「男」。「男らしい」と訳すと現代語では嘲りに傾き、「勇敢な」と訳すと語根の男性性が消える。中間をとって「雄々しい」とした。この語彙の含みは、あとで問題になる。
sietemesinoシエテメシーノ七月児。七か月で生まれた子、転じて未熟者、腑抜け。「未熟者」と訳すと、直後に「七月の男」と言い直す本文の運びが消えるので、字義を残した。

対訳本文

Español
現代日本語訳
うぬぼれた村人と、理念の塹壕

Cree el aldeano vanidoso que el mundo entero es su aldea, y con tal que él quede de alcalde, o le mortifique al rival que le quitó la novia, o le crezcan en la alcancía los ahorros, ya da por bueno el orden universal, sin saber de los gigantes que llevan siete leguas en las botas y le pueden poner la bota encima, ni de la pelea de los cometas en el Cielo, que van por el aire dormidos engullendo mundos. Lo que quede de aldea en América ha de despertar. Estos tiempos no son para acostarse con el pañuelo a la cabeza, sino con las armas de almohada, como los varones de Juan de Castellanos: las armas del juicio, que vencen a las otras. Trincheras de ideas valen más que trincheras de piedra.

うぬぼれた村人は、世界のすべてが自分の村だと思い込んでいる。そして、自分が村長の座に居続けさえすれば、あるいは恋人を奪った恋敵を悔しがらせさえすれば、あるいは貯金箱のなかの蓄えが増えさえすれば、それでもう宇宙の秩序をよしとしてしまう——七里の靴を履いた巨人たちがいて、その長靴を自分の上に載せることもできるのを知らず、天における彗星たちの争いも知らずに。彗星は眠ったまま空をゆき、いくつもの世界を呑み込んでゆく。アメリカに村として残っているものは、目を覚まさねばならない。今という時代は、頭に布を巻いて寝る時代ではなく、フアン・デ・カステリャーノスの男たちのように、武器を枕にして寝る時代である——判断力という武器、他のどの武器にも勝つ武器を枕にして。理念の塹壕は、石の塹壕にまさる。

かみくだくと
まず敵の似姿を置き、それから命令に移る、という順で組まれている。村人の無知は三つの私事——村長の地位、恋敵への意趣返し、貯金箱の中身——として数え上げられ、そのどれか一つが満たされれば宇宙の秩序をよしとする、という形で書かれる。視野の狭さが、認識の欠陥としてではなく満足の安さとして描かれているわけである。 知らずにいる対象も二つ並ぶ。七里の靴の巨人は人の姿をした脅威で、しかも「その長靴を自分の上に載せることもできる」と、村人自身に触れるところまで書き込まれる。彗星のほうは眠ったまま世界を呑む天体で、こちらは村人とかかわりなく進む。手の届く危険と、届かない規模の出来事とが、無知の内訳として対にされている。 後半で主語が村人から、アメリカに村として残っているものへ移り、文は命令法に変わる。ここで本文は国名を一つも出さない。名指しをしないまま目を覚ませと言えるのは、前半の戯画が誰にでも当てはまるからで、この汎用性は説得力であると同時に、批判の的が定まらないという弱さでもある、と訳者は見る。 寝方の対比——頭に布を巻いて寝るか、武器を枕に寝るか——は、警戒の姿勢を寝床という日常の場に落として示す型である。そのうえで武器の内実がただちに言い換えられ、判断力こそ他の武器に勝つ武器だとされる。武装を呼びかけながら、最後の一文で塹壕を石から理念に置き換えるので、勇ましい語彙の全体が知的な作業の側へ引き寄せられて終わる。この移し替えが成功しているかどうかは、なぜ理念が石にまさるのかにかかっているが、この単位はそれを言わず、対句の勢いで押し切る。
拳を組み合わせ、密な方陣で歩む

No hay proa que taje una nube de ideas. Una idea enérgica, flameada a tiempo ante el mundo, para, como la bandera mística del juicio final, a un escuadrón de acorazados. Los pueblos que no se conocen han de darse prisa para conocerse, como quienes van a pelear juntos. Los que se enseñan los puños, como hermanos celosos, que quieren los dos la misma tierra, o el de casa chica, que le tiene envidia al de casa mejor, han de encajar, de modo que sean una, las dos manos. Los que, al amparo de una tradición criminal, cercenaron, con el sable tinto en la sangre de sus mismas venas, la tierra del hermano vencido, del hermano castigado más allá de sus culpas, si no quieren que les llame el pueblo ladrones, devuélvanle sus tierras al hermano. Las deudas del honor no las cobra el honrado en dinero, a tanto por la bofetada. Ya no podemos ser el pueblo de hojas, que vive en el aire, con la copa cargada de flor, restallando o zumbando, según la acaricie el capricho de la luz, o la tundan y talen las tempestades: ¡los árboles se han de poner en fila, para que no pase el gigante de las siete leguas! Es la hora del recuento, y de la marcha unida, y hemos de andar en cuadro apretado, como la plata en las raíces de los Andes.

理念の雲を切り裂く舳先はない。力ある一つの理念は、時を得て世界の前に翻されるなら、最後の審判の神秘の旗のように、装甲艦の一艦隊を止める。互いを知らない諸国民は、これから共に戦おうとする者どうしのように、急いで知り合わねばならない。互いに拳を見せ合っている者たち——同じ土地を二人ともほしがる嫉妬深い兄弟のように、あるいは、より立派な家に住む者をねたむ小さな家の住人のように、そうしている者たち——は、二つの手が一つになるように、組み合わさねばならない。犯罪的な伝統に守られて、自分自身の血管の血に染まったサーベルで、打ち負かされた兄弟の、その罪の重さを超えて罰せられた兄弟の土地を切り取った者たちは、民衆から泥棒と呼ばれたくないのなら、その土地を兄弟に返すがよい。名誉の負債を、名誉を知る者は金では取り立てない、平手打ち一発いくらという勘定では。もはやわれわれは葉の民ではありえない——空中に生き、梢を花で満たし、光の気まぐれに撫でられればぱちぱちと鳴りざわめき、嵐に打たれれば薙ぎ倒される、あの葉の民では。木々は列をなして並ばねばならない、七里の巨人を通さぬために! 今は数え上げの時であり、隊伍を組んで進む時である。われわれは、アンデスの根を走る銀のように、密な方陣を組んで歩まねばならない。

かみくだくと
この単位は、理念の力を物量に対して押し出すところから始まる。舳先、装甲艦の艦隊という、当時の海軍力を代表する語に対して、雲と旗という手で掴めないものが置かれ、後者が前者を止めると言われる。ここに論証はない。理念が艦隊を止める根拠として持ち出されるのは最後の審判の旗という終末論の像であり、力の担保は宗教的表象から借りられている。読み手がこの一文を受け入れるとすれば、それは推論を追ったからではなく、像の格が釣り合っているからである。 続く命令は三段に積まれる。知り合え、手を組め、土地を返せ。二番目の比喩は注意して読む価値がある。拳と組んだ手は同じ二本の手であり、和解は新しいものの導入ではなく姿勢の変更として語られる。しかし争いの原因——同じ土地を二人ともほしがること——は取り除かれていない。訳者の見るところ、この比喩は和解を容易に見せすぎる。 三番目でようやく、行為として指定できる要求が出る。切り取った土地を返せ、というのがそれで、この単位で唯一の具体的な政治的要求である。名誉の負債は金では取り立てない、という一文はそれを補強していて、金銭による償いを拒み土地そのものの返還を求めている、と読める。ただし本文は誰が誰に返すのかを言わない。サーベルを染めているのが「自分自身の血管の血」だという句だけが、これが同族間の出来事であることを示す。 締めくくりは植物の比喩で、位置が上から下へ動く。空中に生きる葉、地に列をなす木々、そして根のところの銀。銀は鉱脈であって植物ではないので、比喩はここで生き物から鉱物へ渡り、密度と硬さに行き着く。直前に軍隊の語が置かれているため、団結は最終的に、しなやかさを捨てて固まることとして描かれている。
七月児たち——自国を信じぬ者への弾劾

A los sietemesinos sólo les faltará el valor. Los que no tienen fe en su tierra son hombres de siete meses. Porque les falta el valor a ellos, se lo niegan a los demás. No les alcanza al árbol difícil el brazo canijo, el brazo de uñas pintadas y pulsera, el brazo de Madrid o de París, y dicen que no se puede alcanzar el árbol. Hay que cargar los barcos de esos insectos dañinos, que le roen el hueso a la patria que los nutre. Si son parisienses o madrileños, vayan al Prado, de faroles, o vayan a Tortoni, de sorbetes. ¡Estos hijos de carpintero, que se avergüenzan de que su padre sea carpintero! ¡Estos nacidos en América, que se avergüenzan, porque llevan delantal indio, de la madre que los crió, y reniegan, ¡bribones!, de la madre enferma, y la dejan sola en el lecho de las enfermedades! Pues, ¿quién es el hombre? ¿el que se queda con la madre, a curarle la enfermedad, o el que la pone a trabajar donde no la vean, y vive de su sustento en las tierras podridas, con el gusano de corbata, maldiciendo del seno que lo cargó, paseando el letrero de traidor en la espalda de la casaca de papel? ¡Estos hijos de nuestra América, que ha de salvarse con sus indios, y va de menos a más; estos desertores que piden fusil en los ejércitos de la América del Norte, que ahoga en sangre a sus indios, y va de más a menos! ¡Estos delicados, que son hombres y no quieren hacer el trabajo de hombres!

七月児たちに欠けているのは、勇気だけということになろう。自分の土地に信を持たない者は、七月の男である。彼ら自身に勇気が欠けているから、彼らは他人にも勇気を認めない。難しい木にはひよわな腕は届かない——爪を染め腕輪をはめた腕、マドリードの腕、パリの腕は届かない——、そこで彼らは、あの木には届きようがないのだと言う。あの有害な虫どもは、船に積み込んでしまわねばならない。虫どもは、自分を養ってくれる祖国の骨を齧るのだから。パリ人だ、マドリード人だというのなら、プラードへ行って街灯よろしく立っているがいい、トルトーニへ行って氷菓をなめているがいい。大工の子でありながら、父が大工であることを恥じるこの者たち! アメリカに生まれながら、自分を育てた母がインディオの前掛けをしているというので母を恥じ、——ならず者め——病んだ母を否認し、病の床に母を独り置き去りにするこの者たち! では、男とは誰か。母のもとに留まってその病を癒す者か、それとも、人目につかぬところへ母を出して働かせ、その稼ぎで腐った土地に暮らし、蛆虫をネクタイにして、自分を宿した胎を呪い、紙の上着の背に裏切り者の札を負って歩きまわる者か。われらのアメリカ——そのインディオたちとともにこそ救われるはずの、少から多へと向かうアメリカ——の子でありながら、自らのインディオを血に溺れさせ、多から少へと向かう北のアメリカの軍隊で銃を求めるこの脱走兵たち! 男でありながら男の仕事をしようとしない、このやわな者たち!

かみくだくと
攻撃の対象は、自分の土地に信を持たない者である。論法は一貫している。彼らの言い分——あの木には届かない——を検討せず、それを言う者の腕の細さに帰す。爪を染めた腕、腕輪をした腕、マドリードやパリの腕という並列は、判断の内容ではなく判断者の身なりを問題にしている。人身攻撃の構造であり、訳者の見るところ、ここが本論のもっとも脆い箇所である。相手が実際に間違っているかどうかは、この単位では一度も検証されない。ただし、罵倒であることを本文は隠してもいない。虫、ならず者、脱走兵と、語彙は最初から論争ではなく排斥のためのものである。 恥の語彙が三つの領域から集められている点は見ておいてよい。身体(早産児、ひよわな腕)、家族(大工の父、病んだ母)、軍(脱走兵、銃を求める)。中心にあるのは母の像で、恥じられる印はインディオの前掛けである。したがってこの単位において、インディオは恥じられる標識として、また救いの条件として現れるが、語る側には一度も立たない。北のアメリカとの対比もこの母の像の延長にある。少から多へ向かうアメリカと、自らのインディオを血に溺れさせて多から少へ向かうアメリカ——道徳的な優劣が、そのまま行き先の向きとして語られる。ここでも数字や事例は示されず、方向づけだけが示される。 固有名が出るのはヨーロッパ側だけで、遊歩道プラードとカフェのトルトーニが挙がる。恥ずべき側には具体的な地名があり、擁護される側には母と木という比喩しかない、という非対称がこの単位にはある。そして最後の一文は、価値の尺度を男の仕事に置く。この男性性の語法が段落全体の勢いを支えているのは確かだが、それは母を看護される対象としてのみ描く比喩と組になっている。後の読者が引っかかるのはたいていこの組み合わせのところだ、と訳者は見ている。
ワシントンは英国人と暮らしに行ったか

Pues el Washington que les hizo esta tierra ¿se fue a vivir con los ingleses, a vivir con los ingleses en los años en que los veía venir contra su tierra propia? ¡Estos "increíbles" del honor, que lo arrastran por el suelo extranjero, como los increíbles de la Revolución francesa, danzando y relamiéndose, arrastraban las erres!

では、彼らのためにこの土地を作ってやったワシントンは、イギリス人たちと暮らしに行っただろうか。自分自身の土地に向かって彼らが攻めのぼって来るのを目にしていた年月に、イギリス人たちと暮らしに行っただろうか。名誉の「信じがたい者たち」、名誉を異国の地面に引きずり回すこの連中! ちょうどフランス革命のあの信じがたい者たちが、踊りながら、舌なめずりをしながら、rの音を引きずっていたのと同じに!

かみくだくと
論敵の理想像を、論敵に向けて返す一手である。ワシントンは彼らのためにこの土地を作った——その当のワシントンが、イギリス人が自分の土地に攻めのぼって来るのを見ていたその年月に、イギリス人と暮らしに出かけただろうか。問いはこの一点だけを衝く。建国者の徳を、思想でも制度でもなく、居場所で測っている。土地が攻められているときにどこにいたか、それだけが問われる。 同じ句が二度繰り返されている(a vivir con los ingleses, a vivir con los ingleses)。二度目には「自分自身の土地に向かって彼らが来るのを見ていた年月に」という時の規定が付く。繰り返しは冗語ではなく、一度目の抽象的な問いを、二度目に特定の時間のなかへ置き直す働きをしている。 後半は動詞ひとつの上に成り立っている。arrastrar——名誉を異国の地面に引きずる者たちと、rの音を引きずった伊達者たち。名誉と発音とが同じ動詞で結ばれることで、告発は裏切りの重さではなく、身のこなしの軽さの側に落とされる。踊りながら、舌なめずりをしながら(danzando y relamiéndose)。この二つの分詞は、名誉を捨てた者の描写としては奇妙に軽い。だがそれこそが狙いだろうと訳者は読む。名誉を流儀の問題にしてしまった者には、流儀の言葉で応じる、ということである。 議論としては弱い。建国者の伝記から、異国に住むことは不名誉だという規範は出てこない。しかもこの文章自体、マルティが長く暮らしたニューヨークで書かれ、1891年1月にニューヨークの『ラ・レビスタ・イルストラーダ』に発表されている。この単位が咎めているのは異国にいることそのものではなく、異国の土の上で自分の名誉を引きずることだ、と読むほかない。だがその区別は、この単位のうちには書かれていない。
痛ましき共和国の誇りと、高慢な者の弾劾

Ni ¿en qué patria puede tener un hombre más orgullo que en nuestras repúblicas dolorosas de América, levantadas entre las masas mudas de indios, al ruido de pelea del libro con el cirial, sobre los brazos sangrientos de un centenar de apóstoles? De factores tan descompuestos, jamás, en menos tiempo histórico, se han creado naciones tan adelantadas y compactas. Cree el soberbio que la tierra fue hecha para servirle de pedestal, porque tiene la pluma fácil o la palabra de colores, y acusa de incapaz e irremediable a su república nativa, porque no le dan sus selvas nuevas modo continuo de ir por el mundo de gamonal famoso, guiando jacas de Persia y derramando champaña. La incapacidad no está en el país naciente, que pide formas que se le acomoden y grandeza útil, sino en los que quieren regir pueblos originales, de composición singular y violenta, con leyes heredadas de cuatro siglos de práctica libre en los Estados Unidos, de diecinueve siglos de monarquía en Francia.

それに、人がわれらのアメリカの痛ましき諸共和国におけるより大きな誇りを持ちうる祖国が、いったいどこにあるだろうか。インディオたちの物言わぬ群れのただなかに打ち立てられ、書物と燭台との争う物音のなかに、百人ばかりの使徒たちの血まみれの腕の上に築かれた、この諸共和国にまさる祖国が。これほど分解しきった要素から、これほど進んだ、これほど緊密な国民が創られたことは、これより短い歴史的時間のうちには、かつて一度もない。高慢な者は、筆が達者だとか言葉に彩りがあるとかいうだけで、大地は自分の台座となるために作られたのだと思い込む。そして生まれ故郷の共和国を、無能で救いがたいと弾劾する——その新しい密林が、名うての大地主として世界を渡り歩き、ペルシアの小馬を御し、シャンパンを注ぎこぼす暮らしの手立てを、たえまなく与えてくれるわけではないからである。無能は、生まれつつある国の側にあるのではない。その国は、自分に見合った形式と、役に立つ偉大さとを求めているのだ。無能は、独特で激烈な組成をもつ独自の諸民族を、合衆国における四世紀の自由な実践から、フランスにおける十九世紀の君主制から受け継いだ法によって統べようとする者たちの側にある。

かみくだくと
否定の問いの形で、誇りを立て直す。共和国が置かれる場所は、三つの前置詞で示される。entre(〜のただなかに)——インディオたちの物言わぬ群れの中に。al ruido de(〜の物音のなかに)——書物と燭台の争う音の中に。sobre(〜の上に)——百人ばかりの使徒たちの血まみれの腕の上に。中に、音の中に、上に。共和国は虚空から立ったのではなく三重の物質の上に立った、という配置である。 注意しておきたいのは、インディオが mudas(物言わぬ)と形容されていることである。共和国はインディオたちのただなかに建てられるが、インディオが建てるのではない。この単位の文法では、彼らは場所であって主語ではない。apóstoles(使徒)という語も見ておきたい。書物が燭台と争っている、まさにその同じ文のなかで、独立の指導者たちが使徒と呼ばれる。教権と争いながら、争う相手の語彙でその味方を数えている。しかも百人ばかり(un centenar)と数がついている。神話ではなく人数である。 中心にあるのは descompuestos → compactas という語の反転だ。descomponer は分解する、compacto は緊密に固まっている。ばらばらに分解した要素から、これほど固くまとまった国民が、これほど短い歴史的時間で作られたことはかつてない。しかしこれは経験的な最上級の主張であって、この単位のうちに論証はない。断言として置かれている。 高慢な者(el soberbio)の肖像は、二つの資格と一つの不満でできている。資格は筆が達者であること、言葉に彩りがあること。文筆の才だけを根拠に、大地は自分の台座だと考える。不満は、故郷の密林が、大地主として世界を渡り歩き、ペルシアの小馬を御し、シャンパンを注ぐ暮らしを絶えず供給してくれないこと。政治的な判断を、それを口にする人間の食欲によって説明してしまう手つきである。これは論点そのものには触れない攻撃だと訳者は考える。 だが最後の一文で、この単位は本来の主張を出す。無能があるのは生まれつつある国の側ではなく、独自で激烈な組成の民を、他所の歴史から受け継いだ法で統べようとする者の側だ、という命題である。ここには理由がある——法と組成の不適合。前の肖像画がなくても成り立つ主張であり、この論文の核はこちらにある。
統治とは国の自然な諸要素の均衡である

Con un decreto de Hamilton no se le para la pechada al potro del llanero. Con una frase de Sieyés no se desestanca la sangre cuajada de la raza india. A lo que es, allí donde se gobierna, hay que atender para gobernar bien; y el buen gobernante en América no es el que sabe cómo se gobierna el alemán o el francés, sino el que sabe con que elementos está hecho su país, y cómo puede ir guiándolos en junto, para llegar, por métodos e instituciones nacidas del país mismo, a aquel estado apetecible donde cada hombre se conoce y ejerce, y disfrutan todos de la abundancia que la naturaleza puso para todos en el pueblo que fecundan con su trabajo y defienden con sus vidas. El gobierno ha de nacer del país. El espíritu del gobierno ha de ser el del país. La forma del gobierno ha de avenirse a la constitución propia del país. El gobierno no es más que el equilibrio de los elementos naturales del país.

ハミルトンの布告一枚では、リャネロの仔馬の体当たりは止められない。シエイエスの一句では、インディオの種族の凝り固まった血は流れを取り戻さない。よく統治するためには、統治のおこなわれるその場所で、現にあるものに心を向けなければならない。そしてアメリカにおける良き統治者とは、ドイツ人やフランス人がどう統治されるかを知っている者ではなく、自分の国がどんな要素でできているかを知り、それらをひとまとめにどう導いてゆけるかを知っている者である。国そのものから生まれた方法と制度によって、あの望ましい状態に到達するために——各人がおのれを知り、おのれを行使し、そして万人が、自然が万人のために置いた豊かさを享受する状態に。その豊かさは、人々が自らの労働によって稔らせ、自らの命によって守る、その郷土のうちに置かれている。統治は国から生まれなければならない。統治の精神は国の精神でなければならない。統治の形式は、国そのものの体質に適合しなければならない。統治とは、国の自然な諸要素の均衡にほかならない。

かみくだくと
二つの固有名と二つの身体が対にされる。ハミルトンの布告と、リャネロの仔馬の体当たり。シエイエスの一句と、インディオの種族の凝り固まった血。輸入されるものは両方とも言葉である(decreto, frase)。それが当たる相手は両方とも身体である(pechada, sangre)。紙は肉を止められない、という一つの図が二度描かれている。 そこから統治の準則が出る。現にあるもの(a lo que es)に心を向けよ。しかも allí donde se gobierna(統治のおこなわれるその場所で)という限定が付く。統治の知は場所に縛られる知だ、という主張である。だから良き統治者の定義は、まず否定で与えられる——ドイツ人やフランス人がどう統治されるかを知っていることではない。次に肯定で——自分の国がどんな要素でできているかを知り、それらを en junto(ひとまとめに)導くこと。要素を一つずつ扱うのではなくまとめて、という点は落とせない。 目的として置かれる状態も見ておきたい。各人がおのれを知り、おのれを行使する(se conoce y ejerce、どちらも再帰形)。そして万人が豊かさを享受する。ただしその豊かさは、自然が万人のために置いたものでありながら、人々が労働で稔らせ命で守る、その郷土のうちに置かれている。享受の資格は、そこにいることではなく、稔らせることと守ることに結ばれている。 最後の四文は短い断言の畳みかけである。生まれ、精神、形式、そして定義。起源から本質へ、本質から形へ、形から一行の定義へと降りてゆく。統治とは国の自然な諸要素の均衡にほかならない。 この定義は強いが、同時に弱い。均衡は記述的な基準である。現にある要素から統治せよとは言えるが、現にある要素のどれかは均衡させるのではなく壊すべきだ、とは言えない。ところがこの同じ単位が、インディオの種族の凝り固まった血を、流れを取り戻させるべきものとして挙げている。凝った血もまた現にある要素であり、しかも均衡の対象ではなく解消の対象として書かれている。natural(自然な)という形容詞が、どの要素を数えどの要素を数えないかを黙って決めている——ここは訳者の読みだが、この語がこの単位でいちばん重い仕事をしている。
文明と野蛮ではなく、偽の博識と自然の争い

Por eso el libro importado ha sido vencido en América por el hombre natural. Los hombres naturales han vencido a los letrados artificiales. El mestizo autóctono ha vencido al criollo exótico. No hay batalla entre la civilización y la barbarie, sino entre la falsa erudición y la naturaleza. El hombre natural es bueno, y acata y premia la inteligencia superior, mientras esta no se vale de su sumisión para dañarle, o le ofende prescindiendo de él, que es cosa que no perdona el hombre natural, dispuesto a recobrar por la fuerza el respeto de quien le hiere la susceptibilidad o le perjudica el interés. Por esta conformidad con los elementos naturales desdeñados han subido los tiranos de América al poder: y han caído, en cuanto les hicieron traición. Las repúblicas han purgado en las tiranías su incapacidad para conocer los elementos verdaderos del país, derivar de ellos la forma de gobierno y gobernar con ellos. Gobernante, en un pueblo nuevo, quiere decir creador.

だからこそ、輸入された書物はアメリカにおいて自然の人間に打ち負かされてきた。自然の人間たちは、人工的な学者たちを打ち負かした。土着のメスティーソは、異国風のクリオーリョを打ち負かした。文明と野蛮のあいだに戦いがあるのではない。あるのは偽りの博識と自然とのあいだの戦いである。自然の人間は善良であり、より高い知性に従い、これに報いる——ただしその知性が、彼の従順につけこんで彼を害することがなく、また彼を抜きにして事を運ぶことで彼を侮辱することがない、そのかぎりにおいてである。この侮辱こそ自然の人間の赦さぬものであって、彼は、自分の感じやすさを傷つける者、自分の利害を損なう者から、力ずくで敬意を取り返そうと身構えている。蔑ろにされてきた自然の諸要素へのこの適合によってこそ、アメリカの暴君たちは権力へ登った。そして、その〔諸要素への〕裏切りをおこなうやいなや、落ちた。諸共和国は、国の真の諸要素を知り、そこから統治の形式を導き出し、その諸要素とともに統治する、その能力の欠如を、暴政において償ってきた。新しい民において統治者とは、創造者を意味する。

かみくだくと
三つの文が同じ形で畳みかけられる。輸入された書物/自然の人間、人工的な学者たち/自然の人間たち、異国風のクリオーリョ/土着のメスティーソ。三度とも述語は同じ動詞(vencer、打ち負かす)であり、勝つのはつねに後者である。そのうえで対立軸そのものが引き直される——争っているのは文明と野蛮ではなく、偽りの博識と自然だ、と。この置き換えがこの単位の要である。前の対句では一方が進歩の側に立つが、後の対句では両方が知にかかわり、一方が偽であるにすぎない。負けたのは知そのものではなく、出所の合わない知だ、という形に問題が組み替えられている。 続く一文は無条件の礼賛ではない。自然の人間は善良だとしながら、彼はより高い知性に「従い」、これに「報いる」とされる。反知性の主張ではなく、知性が二つの条件を破らないかぎり、という条件文である。破り方は二つ挙がっている。従順につけこんで害すること、そして彼を抜きにして事を運ぶこと。文の重心は二つめにあり、赦さないと言われているのはこちらである。無視は加害より軽い、とは書かれていない。 暴君についての数行は、この論の弱いところが露出する箇所でもある。暴君が権力へ登った理由として挙げられるのは、蔑ろにされた自然の諸要素への適合——直前の単位が良き統治の条件として挙げたのと同じものである。マルティは、彼らが落ちたのはその諸要素を裏切ったからだ、と続けて区別をつけるが、この区別は事後の記述であって、統治が始まる時点で良き統治者と暴君とを見分ける基準にはなっていない。国の諸要素に適合せよという原則だけでは、暴君の成功もまた説明できてしまう。単位はこの困難を認めたうえで、解かずに通過している。 締めの一行は定義文の形をとる。新しい民においては、統治とは既存の形式を運用することではなく、形式そのものを作ることだ、と読める。前の単位で統治は国の自然な諸要素の均衡だと言われていたが、その均衡は既製品としてはどこにも存在しない、というのがこの一行の含みだろう。
統治の術を教える大学がアメリカにない

En pueblos compuestos de elementos cultos e incultos, los incultos gobernarán, por su hábito de agredir y resolver las dudas con su mano, allí donde los cultos no aprendan el arte del gobierno. La masa inculta es perezosa, y tímida en las cosas de la inteligencia, y quiere que la gobiernen bien; pero si el gobierno le lastima, se lo sacude y gobierna ella. ¿Cómo han de salir de las universidades los gobernantes, si no hay universidad en América donde se enseñe lo rudimentario del arte del gobierno, que es el análisis de los elementos peculiares de los pueblos de América? A adivinar salen los jóvenes al mundo, con antiparras yanquis o francesas, y aspiran a dirigir un pueblo que no conocen. En la carrera de la política habría de negarse la entrada a los que desconocen los rudimentos de la política. El premio de los certámenes no ha de ser para la mejor oda, sino para el mejor estudio de los factores del país en que se vive. En el periódico, en la cátedra, en la academia, debe llevarse adelante el estudio de los factores reales del país. Conocerlos basta, sin vendas ni ambages; porque el que pone de lado, por voluntad u olvido, una parte de la verdad, cae a la larga por la verdad que le faltó, que crece en la negligencia, y derriba lo que se levanta sin ella.

教養ある要素と教養なき要素とからなる民においては、教養なき者たちが統治するだろう——攻撃し、疑わしいことは自分の手で片づける、その習慣によって——教養ある者たちが統治の術を学ばないところでは。教養なき大衆は怠惰であり、知性にかかわる事柄には臆病であり、よく統治されることを望む。しかし統治が自分を痛めつけるなら、それを振り落として、自分で統治する。統治者が大学から出てくるなどということが、どうしてありえようか。アメリカには、統治の術の初歩を教える大学がどこにもないというのに。その初歩とは、アメリカ諸国民に固有の諸要素の分析にほかならない。若者たちは当て推量をしに世へ出てゆく、ヤンキーの、あるいはフランスの眼鏡をかけて。そして、自分の知らない民を導こうと志す。政治という道においては、政治の初歩を知らぬ者には入り口を拒むべきであろう。懸賞の賞は、最良の頌歌にではなく、自分が現に生きている国の諸因子についての最良の研究に与えられねばならない。新聞で、講壇で、学士院で、国の現実の諸因子の研究が推し進められねばならない。それらを知ること、それで足りる。目隠しもせず、遠回しにも言わずに。というのも、意図してであれ忘却によってであれ、真実の一部を脇へ押しやる者は、長い目で見れば、自分に欠けていたその真実によって倒れるからだ。その真実は、なおざりにされるなかで育ち、それを欠いたまま建てられるものを打ち倒す。

かみくだくと
論の場所が統治論から教育論へ移る。冒頭の主張は予測の形をとる。教養なき者が統治するだろう、と。理由として挙げられるのは権利ではなく習慣である——攻撃し、疑わしいことを自分の手で片づける習慣。しかも条件が付いている。教養ある者が統治の術を学ばないところでは、である。責めは前者にではなく後者に置かれている。 大衆についての描写は手厳しい。怠惰であり、知性の事柄には臆病だ、と書かれる。前の単位で善良だと言われた自然の人間と同じ対象を指しているはずだが、評価語は逆を向いている。この単位はそれを矛盾として処理しない。よく統治されることを望むが、痛めつけられれば統治を振り落として自分で統治する——この一文が両者をつないでいる。受動的だが無力ではない、という一点においてである。 大学への問いは修辞疑問の形をとりながら、その場で統治の術の定義を与えてしまう。アメリカ諸国民に固有の諸要素の分析、それが初歩だという。前の単位以来くり返されてきた要素という語が、ここで具体的な学科の名になる。そこから制度上の要求が三つ出てくる。政治の道に初歩を知らぬ者を入れないこと、懸賞の賞を頌歌から国の諸因子の研究へ移すこと、新聞と講壇と学士院でその研究を進めること。抽象的な批判ではなく、入口の資格と審査基準と紙面・講義の配分という、運用可能な水準の提案である。 最後の一文がこの単位の力学を担っている。脇へ押しやられた真実は消えるのではなく、なおざりにされるなかで「育ち」、それを欠いたまま建てられたものを打ち倒す。無視された要素は放置しても中立にはならない、という前提がここに置かれている。u07で暴君の登場を説明していたのは、まさにこの前提の一例である。逆に言えば、この前提が偽であれば——忘れられた要素がただ痩せ細るだけであれば——マルティの議論は緊急性を失う。単位はその前提を主張しており、論証はしていない。
知ることは解くこと、幹はわれらの共和国

Resolver el problema después de conocer sus elementos, es más fácil que resolver el problema sin conocerlos. Viene el hombre natural, indignado y fuerte, y derriba la justicia acumulada de los libros, porque no se la administra en acuerdo con las necesidades patentes del país. Conocer es resolver. Conocer el país, y gobernarlo conforme al conocimiento, es el único modo de librarlo de tiranías. La universidad europea ha de ceder a la universidad americana. La historia de América, de los incas a acá, ha de enseñarse al dedillo, aunque no se enseñe la de los arcontes de Grecia. Nuestra Grecia es preferible a la Grecia que no es nuestra. Nos es más necesaria. Los políticos nacionales han de reemplazar a los políticos exóticos. Injértese en nuestras repúblicas el mundo; pero el tronco ha de ser el de nuestras repúblicas. Y calle el pedante vencido; que no hay patria en que pueda tener el hombre más orgullo que en nuestras dolorosas repúblicas americanas.

問題の諸要素を知ったうえでその問題を解くほうが、それらを知らずに解くよりもやさしい。自然の人間がやって来る、憤り、力を帯びて。そして書物から積み上げられた正義を打ち倒す。その正義が、国の目に見えた必要に沿って施されていないからである。知ることは解くことである。国を知ること、そしてその知にしたがって国を統治すること、それが国を暴政から解き放つ唯一の道である。ヨーロッパの大学は、アメリカの大学に席を譲らねばならない。アメリカの歴史は、インカからこのかたを、隅から隅まで教えられねばならない——たとえギリシアのアルコンたちの歴史が教えられないとしても。われらのギリシアは、われらのものでないギリシアに優る。われらにとって、そのほうがより必要なのだ。国民の政治家が、異国風の政治家に取って代わらねばならない。われらの共和国に世界を接ぎ木せよ。だが幹は、われらの共和国の幹でなければならない。そして、敗れた衒学者は黙るがよい。人がこれ以上の誇りを持ちうる祖国は、われらの痛みに満ちたアメリカの諸共和国をおいてほかにないのだから。

かみくだくと
結論部で、歩幅が急に大きくなる。第一文は穏当な比較である——諸要素を知って解くほうが、知らずに解くよりやさしい。ところが数行あとで、知ることは解くことである、と等式になる。より易しいという比較級が、同一性の断言に変わっている。この飛躍は単位のなかで論証されていない。マルティの文体はこうして格言を作るが、格言になった時点で、主張は反証しにくいものになる。読者はここで一度立ち止まってよい。知が統治の必要条件だという主張と、知が十分条件だという主張とは別のものであり、この単位は前者を述べて後者を響かせている。 その等式のあいだに挟まれた一文が、経験的な裏づけの役を負っている。自然の人間がやって来て、書物から積み上げられた正義を打ち倒す。理由は、その正義が誤っているからではなく、国の目に見えた必要に沿って施されていないからだ、とされる。内容の当否ではなく施行の適合が問われている点は、前の単位からの一貫である。倒れるのは悪法ではなく、場所を持たない正義である。 教育の項目は、時間の配分をめぐる選択として書かれている。インカからこのかたのアメリカ史を隅から隅まで、ギリシアのアルコンたちを教えないとしても、と。優劣の根拠は次の一文で必要性に置き換えられる——われらにとってより必要なのだ。ここでギリシアという語をアメリカに向けて使っている点は見落とせない。古典が無価値だとは言っておらず、その位置を占めるものがこちらにもある、と言っている。捨てられているのは古典ではなく、古典を借り物のまま置く配置のほうである。 接ぎ木の比喩が、この論が閉鎖ではないことの保証になっている。世界を入れよ、ただし台木はこちらだ、と。何を拒むかではなく、どちらが根を張る側かを決める命令である。閉じの一行では、u07から続いていた打ち負かすの連鎖が戻ってくる——敗れた衒学者は黙るがよい。命令法で終わっており、これは論証の結語というより宣告である。最後の語が「痛みに満ちた」であることは、誇りの根拠が繁栄でも勝利でもない、という含みだろう。
聖母の旗の下、名を伏せた身体たちの独立

Con los pies en el rosario, la cabeza blanca y el cuerpo pinto de indio y criollo, vinimos, denodados, al mundo de las naciones. Con el estandarte de la Virgen salimos a la conquista de la libertad. Un cura, unos cuantos tenientes y una mujer alzan en México la república, en hombros de los indios. Un canónigo español, a la sombra de su capa, instruye en la libertad francesa a unos cuantos bachilleres magníficos, que ponen de jefe de Centro América contra España al general de España. Con los hábitos monárquicos, y el Sol por pecho, se echaron a levantar pueblos los venezolanos por el Norte y los argentinos por el Sur. Cuando los dos héroes chocaron, y el continente iba a temblar, uno, que no fue el menos grande, volvió riendas.

足は数珠にとられ、頭は白く、体はインディオとクリオーリョのまだら——そのなりで、われらは臆することなく、諸国民の世界へやって来た。聖母の旗印を掲げて、われらは自由を征服しに出た。一人の司祭、幾人かの中尉、そして一人の女が、メキシコで共和国を、インディオたちの肩の上に立ち上げる。一人のスペイン人参事会員が、自分の外套の陰で、幾人かのみごとな学士たちにフランス流の自由を教え込む。その学士たちは、スペインに抗する中央アメリカの首領に、スペインの将軍を据える。王制の衣をまとい、胸には太陽を掲げて、ベネズエラ人は北から、アルゼンチン人は南から、民を立ち上がらせにかかった。二人の英雄が衝突し、大陸が震えようとしたとき、一方が——それは小さいほうの英雄ではなかったが——手綱を返した

かみくだくと
この段落には固有名詞が一つも出てこない。動く者はすべて、職名か衣装で呼ばれる——司祭、中尉、女、参事会員、学士たち、スペインの将軍、ベネズエラ人、アルゼンチン人、二人の英雄。前の単位まで概念を並べてきた文章が、ここで急に身体と着物の記述に変わる。 並べられているのは、ほとんどが反対物どうしの組み合わせである。自由を征服しに出るのに掲げるのが聖母の旗であること。フランス流の自由を教える教師がスペイン人の参事会員で、しかも自分の外套の陰でそれをすること。スペインに抗する中央アメリカの首領がスペインの将軍であること。共和国を立ち上げる者たちが王制の衣を身につけていること。独立は、それが打ち倒そうとしたものの道具立てを借りて、その内側から出てきた——この段落が言っているのはそれである。 語順にも注意がいる。メキシコで共和国を「立ち上げる」の主語は司祭と中尉と女であって、インディオたちではない。インディオたちはその肩である。担ぐが、担ぐ者としては動詞の主語にならない。マルティはここでその配置を書きつけるだけで、批評を加えていない。 訳者の見立てを言うと、名を伏せる手つきはよく効いているが、代償もある。メキシコの蜂起とリオ・デ・ラ・プラタの遠征とでは、社会の構成も、担い手が求めたものも同じではない。それが一つの生き物の比喩に均される。冒頭の「われら」がどこまでを含む一人称なのか——とりわけ肩になった者たちを含むのか——は、この身体の比喩によって、問われずに済んでしまっている。
輸入された形式と土地の現実との、擦り合わせの疲れ

Y como el heroísmo en la paz es más escaso, porque es menos glorioso, que el de la guerra; como al hombre le es más fácil morir con honra que pensar con orden; como gobernar con los sentimientos exaltados y unánimes es más hacedero que dirigir, después de la pelea, los pensamientos diversos, arrogantes, exóticos o ambiciosos; como los poderes arrollados en la arremetida épica zapaban, con la cautela felina de la especie y el peso de lo real, el edificio que había izado, en las comarcas burdas y singulares de nuestra América mestiza, en los pueblos de pierna desnuda y casaca de París, la bandera de los pueblos nutridos de savia gobernante en la práctica continua de la razón y de la libertad; como la constitución jerárquica de las colonias resistía la organización democrática de la República, o las capitales de corbatín dejaban en el zaguán al campo de bota de potro, o los redentores bibliógenos no entendieron que la revolución que triunfó con el alma de la tierra, desatada a la voz del salvador, con el alma de la tierra había de gobernar, y no contra ella ni sin ella, entró a padecer América, y padece, de la fatiga de acomodación entre los elementos discordantes y hostiles que heredó de un colonizador despótico y avieso, y las ideas y formas importadas que han venido retardando, por su falta de realidad local, el gobierno lógico.

そして、平和における英雄的行為は戦争のそれより乏しい——栄光が少ないからである——のだから。人にとっては、名誉をもって死ぬほうが、秩序立てて考えるよりもたやすいのだから。高ぶって一つになった感情で統治するほうが、戦いのあとに、多様で、傲慢で、異国風で、あるいは野心的な思想を舵取りするよりも、なしやすいのだから。叙事詩さながらの突撃に押し倒された〔旧い〕もろもろの権力が、その種にそなわった猫のような用心深さと、現実というものの重みとをもって、あの建物を掘り崩していたのだから——その建物とは、われらの混血のアメリカの、粗野で特異な地方に、素足にパリ仕立ての上着という民のただなかに、理性と自由の絶え間ない実践のなかで統治の樹液に養われた民の旗を、掲げてしまった建物である。植民地の階層的な構成が、共和国の民主的な組織に抵抗したのだから。あるいは、襟当て(コルバティン)の首都が、仔馬革の長靴の田舎を玄関の間に待たせたままにしたのだから。あるいは、書物から生まれた救済者たちが、土地の魂とともに勝利した革命は——救い手の声に解き放たれたその革命は——土地の魂とともに統治すべきであって、それに逆らってでもなく、それを欠いてでもない、ということを理解しなかったのだから。——アメリカは苦しみはじめ、いまも苦しんでいる。専制的でねじけた植民者から受け継いだ、不調和で敵対的な諸要素と、輸入された観念や形式とのあいだの、擦り合わせの疲れに。その輸入された観念と形式は、土地の現実を欠いているために、理にかなった統治を遅らせてきたのである。

かみくだくと
原文はここまで全体が一文である。「〜だから(como)」で始まる従属節が六つ積み上がり、そのあとでようやく主動詞「アメリカは苦しみはじめた」が来る。読み手は原因の山を越えないと結論にたどり着けない。構文そのものが、独立後の統治が越えねばならなかったものの数を体で示している。訳では句点で切ったが、切れ目の位置は原文にはない。 積み上げられた六つを並べ直すと——(一)平和の英雄的行為は栄光が少ないぶん稀である。(二)名誉をもって死ぬほうが、秩序立てて考えるよりたやすい。(三)高揚して一致した感情で統治するほうが、戦後の多様で傲慢で異国風で野心的な思想を舵取りするよりたやすい。(四)突撃に押し倒された旧い権力が、猫のような用心深さと現実の重みとで、建てられた建物を下から掘り崩していた。(五)植民地の階層的な構成が共和国の民主的な組織に抵抗し、首都は田舎を玄関先に待たせた。(六)書物から生まれた救済者たちが、土地の魂とともに勝った革命は土地の魂とともに統治せねばならないことを理解しなかった。 四番目の建物の比喩がこの段落の要である。建物が掲げた旗は、理性と自由の絶え間ない実践のなかで統治の樹液に養われた民の旗だという。つまりマルティは、その旗を偽物だとは言っていない。旗そのものではなく、それを養った実践がここにはなかったことを言っている。批判の的は理性でも自由でもなく、養分の履歴を欠いたまま持ち込まれた形式である。最後に付される理由も「土地の現実を欠いているために」であって、内容が誤っているからではない。 診断の語が「疲れ(fatiga)」であることも見ておきたい。裏切りでも敗北でもなく、二つのものを噛み合わせようとして起きる消耗だとされる。噛み合わされる二つは、専制的な植民者から受け継いだ不調和な要素と、輸入された観念・形式である。 読みの決まらない箇所が一つある。「その種にそなわった猫のような用心深さ」の「種(la especie)」が何を指すか、原文は決めていない。押し倒された権力たちの類とも、人間という種一般とも取れる。訳では前者寄りにした。 弱点も言っておく。この段落で最も重い仕事をしている「土地の魂」は、ここでは一度も定義されない。何がそれで、誰がそれを代弁できるのかという問いを、この文は立てない。長大な構文の勢いが、その空白を埋めてしまっている。これは訳者の判断だが、後段で処方が示されるかどうかにかかわらず、この単位の内部では論証が修辞に負けている。
独立の問題は形式の変更ではなく精神の変更だった

El continente descoyuntado durante tres siglos por un mando que negaba el derecho del hombre al ejercicio de su razón, entró, desatendiendo o desoyendo a los ignorantes que lo habían ayudado a redimirse, en un gobierno que tenía por base la razón; la razón de todos en las cosas de todos, y no la razón universitaria de unos sobre la razón campestre de otros. El problema de la independencia no era el cambio de formas, sino el cambio de espíritu.

三世紀のあいだ、人が自らの理性を行使する権利を否定する支配によって関節をはずされてきた大陸は、自らを贖うのを助けてくれた無学な者たちを顧みず、あるいはその声に耳を貸さぬまま、理性を土台とする統治のなかへ入っていった。すなわち、万人のことがらにおける万人の理性であって、一部の者の大学の理性が他の者の野の理性の上に立つ、そういう理性ではない。独立の問題は、形式の変更ではなく、精神の変更だったのである。

かみくだくと
前の長大な一文のあとに、短い二文が置かれる。落差そのものが結論の合図になっている。 第一文の骨は皮肉である。三世紀のあいだ否定されてきたのは「人が自らの理性を行使する権利」だった。その大陸が入っていった先は「理性を土台とする統治」である。ところが、その入り方が「顧みず、あるいは耳を貸さぬまま」だった。理性の権利を回復するはずの統治が、その回復を助けた者たちの理性を数に入れなかった。動詞の二つ並び(desatendiendo o desoyendo、顧みない/聞こうとしない)は、無視には不注意によるものと拒絶によるものがあるという区別を残している。 そのうえで、どういう理性なら土台になりうるかが定義される。「万人のことがらにおける万人の理性」であり、「大学の理性」が「野の理性」の上に立つものではない。ここでマルティは、助けた者たちを「無学な者たち」と呼びながら、同時にその者たちに理性を認めている。書物の知はないが理性はある、という二重の規定が一つの単位のなかに同居している。彼らの知を書物の知と同じものとして持ち上げるのではなく、理性の所在を書物から切り離すやり方である。 最後の一文は格言の形で、独立の問題を形式と精神の対に畳み込む。診断としては鋭い。ただし、精神の変更が具体的に何をすることなのかは、この単位では示されない。何を退けるべきかは言われるが、何をすべきかは言われていない——訳者としては、この文の力の大半が対句の切れ味から来ていることは指摘しておきたい。
ビロードの爪で戻る虎——共和国に生きた植民地

Con los oprimidos había que hacer causa común, para afianzar el sistema opuesto a los intereses y hábitos de mando de los opresores. El tigre, espantado del fogonazo, vuelve de noche al lugar de la presa. Muere echando llamas por los ojos y con las zarpas al aire. No se le oye venir, sino que viene con zarpas de terciopelo. Cuando la presa despierta, tiene al tigre encima. La colonia continuó viviendo en la república; y nuestra América se está salvando de sus grandes yerros–de la soberbia de las ciudades capitales, del triunfo ciego de los campesinos desdeñados, de la importación excesiva de las ideas y fórmulas ajenas, del desdén inicuo e impolítico de la raza aborigen, –por la virtud superior, abonada con sangre necesaria, de la república que lucha contra la colonia. El tigre espera, detrás de cada árbol, acurrucado en cada esquina. Morirá, con las zarpas al aire, echando llamas por los ojos.

抑圧された者たちとこそ、共通の大義をなすべきであった。抑圧する者たちの利害と支配の習慣とに対立する体制を、そうして固めるために。虎は、銃火の閃光におびえても、夜になれば獲物のいた場所へ戻ってくる。目から炎を噴き、爪を宙にかざして死ぬ。来るのは聞こえない。ビロードの爪で来るのだから。獲物が目を覚ますときには、虎はもう上に乗っている。植民地は共和国のなかで生き続けた。そしてわれらのアメリカは、その大きな誤り——首都の高慢、蔑まれた農民たちの盲目の勝利、他所の観念と定型の過剰な輸入、先住の人種に対する不正で、政治的にも拙い蔑み——から、いま救われつつある。植民地と戦う共和国の、必要な血で肥やされた、より高い徳によって。虎は待っている。どの木の陰にも、どの街角にもうずくまって。虎は死ぬだろう、爪を宙にかざし、目から炎を噴きながら。

かみくだくと
段落は había que(〜すべきであった)という過去の当為で始まる。すべきであったが実際にはしなかった、という含みを持つ言い方である。何をすべきだったかというと、抑圧された者たちと共通の大義をなすこと。その理由は道義としてではなく機構として述べられる。抑圧する者たちの利害と「支配の習慣」に対立する体制を固めるには、それが要る、と。 そこへ虎が入ってくる。原文は虎が何の比喩であるかを一度も言わない。言わないまま虎の文を重ね、そのすぐあとに「植民地は共和国のなかで生き続けた」を置く。同定は読者の仕事として残されている。虎の性質は三点で書かれる。銃火の閃光に一度は驚くが、夜になれば獲物の場所に戻る。音を立てずに来る——ビロードの爪で。そして獲物が気づいたときには、もう上に乗っている。追い払っただけでは終わらないこと、襲来に警告がないこと、気づいた時点で手遅れであること。この三つが順に置かれている。 時制を見ておきたい。虎の死に方はまず現在形で書かれ、段落の末尾で同じ内容が未来形で繰り返される。前者は虎という生き物一般の死に方の記述、後者はこの虎についての予言である。段落は自分の冒頭へ戻って閉じる輪の形をしている。 中央の一文だけが比喩を離れて名指しで語る。挙がる誤りは四つ、首都の高慢、蔑まれた農民たちの盲目の勝利、外来の観念と定型の過剰な輸入、先住の人種への蔑みである。都市の側の誤りと農村の側の誤りが二つずつ配されていることは見ておいてよい。片方だけを責める文章ではない。 「必要な血で肥やされた」は読み飛ばせない。abonar は畑に肥料をやる語で、共和国のより高い徳は、流された血を養分として育つと書かれている。流血を農事の比喩で肯定する言い方であり、現代の読者が立ち止まってよい箇所である。原文は「必要な」と形容するだけで、誰の血か、どこまでが必要かは言わない。
鉈に絹の鞘は合わぬ——現実の時代の現実の人間

Pero "estos países se salvarán", como anunció Rivadavia el argentino, el que pecó de finura en tiempos crudos: al machete no le va vaina de seda, ni en el país que se ganó con lanzón, se puede echar el lanzón atrás, porque se enoja y se pone en la puerta del Congreso de Iturbide "a que le hagan emperador al rubio". Estos países se salvarán porque, con el genio de la moderación que parece imperar, por la armonía serena de la Naturaleza, en el continente de la luz, y por el influjo de la lectura crítica que ha sucedido en Europa a la lectura de tanteo y falansterio en que se empapó la generación anterior, le está naciendo a América, en estos tiempos reales, el hombre real.

けれども「これらの国々は救われるだろう」——アルゼンチンのリバダビアがそう告げたとおりに。荒い時代に洗練が過ぎるという罪を犯した、あのリバダビアが。鉈には絹の鞘は合わない。大槍で勝ち取った国では、その大槍を後ろへ放り出すこともできない。放り出せば槍は腹を立て、イトゥルビデの議会の扉口に立って、「あの金髪の男を皇帝にしろ」とせがむのだから。これらの国々は救われるだろう。なぜなら、光の大陸では、自然の静かな調和のゆえに、節度の精神が支配しているように見え、また、前の世代がそこに浸りきっていた手探りとファランステールの読書に代わってヨーロッパに生じた、批評的な読書の影響もあって、この現実の時代に、アメリカには現実の人間が生まれつつあるからだ。

かみくだくと
「けれども」で始まり、救済の予告へ転じる段落である。掲げられる引用「これらの国々は救われるだろう」を、マルティはリバダビアの言として引く。ところがその同じリバダビアは、荒い時代に洗練が過ぎるという罪を犯した、と評される。救いの言葉が、その言葉に見合わなかった当人の口から引かれている、という構図になっている。「罪」(pecó)という語の選び方が効いていて、洗練そのものが時と場所を誤れば罪になる、と言っている。 続く二つの譬えは、どちらも器と装いの不一致を言う。鉈に絹の鞘は合わない。もう一つは槍で、こちらは擬人化されて動き出す。大槍で勝ち取った国では、その槍を後ろへ放り出すことができない。放り出せば槍は腹を立て、議会の扉口に立って皇帝の擁立を要求する。武力は使い終わったあとに消えてくれず、政治の入口に現れる、という主張である。 後半は診断で、救われる理由が二つ挙がる。ひとつは節度の精神が支配しているように見えること。そしてそれは自然の静かな調和に帰される。もうひとつはヨーロッパでの読書の質の変化——前の世代が浸っていた手探りとファランステールの読書に、批評的な読書が取って代わったこと。この二つによって、現実の時代に現実の人間が生まれつつある、と結ばれる。real(現実の)が形容詞として二度並ぶのがこの一文の要で、時代と人間の両方に同じ語が掛かる。 正直に言えば、第一の理由は弱い。風土や自然の調和から住民の気質を導く議論は十八世紀以来よく使われた型だが、政治的節度の根拠にはならない。第二の理由にも問題がある。前の世代の読書をヨーロッパ由来のものとして退けながら、代わりに置かれる批評的読書も、原文自身が言うとおりヨーロッパで起きた変化である。原文はその点を問題にしていない。加えて、節度の精神が支配しているように見えるという時代診断を、その後のスペイン語圏アメリカの歴史は支持しなかった。ここはマルティが自分の希望を診断の形で書いた箇所だと読むほうが正確だろう。
肩章と法服の仮装——アルパルガータの国で

Éramos una visión, con el pecho de atleta, las manos de petimetre y la frente de niño. Éramos una máscara, con los calzones de Inglaterra, el chaleco parisiense, el chaquetón de Norteamérica y la montera de España. El indio, mudo, nos daba vueltas alrededor, y se iba al monte, a la cumbre del monte, a bautizar sus hijos. El negro, oteado, cantaba en la noche la música de su corazón, solo y desconocido, entre las olas y las fieras. El campesino, el creador, se revolvía, ciego de indignación, contra la ciudad desdeñosa, contra su criatura. Éramos charreteras y togas, en países que venían al mundo con la alpargata en los pies y la vincha en la cabeza. El genio hubiera estado en hermanar, con la caridad del corazón y con el atrevimiento de los fundadores, la vincha y la toga, en desestancar al indio; en ir haciendo lado al negro suficiente; en ajustar la libertad al cuerpo de los que se alzaron y vencieron por ella. Nos quedó el oidor, y el general, y el letrado, y el prebendado. La juventud angélica, como de los brazos de un pulpo, echaba al Cielo, para caer con gloria estéril, la cabeza, coronada de nubes. El pueblo natural, con el empuje del instinto, arrollaba, ciego del triunfo, los bastones de oro. Ni el libro europeo, ni el libro yanqui, daban la clave del enigma hispanoamericano.

われわれは一つの幻影だった。闘技者の胸と、伊達男の手と、子どもの額とを持つ幻影。われわれは一つの仮装だった。イングランドの半ズボン、パリのチョッキ、北アメリカの上着、スペインのモンテーラ帽をまとった仮装。インディオは、黙したまま、われわれのまわりをぐるぐる回り、それから山へ、山の頂へ去って、そこで自分の子らに洗礼を授けた。黒人は、上からうかがわれながら、夜のなかで自分の心の音楽を歌った——ひとり、誰にも知られず、波と野の獣たちのあいだで。農民は、創り出す者であるあの農民は、憤りに目もくらんで、蔑む都市に、つまり自分の生んだ被造物に、身をよじって刃向かった。われわれは肩章と法服だった。足にアルパルガータを履き、頭にビンチャを巻いて世に生まれてきた国々にあって。天才の仕事があったとすれば、それは、心の慈しみと建国者たちの大胆さとをもって、ビンチャと法服とを兄弟にすることのうちに、インディオを堰き止めから解き放つことのうちに、黒人に十分な場所を空けていくことのうちに、自由のために立ち上がりそれを勝ち取った者たちの体に自由を合わせて仕立てることのうちに、あったはずだ。われわれに残ったのは、聴訴官と、将軍と、法学士と、聖職禄取りだった。天使のような青年たちは、蛸の腕から放たれるように、雲を冠にした頭を天へ投げ上げ、不毛な栄光とともに落ちてくるのだった。自然の民は、本能の勢いのままに、勝利に目がくらんで、金の杖を薙ぎ倒していった。ヨーロッパの書物も、ヤンキーの書物も、イスパノアメリカの謎を解く鍵を与えてはくれなかった。

かみくだくと
装いの目録で始まり、装いの比喩で処方を語り、書物の無力で終わる単位である。 最初の二文はどちらも「われわれは〜だった」で並ぶ。一つ目は身体の不一致——闘技者の胸、伊達男の手、子どもの額。力と気取りと未熟が一体に接ぎ合わされている。二つ目は衣服の不一致で、四つの土地から一枚ずつ、イングランドの半ズボン、パリのチョッキ、北アメリカの上着、スペインの帽子。どちらの文も、まとまりを欠いた合成物としての「われわれ」を言っている。 その「われわれ」が誰なのかは、続く三つの文が裏から示す。インディオも黒人も農民も、すべて三人称で書かれ、「われわれ」の外に置かれている。インディオは黙ってわれわれのまわりを回り、山へ去る。黒人は上からうかがわれながら、夜に、ひとりで歌う。農民は憤って都市に刃向かう。つまりこの段落の「われわれ」は肩章と法服の側、都市の側である。マルティは彼らのために書いているが、彼らの側からは書いていない。人称がそれを見せてしまっている。 農民についてマルティは「創り出す者」と呼び、都市をその被造物と言う。都市が農民を蔑むのは、造られたものが造った者を蔑むことだ、という主張である。 「天才の仕事があったとすれば」以下は反実仮想で、なされなかった仕事が四つ並ぶ。ビンチャと法服とを兄弟にすること、インディオを堰き止めから解くこと、黒人に十分な場所を空けていくこと、そして自由のために立ち上がって勝った者たちの体に自由を合わせて仕立てること。最後の一つで、冒頭の合わない衣服の像が処方に転じる。輸入した既製服を着るのではなく、体に合わせて裁つ——これがこの単位の中心の像である。 ただし、この四つの不定詞の主語は依然として法服の側にある。「黒人に場所を空けていく」という言い方は、場所を空ける権限を持つ者を前提にする。ここでマルティは解放を語っているが、解放する側の位置から語っている。この単位のなかで、その位置が最も露わになる箇所である。 「われわれに残ったのは」で挙がる四つ——聴訴官、将軍、法学士、聖職禄取り——は、いずれも役職の名である。独立とともに消えたはずの植民地の職階が、名指しでそのまま残ったと言っている。 締めの二つの像は対にして置かれている。天使のような青年は雲の冠をかぶった頭を天へ投げ上げ、不毛な栄光とともに落ちる。自然の民は本能の勢いで金の杖を薙ぎ倒す。どちらも「盲目」の語で揃えられている点に注意したい——青年の栄光は不毛であり、民は勝利に目がくらんでいる。上へ向かう側と下から突き上げる側の、どちらも当たっていないという配置である。 最後の一文は短い。ヨーロッパの書物も、ヤンキーの書物も、イスパノアメリカの謎の鍵を与えなかった。訳者の言い方をすれば、借りてきた本には、この体の寸法が書かれていない、ということになる。この比喩は原文にはないが、原文の裁縫の像をそのまま延ばしたものである。
憎しみを試したあと、愛を試しはじめる

Se probó el odio, y los países venían cada año a menos. Cansados del odio inútil, de la resistencia del libro contra la lanza, de la razón contra el cirial, de la ciudad contra el campo, del imperio imposible de las castas urbanas divididas sobre la nación natural, tempestuosa o inerte, se empieza, como sin saberlo, a probar el amor. Se ponen en pie los pueblos, y se saludan. "¿Cómo somos?" se preguntan; y unos a otros se van diciendo cómo son. Cuando aparece en Cojímar un problema, no van a buscar la solución a Dantzig. Las levitas son todavía de Francia, pero el pensamiento empieza a ser de América. Los jóvenes de América se ponen la camisa al codo, hunden las manos en la masa, y la levantan con la levadura de su sudor. Entienden que se imita demasiado, y que la salvación está en crear. Crear es la palabra de pase de esta generación. El vino, de plátano; y si sale agrio, ¡es nuestro vino! Se entiende que las formas de gobierno de un país han de acomodarse a sus elementos naturales; que las ideas absolutas, para no caer por un yerro de forma, han de ponerse en formas relativas; que la libertad, para ser viable, tiene que ser sincera y plena; que si la república no abre los brazos a todos y adelanta con todos, muere la república.

憎しみが試された。そして国々は年ごとに衰えていった。役に立たない憎しみに、槍に張り合う書物に、燭台に張り合う理性に、田舎に張り合う都市に、自然のままの国民——荒れ狂うか、さもなくば動かぬその国民——の上に立とうとする、分裂した都市のカスタたちのありえない支配に、疲れ果てて、それと知らずにいるかのようにして、愛が試されはじめる。もろもろの民が立ち上がり、たがいに挨拶を交わす。「われわれはどのようなものか」と彼らは問う。そしてたがいに、自分たちがどのようなものかを語りはじめる。コヒーマルで一つの問題が現れたとき、その解決をダンツィヒまで探しに行きはしない。フロックコートはまだフランスのものだ。だが思考はアメリカのものになりはじめている。アメリカの若者たちは、シャツを肘までまくり上げ、両手を練り粉に突っ込み、自分の汗という酵母でそれ〔練り粉〕をふくらませる。彼らは、模倣が多すぎること、救いは創ることのうちにあることを解している。創ること——これがこの世代の合言葉だ。酒は、バナナから。そして、酸っぱくできあがったとしても、それはわれらの酒だ! 次のことが解されている。一国の統治の形は、その国の自然のもろもろの要素に合わせて誂えられねばならぬこと。絶対的な観念は、形の誤りのせいで倒れてしまわぬために、相対的な形に置き直されねばならぬこと。自由は、生き延びうるものであるためには、偽りのない、満ちたものでなければならぬこと。そして、共和国が万人に腕を開かず、万人とともに前へ進まないなら、その共和国は死ぬということ。

かみくだくと
この単位では文の主語がほとんど消える。「憎しみが試された」「愛が試されはじめる」「次のことが解されている」——いずれもスペイン語の se を使った非人称構文で、誰が試したのか、誰が解しているのかを名指さない。しかも「疲れ果てて」にあたる形容詞 Cansados は男性複数形で、そのあとに続く非人称の動詞とは一致しない。文法的には宙に浮いた分詞である。訳文でも主語を補わずに置いた。変化が誰か特定の人物の決断としてではなく、あたりで起きていることとして書かれている、とこの崩れを読むことはできるが、それは訳者の読みであって、原文が言っていることではない。 疲れの対象として並ぶのは、書物対槍、理性対燭台、都市対田舎、の三つの張り合いと、もう一つ別種のもの——分裂した都市のカスタが自然のままの国民の上に立とうとする支配である。最後の一つだけが対立ではなく上下の関係になっていて、しかもそこには「ありえない(imposible)」という語が付く。注意したいのは、この単位が自然のままの国民を美化していない点だ。それは「荒れ狂うか、さもなくば動かぬ」ものと形容されている。救いはそちらの側にある、とだけ言っているのではない。 「コヒーマルとダンツィヒ」は、問題が起きる場所と解決を探しに行く場所との距離を、二つの地名だけで示す書き方である。その直後に「フロックコートはまだフランスのもの、だが思考はアメリカのものになりはじめている」と続く。衣服と思考を切り離すこの一文は、それまでの段でヨーロッパの衣装を仮装として責めてきた筆致からすると、いくぶん譲歩の入った言い方だ。着ているものはまだ変わらなくてよい、と言っている。 練り粉と酵母の比喩は、創ることをまず身体の労働として描く。汗が酵母である以上、外から持ってきた種では膨らまない。そのうえで「酒は、バナナから」という短い句が来る。ここが読みどころで、そして弱点でもある。原文の主張は、酸っぱくても自分たちのものであるほうがよい、という一点に賭けている。出所を基準にして質を後回しにする言い方で、この基準は、悪い統治や粗い思想を「われらのもの」というだけで正当化する側にも同じように使える。原文にはその歯止めが書かれていない——というのは訳者の批判である。 最後の四つの命題は、この演説的な文章のなかで唯一、条項の形をとる部分だ。統治の形は自然の要素に合わせる。絶対的な観念は相対的な形に置き直す。自由は偽りなく満ちたものであること。共和国は万人に腕を開くこと。二つめが哲学の読者には目を引くだろう。ここで問われているのは観念の真偽ではなく、観念が倒れずに立つための形である。絶対的な観念を捨てよとは言っていない。形を誤ると倒れる、と言っている。基準は真理ではなく viable(生き延びうる)であり、この語は自由についての三つめの命題にも使われている。
騎兵は歩兵の歩調に——戦略とは政治である

El tigre de adentro se entra por la hendija, y el tigre de afuera. El general sujeta en la marcha la caballería al paso de los infantes. O si deja a la zaga a los infantes, le envuelve el enemigo la caballería. Estrategia es política. Los pueblos han de vivir criticándose, porque la crítica es la salud; pero con un solo pecho y una sola mente. ¡Bajarse hasta los infelices, y alzarlos en los brazos! ¡Con el fuego del corazón deshelar la América coagulada! ¡Echar, bullendo y rebotando, por las venas, la sangre natural del país! En pie, con los ojos alegres de los trabajadores, se saludan, de un pueblo a otro, los hombres nuevos americanos. Surgen los estadistas naturales del estudio directo de la naturaleza. Leen para aplicar, pero no para copiar. Los economistas estudian la dificultad en sus orígenes. Los oradores empiezan a ser sobrios. Los dramaturgos traen los caracteres nativos a la escena. Las academias discuten temas viables. La poesía se corta la melena zorrillesca y cuelga del árbol glorioso el chaleco colorado. La prosa, centelleante y cernida, va cargada de ideas. Los gobernadores, en las repúblicas de indios, aprenden indio.

内の虎は隙間から入ってくる。外の虎もそうだ。将軍は行軍において、騎兵を歩兵の歩調に縛りつける。あるいは歩兵を後ろに置き去りにすれば、敵は彼の騎兵を包囲する。戦略とは政治である。もろもろの民は、たがいを批判しながら生きねばならない。批判こそ健康だからだ。だが、ただ一つの胸と、ただ一つの精神とをもって。不幸な者たちのところまで身をかがめ、彼らを腕に抱き上げること! 心の火をもって、凝り固まったアメリカを解かすこと! 国の自然の血を、たぎらせ跳ねさせて、血管に送り出すこと! 立ったまま、働く者たちの晴れやかな目をして、アメリカの新しい人間たちは、一つの民からもう一つの民へと挨拶を交わす。自然を直に研究することから、生まれながらの政治家たちが現れてくる。彼らは適用するために読むのであって、写すために読むのではない。経済学者たちは困難をその起源において研究する。演説家たちは節度を持ちはじめる。劇作家たちは土地に生まれた人物たちを舞台に連れてくる。学士院はやりおおせる主題を論じる。詩は、ソリーリャ風のたてがみを切り落とし、栄光の樹に赤いチョッキを吊るす。散文は、火花を散らし、ふるいにかけられて、観念を積んで進む。インディオの共和国では、統治者たちがインディオの言葉を学ぶ

かみくだくと
冒頭の二匹の虎は、この単位のなかでは説明されない。内から来るものと外から来るものが同じ隙間から入る、という形だけが与えられる。虎が何であるかを言わずに済ませられるのは、読者がすでにこの語に出会っているからで、原文はここでそれを回収しない。 続く軍事の比喩は、抽象を一つも使わずに一つの原則を出す。騎兵を歩兵の歩調に縛れば行軍は遅くなる。縛らなければ騎兵は孤立して包囲される。速い者と遅い者を切り離せないという、それだけのことだ。そこへ「戦略とは政治である」という、この単位でいちばん短い一文が置かれる。前の文の軍事の話が、そのまま統治の話だったと後から分かる仕掛けになっている。速い部分——都市、教養、外来の思想——が遅い部分を置き去りにしたときに何が起きるかは、比喩の側にすでに書かれている。 批判についての一文は、二つのことを同時に言う。批判は健康であるから民は批判し合って生きねばならない。しかしそれは「ただ一つの胸と、ただ一つの精神」をもってなされる。健康としての批判と、単一の精神という要求とを、原文は両立するものとして並べている。この二つが本当に両立するのか、批判の許される範囲を誰が決めるのか——それを原文は書いていない。ここは弱いところだと訳者は見る。 そのあとに三つの感嘆文が来る。原文はいずれも不定詞で、主語も時制もない。誰がやるとも、いつやるとも言わずに、動作だけが投げ出される形である。血の比喩が三つを貫いている。凝り固まったアメリカ、火で解かす、血管に血を送る。凝固した血を溶かして流す、という一続きの像で、「解かす」と「送り出す」は同じ身体の上の連続した動作になっている。 後半は打って変わって、平叙の現在形が十ほど並ぶ。政治家、経済学者、演説家、劇作家、学士院、詩、散文、そして統治者。命令ではなく、すでにそうなっているという報告の形をとる。これは主張の仕方として強引でもある。挙げられているのは、どれも一つの原則の適用例だ——読むが写さない、困難をその起源で扱う、土地の人物を舞台に上げる、やりおおせる主題を論じる。前段で言われた「模倣ではなく創造」を、職業ごとに割り振っている。 並びの最後が言語である点は見ておきたい。統治者がインディオの言葉を学ぶ、という一項は、列挙のなかでもっとも具体的で、もっとも小さく、そして実行の是非がいちばんはっきり判定できるものだ。詩の長髪や散文の火花と違って、これは比喩ではない。
内の危険を抜けて、外から来る危険へ

De todos sus peligros se va salvando América. Sobre algunas repúblicas está durmiendo el pulpo. Otras, por la ley del equilibrio, se echan a pie a la mar, a recobrar, con prisa loca y sublime, los siglos perdidos. Otras, olvidando que Juárez paseaba en un coche de mulas, ponen coche de viento y de cochero a una pomba de jabón; el lujo venenoso, enemigo de la libertad, pudre al hombre liviano y abre la puerta al extranjero. Otras acendran, con el espíritu épico de la independencia amenazada, el carácter viril. Otras crían, en la guerra rapaz contra el vecino, la soldadesca que puede devorarlas. Pero otro peligro corre, acaso, nuestra América, que no le viene de sí, sino de la diferencia de orígenes, métodos e intereses entre los dos factores continentales, y es la hora próxima en que se le acerque, demandando relaciones íntimas, un pueblo emprendedor y pujante que la desconoce y la desdeña.

アメリカはそのすべての危険から、次々と身をかわしつつある。いくつかの共和国の上では、蛸が眠っている。ほかのいくつかは、均衡の法則によって、徒歩のまま海へ躍り出て、狂おしくも崇高な急ぎ足で、失われた幾世紀を取り戻そうとする。ほかのいくつかは、フアレスが騾馬の馬車で出歩いていたことを忘れ、風の馬車を仕立て、御者にはシャボン玉を据える。毒のある奢侈は、自由の敵であって、軽薄な人間を腐らせ、外国人に扉を開く。ほかのいくつかは、脅かされた独立の叙事詩的な精神によって、雄々しい性格を練り澄ましてゆく。ほかのいくつかは、隣国に対する強欲な戦争のなかで、やがて自分たちを食い尽くしかねない軍隊を育てている。だが、われらのアメリカは、おそらくもう一つの危険を冒している。それはアメリカ自身から来るのではなく、大陸の二つの因子のあいだの、起源と方法と利害の差異から来るものだ。すなわち、進取の気に富み力にあふれた一つの民が、われらのアメリカを知らず、しかも軽んじながら、親密な関係を求めて近づいてくる——その時が間近に迫っている、ということだ。

かみくだくと
第一文は救われつつあると言い、そのあとの全文は救われていない共和国を数え上げる。原文の動詞は「se va salvando」で、完了ではなく進行である。安心の宣言ではなく、途中経過の報告として読むほかない。 数え上げは「ほかのいくつかは(otras)」の反復で五つ。蛸が眠っている国、失われた世紀を狂ったような速さで取り返そうとする国、奢侈に腐る国、脅かされた独立が性格を鍛える国、隣国との戦争で軍隊を育ててしまう国。四つは害で、一つ(独立が脅かされることで性格が練られる国)だけが益になっている。「雄々しい性格(carácter viril)」という語を美徳の名として使うことに、この単位はためらいがない。 フアレスの騾馬の馬車と「風の馬車、御者にシャボン玉」の対は、この単位でもっとも凝った箇所である。実在した質素な乗り物と、二重に実体のない乗り物——中身が空気の車と、触れれば消える御者——が並ぶ。そしてそのすぐあとに、奢侈が「軽薄な人間を腐らせ、外国人に扉を開く」と書かれる。内側の堕落と外からの侵入がここで一本の線につながる。この接続があるからこそ、最後の転回が唐突にならない。 最後の一文は、それまでの数え上げから危険の出所を移す。もう一つの危険はアメリカ自身から来るのではない。「大陸の二つの因子」のあいだの、起源・方法・利害の差異から来る。注目すべきは、その相手を原文がここで名指さないことだ。与えられるのは「進取の気に富み力にあふれた一つの民」「アメリカを知らず、軽んじている」という記述だけで、国名は出てこない。「親密な関係を求めて(demandando relaciones íntimas)」という語り口は外交文書のそれで、迫ってくるものが軍隊ではなく交渉の形をとることが、この語彙だけで示されている。 原文が一八九一年の発表であること、そしてこの警告が、その直前にワシントンで開かれた米州諸国の会議をめぐる情勢と同じ年月のうちにあることは、事実として言える。ただし会議も国名もこの単位には出てこないので、それを読み込むのは読者の側の作業である。この単位が書いているのは、時が「間近(próxima)」だ、という予告だけだ。
知られぬことの危険——おのれを在るがままに示せ

Y como los pueblos viriles, que se han hecho de sí propios, con la escopeta y la ley, aman, y sólo aman, a los pueblos viriles; como la hora del desenfreno y la ambición, de que acaso se libre, por el predominio de lo más puro de su sangre, la América del Norte, o en que pudieran lanzarla sus masas vengativas y sórdidas, la tradición de conquista, y el interés de un caudillo hábil, no está tan cercana aún a los ojos del más espantadizo, que no dé tiempo a la prueba de altivez, continua y discreta, con que se la pudiera encarar y desviarla; como su decoro de república pone a la América del Norte, ante los pueblos atentos del Universo, un freno que no le ha de quitar la provocación pueril o la arrogancia ostentosa, o la discordia parricida de nuestra América, el deber urgente de nuestra América es enseñarse como es, una en alma e intento, vencedora veloz de un pasado sofocante, manchada sólo con sangre de abono que arranca a las manos la pelea con las ruinas, y la de las venas que nos dejaron picadas nuestros dueños. El desdén del vecino formidable, que no la conoce, es el peligro mayor de nuestra América; y urge, porque el día de la visita está próximo, que el vecino la conozca, la conozca pronto, para que no la desdeñe. Por ignorancia llegaría, tal vez, a poner en ella la codicia. Por el respeto, luego que la conociese, sacaría de ella las manos.

そして、雄々しい民——散弾銃と法とによって、みずからの手でみずからを作り上げた民——は、雄々しい民を愛し、雄々しい民しか愛さないのだから。また、放縦と野心の時刻は——北のアメリカは、その血のもっとも純粋な部分が優勢であることによって、あるいはその時刻を免れるかもしれず、あるいは復讐心に満ちた卑しい大衆と、征服の伝統と、腕利きのカウディーリョの利害とが、そこへ北のアメリカを投げ込むこともありうるのだが——もっとも臆病な目にとってすら、まだそれほど近くには来ていない。近くには来ていないのだから、〔その時刻に〕立ち向かい、それを逸らすことのできるだけの、持続的で慎み深い気位の証しを立てるだけの時間はある。また、共和国としての体面は、宇宙の注意深い諸民族の前で、北のアメリカに一つの手綱をかけているのだから——そしてその手綱を、われらのアメリカの子どもじみた挑発や、これ見よがしの傲慢や、父殺しの内輪もめが、北のアメリカから取り去ってしまってはならないのだから——、われらのアメリカの緊急の務めは、おのれを在るがままに示すことである。すなわち、魂においても意図においても一つであり、息の詰まるような過去をすばやく打ち破った勝者であり、その身に付いた汚れといえば、廃墟との闘いが手から引きずり出す肥やしの血と、われらの主人たちが刺したまま残していった血管の血だけである、と。われらのアメリカを知らないこの恐るべき隣人の侮りこそ、われらのアメリカにとって最大の危険である。そして、訪いの日が近いのだから、隣人がわれらのアメリカを知ること、早く知ることが急がれる——侮らずにすむために。無知ゆえに、隣人はおそらく、われらのアメリカに強欲の手をかけるところまで行くだろう。敬意ゆえに、ひとたび知ったなら、そこから手を引くだろう。

かみくだくと
前半は一つの長い文でできている。como(〜なのだから)で始まる理由節が三つ積み上がり、最後にようやく主節「われらのアメリカの緊急の務めは、おのれを在るがままに示すことである」が来る。日本語ではこの懸垂を保てないので節を切ったが、順序も内容も原文どおりに置いた。 三つの理由はそれぞれ性格が違う。(一)雄々しい民は雄々しい民しか愛さない。愛される条件が同質性に置かれている。(二)放縦と野心の時刻は、もっとも臆病な目にとってすら、まだ間近ではない。だから対抗の時間がある。ここで原文は、その時刻について両側を書いていることに注意したい。北のアメリカがそれを免れうる理由(血のもっとも純粋な部分の優勢)と、そこへ投げ込まれうる理由(復讐心に満ちた卑しい大衆、征服の伝統、腕利きのカウディーリョの利害)とが、同じ一文のなかに並べてある。隣国は一枚岩の敵としてではなく、どちらへも転びうるものとして描かれている。(三)共和国としての体面が、世界の視線の前で手綱になる。ただしこの三つ目だけが条件付きであり、しかもその条件を握っているのはわれらのアメリカの側である——挑発と傲慢と内輪もめが、その手綱を隣人から外してしまいうる、と原文は書く。相手を縛っているものを、こちらが不用意に解いてはならない、という警告である。 主節が命じるのは武装ではなく自己提示である。示すべき像は四つ数えられる。魂と意図において一つであること、息詰まる過去をすばやく破った勝者であること、廃墟と闘う手から出る肥やしの血、そして主人たちに刺されたままの血管の血。汚れとして認められている血は二種類しかない。働いて流した血と、吸われた血である。同士討ちの血がここに数えられていないのは、訳者の見立てだが、直前に「父殺しの内輪もめ」を挙げていることと読み合わせると、意図した除外に見える。 最後の三文が、この単位の議論を短い定理に畳む。危険は無知から来る侮りである。ゆえに知られることが急務である。無知は強欲を招き、敬意は手を引かせる。 弱点も書いておく。この推論全体の要は「知れば敬う」という一段にあり、原文はそれを論証していない。強い側が、知ったうえでなお欲するという場合が勘定に入っていない。史実としては、この文章の七年後の一八九八年に合衆国はスペインとの戦争に踏み込み、キューバは一九〇一年のプラット修正条項によって、合衆国の介入権を自国の憲法体制に書き込まれることになる。マルティは一八九五年に戦死しており、この帰結は見ていない。
最善に機会を与えよ——晒し台は二つ要る

Se ha de tener fe en lo mejor del hombre, y desconfiar de lo peor de él. Hay que dar ocasión a lo mejor para que se revele y prevalezca sobre lo peor. Si no, lo peor prevalece. Los pueblos han de tener una picota para quien les azuza a odios inútiles; y otra para quien no les dice a tiempo la verdad.

人間のうちの最善のものには信を置き、最悪のものは疑わなければならない。最善のものが姿を現し、最悪のものに打ち勝つよう、それに機会を与えねばならない。さもなければ、最悪のものが勝つ。諸民族は、無用な憎しみへと自分たちを煽り立てる者のために、晒し台を一つ持たねばならない。そして、しかるべき時に真実を告げない者のために、もう一つを。

かみくだくと
四つの短文だけの単位だが、組み方は緊密である。まず対になった命題——最善には信を置き、最悪は疑う。次に条件文——最善に機会を与えねばならない、さもなくば最悪が勝つ。 読み落としやすいのは、原文がここで人間の善性を主張していないことだ。最善も最悪も人間のうちに両方あるとされ、どちらが表に出るかは「機会」次第だと言われている。「信を置く」はしたがって楽観の表明ではなく、条件を作る仕事として置かれている。しかも三文目が短く冷たい。機会を与えなければ、悪いほうが勝つ。これが既定値である。 この単位の要は、晒し台が二つある点にある。一つ目は無用な憎しみを煽る者に。二つ目は、しかるべき時に真実を告げない者に。後者が前者と対称に置かれることで、沈黙が煽動と同じ台に載せられる。しかも a tiempo(しかるべき時に)という限定があるので、真実を言ったか否かだけでなく、間に合ったか否かが問われている。遅れて言うことは、言わなかったことと同じ扱いを受ける。 訳者の補いとして言えば、二つ目の晒し台は、これを書いている当人の職業——書き、語り、論ずる者——にまっすぐ向いている。この単位に人名も具体例も一つも出てこないのは、誰にでも当てはまる規則として書かれているためだろう。直前の単位が隣人の侮りを最大の危険として名指したのに続いて、ここでは誰を罰すべきかの規則が、内側に向けて置かれている。
人種は無い——だが民の性格は隣り合いで凝る

No hay odio de razas, porque no hay razas. Los pensadores canijos, los pensadores de lámparas, enhebran y recalientan las razas de librería, que el viajero justo y el observador cordial buscan en vano en la justicia de la Naturaleza, donde resalta en el amor victorioso y el apetito turbulento, la identidad universal del hombre. El alma emana, igual y eterna, de los cuerpos diversos en forma y en color. Peca contra la Humanidad el que fomente y propague la oposición y el odio de las razas. Pero en el amasijo de los pueblos se condensan, en la cercanía de otros pueblos diversos, caracteres peculiares y activos, de ideas y de hábitos, de ensanche y adquisición, de vanidad y de avaricia, que del estado latente de preocupaciones nacionales pudieran, en un período de desorden interno o de precipitación del carácter acumulado del país, trocarse en amenaza grave para las tierras vecinas, aisladas y débiles, que el país fuerte declara perecederas e inferiores. Pensar es servir.

人種の憎しみなど無い。人種というものが無いからだ。ひ弱な思想家たち、ランプの思想家たちが、本屋の人種を糸に通しては温め直す。しかしそれは、公正な旅人も、心ある観察者も、自然の正しさのうちに探して見つけられないものだ。そこで際立つのはむしろ、勝ち誇る愛と荒れ狂う食欲のうちに現れる、人間の普遍的な同一性である。魂は、形においても色においても異なる身体から、等しく、また永遠に、流れ出る。人種の対立と憎しみを煽り、広める者は、人類に対して罪を犯している。しかし、諸民族の練り粉のなかでは、他の異なる民族と隣り合うことによって、独特で活発な性格が凝り固まる——観念と習慣の、拡張と獲得の、虚栄と貪欲の性格が。それらは、国民的偏見という潜在状態から、国内の無秩序の時期に、あるいはその国に蓄積された性格が一気に噴き出す時期に、隣り合う土地——孤立し、弱く、強い国がやがて滅びる劣ったものと宣告する土地——にとっての重大な脅威へと転じうるのだ。考えることは、仕えることである。

かみくだくと
冒頭の一文がこの単位でもっとも強い。人種の憎しみは無い、人種が無いからだ。憎しみを禁じているのではなく、憎しみの向かう先が存在しないと言っている。倫理の命令ではなく、存在の否認である。 論拠は二つ挙げられている。第一に、人種は書斎の産物だということ。「本屋の人種」を糸に通しては温め直すのが「ランプの思想家」であり、旅人と観察者は自然のなかにそれを見つけられない。第二に、自然のうちで際立つのは人間の普遍的同一性であり、それは勝ち誇る愛と荒れ狂う食欲——生殖と食という、最も動物的な二つの場面——に現れる、ということ。そして魂は、形と色の異なる身体から等しく永遠に流れ出る。 論法の性格をはっきりさせておく。これは生物学の議論ではない。魂が身体から流れ出るという命題は形而上学的なものであって、経験による検証を求める種類の主張ではない。原文が経験に訴えているのは、旅人と観察者が「探しても見つけられない」という消極的な報告の部分だけで、なぜ見つからないのかは説明されていない。二十世紀の集団遺伝学は、ヒトの遺伝的変異の大半がいわゆる人種の内側に収まり、集団間の差はその一部にすぎないことを示して、人種を生物学的な分類として使えないものにした。到達した結論は近いが、この単位が通っている道はそれとは別である。ここでは断言が論証の代わりをしている。 興味深いのは「しかし」以下で、これがこの単位を単純な人類同胞論から引き離す。人種は無い。だが、諸民族の練り粉のなかで、他と隣り合うことによって、独特で活発な性格は凝り固まる。列挙は三つの対で、観念と習慣、拡張と獲得、虚栄と貪欲——前の対ほど中立で、後ろの対ほど悪い。それが国民的偏見として潜在し、国内の無秩序の時期か、蓄積された性格が一気に噴き出す時期に、隣の弱い土地への重大な脅威に転じうる。しかもその土地を、強い国はやがて滅びる劣ったものと宣告する、と原文は付け加える。宣告する側とされる側の非対称が、はっきり書き込まれている。 つまりこの単位は、人種という自然的カテゴリーを消したうえで、それが担っていた政治的な働きを、歴史的に形成された国民性格という別のカテゴリーで引き受け直している。性格を作るのは血ではなく隣接と歴史だという点で、説明の型が入れ替わっている。 ただし整合していない箇所も指摘しておく。直前の単位で、北のアメリカについて「その血のもっとも純粋な部分が優勢であることによって」という言い方がされていた。それと「人種というものが無い」とは、そのままでは噛み合わない。あの sangre を、この単位の言う人種とは別のもの(家系や気質の比喩)として読む余地はあるが、原文はその調整をしていない。 最後の三語「考えることは、仕えることである」は、この単位の冒頭で退けられた「ランプの思想家」への返答として置かれている。思考は装飾でも私事でもなく職務だ、という規定である。原文はそれ以上の説明を与えず、ここで単位を閉じる。
北の民を憎まず、しかし問題も隠さず

Ni ha de suponerse, por antipatía de aldea, una maldad ingénita y fatal al pueblo rubio del continente, porque no habla nuestro idioma, ni ve la casa como nosotros la vemos, ni se nos parece en sus lacras políticas, que son diferentes de las nuestras, ni tiene en mucho a los hombres biliosos y trigueños, ni mira caritativo, desde su eminencia aún mal segura, a los que, con menos favor de la Historia, suben a tramos heroicos la vía de las repúblicas: ni se han de esconder los datos patentes del problema que puede resolverse, para la paz de los siglos, con el estudio oportuno, y la unión tácita y urgente del alma continental. ¡Porque ya suena el himno unánime; la generación actual lleva a cuestas, por el camino abonado por los padres sublimes, la América trabajadora; del Bravo a Magallanes, sentado en el lomo del cóndor, regó el Gran Semí, por las naciones románticas del continente y por las islas dolorosas del mar, la semilla de la América nueva!

また、村の反感から、この大陸の金髪の民に、生まれつきの、逃れようのない悪意があると想定してはならない——彼らがわれわれの言語を話さないからといって、家をわれわれが見るようには見ないからといって、その政治の瑕において——それはわれわれの瑕とは別種のものだが——われわれに似ていないからといって、胆汁質で小麦色の肌をした男たちを高く買わないからといって、まだ足場の危うい自らの高みから、歴史の恩恵に恵まれることのより少ないまま、英雄的な段を一つずつ登って共和国の道を行く者たちを、慈しみ深い目で見ないからといって。かといってまた、問題の明白な諸事実を隠してもならない——時宜を得た研究と、大陸の魂の、言葉によらぬ、そして急を要する結合とによって、幾世紀の平和のために解決されうる、その問題の諸事実を。なぜなら、すでに満場一致の讃歌が鳴り響いているからだ。今の世代は、崇高な父祖たちが肥やした道を通って、働くアメリカを背に負っている。ブラボー川からマゼラン〔海峡〕まで、コンドルの背に坐して、大セミーが撒いたのだ——大陸のロマンティックな諸国民のあいだに、そして海の痛ましい島々に、新しいアメリカの種を!

かみくだくと
この単位は二つの禁止を「ni…ni…」で並べている。第一は、北の民に生得の悪意を見てはならない、第二は、問題の明白な事実を隠してもならない。前半は長い理由の列挙で膨れ上がるが、その理由はすべて「〜からといって」で否定される側に置かれている。つまり原文は、列挙された不満(言語が違う、家の見方が違う、政治の欠陥の種類が違う、こちらの人間を高く買わない、こちらを慈しみ深く見ない)を事実として認めたうえで、それらは生得の悪意を推論する根拠にならない、と言っている。認めることと憎むことを切り離す構文である。 注意しておきたいのは、原文が北の民を無傷にしていないことだ。「その政治の瑕」と書き、その高み(eminencia)を「まだ足場の危うい」と限定し、慈しみの欠如を数え上げる。禁じられているのは憎悪の一般化であって、批判ではない。しかも禁止の理由づけとして原文が掲げるのは「村の反感」——つまり動機の側の卑小さであり、相手の潔白ではない。 第二の禁止は方向が逆で、宥和のあまり事実を伏せることを禁じる。ここで初めて「問題(el problema)」が定冠詞つきで現れるが、この単位の原文はそれが何であるかを一度も名指さない。名指されるのは解決の手段のほうで、「時宜を得た研究」と「大陸の魂の、言葉によらぬ、急を要する結合」の二つ、目的は「幾世紀の平和」である。ここは弱点として指摘しておくべきところだと訳者は考える。原文自身が相手を高みに立つ者として描いておきながら、対置される手段は研究と魂の結合だけで、制度も条約も力も出てこない。しかも結合は tácita、明文化されない暗黙のものとされる。力の非対称を語る段落が、非対称に対して非物質的な処方しか出さない。 後半の感嘆文で語調が一変する。分析から予言へ、散文から詩へ移り、しかも時制が完了に変わる——讃歌はすでに鳴り、種はすでに撒かれた。論証すべきことが既成事実として告げられているとも読める。像の作り方も見ておきたい。撒く主体はギリシアの神でもキリスト教の神でもなく、アンティルの土着の神霊セミーであり、乗り物はアンデスのコンドルである。北の民が髪の色で名指されたのに対し、こちらの側は「小麦色」で名指され、種を撒くのは先住の神である。血統ではなく大陸そのものを起点に置く身振りだと言える。 「海の痛ましい島々」が何を指すかを原文は書いていない。訳者の補いとして事実だけ言えば、この文章が書かれた一八九一年、キューバとプエルトリコはなお植民地であり、著者は亡命の身であった。四年後に彼は武器を取ってキューバに戻り、戦場で死んでいる。この段落が処方した「研究と結合」だけでは足りなかったことを、著者自身の生涯が示している。

訳注

  1. los gigantes que llevan siete leguas en las botas——一またぎで七里を進む長靴を履いた巨人。この長靴はペロー「親指小僧」(1697)の人食い鬼の持ち物として広く知られる。本文は出典を示さず、童話の像をそのまま脅威として使う。u02の「七里の巨人」も同じ像を受ける。
  2. como los varones de Juan de Castellanos——フアン・デ・カステリャーノス(1522–1607)はスペインに生まれインディアスに渡った聖職者・詩人で、韻文の年代記『インディアスの著名なる男たちへの哀歌』(Elegías de varones ilustres de Indias、第一部1589年刊)の作者。本文の「男たち」はこの書名の varones を受ける。武器を枕にして眠るという句が同書のどの詩行に対応するかは、本文からは特定できない。
  3. las armas del juicio / la bandera mística del juicio final——スペイン語の juicio は判断力と、裁き・審判との両義をもつ。u01では「判断力という武器」、u02では「最後の審判の旗」と訳し分けたが、原文では同じ語が二度鳴っており、理念の武器と終末の裁きとが語の上でつながっている。訳ではこの連結が消えるため注記する。
  4. la tierra del hermano vencido——本文は国名も年号も当事者も挙げない。訳者は隣国どうしの領土切り取りを指すと読むが、どの事例かをこの単位の文面から特定することはできない。「自分自身の血管の血に染まったサーベル」という句が、同じ血をもつ者どうしの争いであることだけを示している。
  5. como la plata en las raíces de los Andes——アンデスの「根」における銀。植物の根の比喩と、山脈の地下を走る銀鉱脈の像とが重ねられている。訳では原文どおり「根」を残した。
  6. sietemesino / hombres de siete meses——妊娠七か月で生まれた子、すなわち早産児。転じて、ひよわな者・未熟な者を指す罵語として使われる。本文はこの語をわざわざ «hombres de siete meses» と開いて言い直すので、訳でも「七月児」「七月の男」と字義を残した。日本語としては日常語でないため、語感は原文より硬い。
  7. vayan al Prado, de faroles, o vayan a Tortoni, de sorbetes——Prado はマドリードの遊歩道パセオ・デル・プラード、Tortoni は十九世紀パリのイタリア大通りにあった、氷菓で名を知られたカフェ。faroles は街灯を指すが、見栄・はったりの意でも用いる。街灯よろしく突っ立つことと氷菓をなめることを並べて、ヨーロッパでの遊民ぶりを言う。
  8. sus indios——「インディオ」と音訳した。原語は当時の常用語であり、本文はこれを否定的にではなく、アメリカが救われる条件(«ha de salvarse con sus indios»)として用いる。「先住民」と訳すと語の歴史的な重みが薄れ、母がインディオの前掛けをしているという像との結びつきも切れるため、音訳を選んだ。
  9. con el gusano de corbata … el letrero de traidor en la espalda de la casaca de papel——前者は、洒落たネクタイの位置に蛆虫がいる、つまり首元の飾りそのものが虫だという像。後者は、罪状を書いた札を背に負わせて引きまわす見せしめの刑を借りた像だと訳者は読むが、本文は刑の名も制度も挙げていない。上着が紙製だという点に、装いの薄さが重ねられている。
  10. el Washington que les hizo esta tierra——「彼らにこの土地を作ってやったワシントン」。les(彼らに)の指す相手は、この単位の内部だけでは決まらない。esta tierra(この土地)が合衆国を指すことは、直後にイギリス人が来ることから動かない。マルティはこの文章を書いた当時ニューヨークに住んでおり、「この土地」という指示語はその場所から発せられている。訳では指示対象を補わず、「彼らのために」と置いた。
  11. increíbles——フランス革命後、総裁政府期(1795–99年)のパリに現れた伊達者たち Incroyables のスペイン語訳。誇張した服装と身振り、崩した発音で知られた。マルティは「信じがたい」という語義と、この固有名の両方を同時に働かせている。訳では語義を採り、固有名は注に回した。なお、伊達者たちの発音上の特徴は通例、r を「引きずる」ことではなく落とすこと(incoyable)とされる。マルティの arrastraban las erres はその特徴の正確な写生ではなく、直前の arrastran(名誉を引きずる)と同じ動詞を重ねるために選ばれている。
  12. cirial——行列で捧げ持つ長柄の燭台。ここでは教会と聖職の換喩として使われている。「理性が燭台に張り合う」とは、理性と教会権威との争いを指す。抽象語(教会・宗教)に置き換えず、器物の名を残して訳した。
  13. gamonal——スペイン語圏で、地方に君臨する大地主・顔役を指す語。cacique とほぼ重なる。訳は「大地主」としたが、経済的な地主というより、土地を握って人を動かす有力者という含みが強い。
  14. pueblos originales——ここでの originales は「独自の・他に類のない」の意。今日のスペイン語の pueblos originarios(先住諸民族)と紛れやすいが、マルティが直後に de composición singular y violenta(独特で激烈な組成の)と言い添えているとおり、混成の新しい共同体そのものを指している。
  15. cuatro siglos de práctica libre en los Estados Unidos——この文章の書かれた1891年から四世紀を遡れば1490年代であり、合衆国はもちろん英領植民地も存在しない。合衆国の法を、植民地以前のイングランドの自由の慣行まで含めて数えたものと解される。対する diecinueve siglos de monarquía en Francia(フランスにおける十九世紀の君主制)も同様に大きく取った数である。二つの数字は厳密な年代ではなく、対比の重さを作るために置かれている。
  16. Alexander Hamilton(1755または57–1804)。合衆国初代財務長官。連邦の財政制度と中央行政の設計者として知られる。decreto(布告・政令)は、その文書による統治の象徴として置かれている。
  17. llanero——オリノコ川流域の大平原(llanos)に暮らす牧夫。potro は若い馬、pechada は馬が胸で相手に体当たりする動作で、平原の乗り手の技でもある。訳は「体当たり」とした。
  18. Emmanuel-Joseph Sieyès(1748–1836)。『第三身分とは何か』(1789年)の著者で、革命期フランスの憲法構想を次々に起草した。frase(一句)は、定式ひとつで政体を作り出そうとする流儀を指している。マルティの綴りは Sieyés。
  19. constitución propia del país——constitución は「憲法」と「(身体の)体質・組成」の両義をもつ。この単位はすでに、国がどんな elementos(要素)でできているかを問うてきており、ここでは後者の意味が前面に出る。訳では「体質」を採ったが、「憲法」の意味が消えるわけではない。
  20. el hombre natural——「自然の人間」。「自然人」と訳すと社会契約論の術語(homme naturel/natural man)に寄りすぎるため避けた。この論文では、書物によって形づくられた人間に対して、その土地に現に生きている人間を指す。u07では善良だと言われ、u08では教養なき者と重ねられるが、マルティはこれを別々の対象として扱ってはいない。
  21. el mestizo autóctono ha vencido al criollo exótico——criollo(クリオーリョ)は本来アメリカ生まれのスペイン系住民を指す語であり、生まれの土地からいえば土着の側に属する。それがここでは exótico(異国風の)と結ばれている。autóctono と exótico を分けている基準は生地ではなく、身につけた教養と規範の出所である。
  22. civilización y barbarie——「文明と野蛮」。この対句は、ドミンゴ・F・サルミエントの『ファクンド』(1845年)の副題 Civilización y barbarie として広く流通していた。マルティはこの対句そのものを否定し、対立軸を偽りの博識と自然のあいだへ置き換えている。
  23. han purgado en las tiranías su incapacidad——purgar は罪を償う・贖う意。諸共和国は、自国の真の諸要素を知りえなかったという incapacidad の罰を、暴政という形で受けた、という含みになる。暴政を外から降りかかった災厄としてではなく、共和国自身の欠落が支払った代価として位置づける言い方である。
  24. antiparras yanquis o francesas——antiparras は眼鏡を指す古風で俗な語で、標準的な anteojos より道具を茶化す響きがある。訳では「眼鏡」としたが、この滑稽味は移しきれていない。yanqui は合衆国の人・ものを指す。
  25. El premio de los certámenes … la mejor oda——certamen は文芸や学術の懸賞競技。oda(頌歌)は懸賞詩の伝統的な形式の一つである。賞の対象を頌歌から国の諸因子の研究へ移せ、というのが提案の内容で、文学一般の否定ではなく、公的な報奨が何を測るかの変更を求めている。
  26. los arcontes de Grecia——アルコンは古代アテナイの最高執政官職。ここでは、アメリカ史と対比される古典古代史の授業内容の代表として挙げられている。
  27. Injértese en nuestras repúblicas el mundo; pero el tronco ha de ser el de nuestras repúblicas——接ぎ木の比喩。接ぎ木では、根と幹をなす台木(tronco)に、他から取った穂木を接ぐ。世界の側が穂木、われらの共和国が台木であって逆ではない、というのが命令形の要点である。
  28. Con los pies en el rosario, la cabeza blanca y el cuerpo pinto de indio y criollo——足は数珠に、頭は白く、体はインディオとクリオーリョの「まだら(pinto)」。pinto はもともと馬の毛色に使う語で、ぶちの意。三つの部位で、植民地の信仰・支配層・混血の身体を一つの生き物として描いている。「足がロザリオにある」は、祈りの姿勢とも、数珠の輪に足をとられた姿とも読める。訳では後者に寄せたが、原文はどちらとも決めていない。
  29. canónigo は司教座聖堂参事会員。「スペインに抗する中央アメリカの首領にスペインの将軍を据えた」は、1821年の中米独立に際して、スペイン側の総督ガビノ・ガインサがそのまま独立後の首班となった経緯を指すと読むのが通説である。原文はいずれの名も書いていない。
  30. hábitos は「習慣」と「修道服・衣装」の両義で、王制の作法が身に染みたまま、という意味と、王制の衣装を着たまま、という意味が重ねられている。「胸には太陽を(el Sol por pecho)」は勲章や徽章の意匠を思わせる。サン・マルティンがペルーで創設した太陽勲章(1821年)や、リオ・デ・ラ・プラタの旗の太陽が候補として挙げられるが、原文は特定していない。
  31. 「二人の英雄が衝突し……一方が手綱を返した」は、1822年グアヤキルでのボリーバルとサン・マルティンの会見と、その後のサン・マルティンの退場を指すと読むのが通説。ただし会見で何が話されたかを記した確実な記録は残っておらず、「小さいほうの英雄ではなかった」という評価はマルティ自身の解釈である。
  32. 衣服の対が三組ある。pierna desnuda(素足・むきだしのすね)と casaca de París(パリ仕立ての上着)、corbatín(硬い襟当て。都市の正装の一部)と bota de potro(仔馬の皮をなめして作るガウチョの履物)。zaguán は表の戸と中庭のあいだの土間・前室で、客を家の中まで通さずに待たせておく場所を指す。
  33. savia gobernante——「統治する樹液」。樹液の比喩は、統治の能力を書物から学ぶものではなく、長い実践のなかで養分として体をめぐってきたものとして扱う。旗を掲げた建物と、その旗をもともと養ってきた民とが別であることが、この一文の眼目である。
  34. redentores bibliógenos——マルティの造語。biblio-(書物)に -geno(生む/生まれる)を付けた形で、「書物から生まれた救済者たち」とも「書物を生む救済者たち」とも取れる。訳では前者に取った。
  35. descoyuntar は関節をはずす・脱臼させるの意。大陸を一つの身体として扱う語で、単に「分断された」ではなく、つなぎ目が本来の位置から外れたままになっている状態を言う。
  36. 「Muere echando llamas…」は直説法現在で、虎という生き物一般の死に方を述べる総称的な現在。段落の末尾では同じ内容が未来形(Morirá)で繰り返され、この虎についての予言になる。訳ではそれぞれ「〜して死ぬ」「死ぬだろう」と訳し分けた。
  37. abonar は畑に肥料を施すこと。abonada con sangre necesaria は、共和国の徳が必要な血を肥料として与えられている、という農事の比喩である。necesaria は「避けられない」とも「そのために要る」とも取れ、原文はどちらとも決めていない。
  38. ベルナルディーノ・リバダビア。アルゼンチンの初代大統領(在任一八二六〜二七年)で、ヨーロッパ流の制度と文物を移植しようとした人物。「これらの国々は救われるだろう」という引用をリバダビアに帰すのはマルティであり、原文はこれを引用符に入れて掲げている。pecó de finura は、洗練が時代に合わなかったことを「罪を犯した」という語で言ったもの。
  39. lanzón は大型の槍。ここでは槍が擬人化され、捨てられれば腹を立てて議会の扉口に現れる。「あの金髪の男」はアグスティン・デ・イトゥルビデを指すと読まれる。一八二二年、彼は兵と群衆の推戴を受けてメキシコ皇帝となった。原文はその経緯を一句に畳んでいる。
  40. ファランステール。シャルル・フーリエが構想した共同生活体の名で、ここでは初期社会主義のユートピア構想全般の代名詞として使われている。tanteo(手探り)と並べることで、体系以前の模索とユートピア構想とが一括りにされている。
  41. máscara は仮面のほか、仮装した人そのものも指す。直後に衣装の目録が続くので後者に取り、「仮装」と訳した。
  42. otear は高いところから見渡す、うかがうこと。過去分詞一語で、黒人が見られる側・監視される側に置かれていることを示している。
  43. alpargata は麻縄底の履物、vincha は頭に巻く帯(アンデスやラプラタ地方の民衆の装い)。これに対する charretera は軍服の肩章、toga は法服で、軍と法の権威の装いにあたる。原文はこの二組を、生まれたときの装いと着せられた装いとして対置している。
  44. estancar は堰き止めること、また専売にすること(estanco は植民地期の専売制度を指す語)。desestancar はその解除。訳は「堰き止めから解き放つ」としたが、専売の含みは日本語に移しきれない。
  45. ir haciendo lado al negro suficiente の suficiente は、語順の上では negro に接しているが、通常は lado に掛けて「十分な場所を空けていく」と読む。訳もそれに従った。
  46. oidor はアウディエンシア(植民地の高等法院)の判事。letrado は法学の学位を持つ者、prebendado は聖堂参事会の禄(prebenda)を受ける聖職者。いずれも植民地統治の職名であり、原文は将軍とともにこの四つが共和国に残ったと言っている。
  47. como de los brazos de un pulpo は係り先が定まらない。蛸の腕から逃れるように頭を天へ投げ上げた、とも、蛸の腕が物を放るようにして、とも読める。訳は後者に寄せたが、原文は両様に読める。
  48. bastón は権威の標章としての杖。金の握りや金具のついた杖は、市参事会員や高官の職の徴だった。
  49. castas——植民地期のイスパノアメリカで、血統の混り具合によって人を区分した身分の語。ここでは都市の支配層を指す。「階層」「階級」と訳すとこの制度の記憶が消えるので、音を残して「カスタ」とした。原文はこれを「分裂した(divididas)」と形容している。
  50. Cojímar / Dantzig——コヒーマルはハバナの東にある小さな漁村。ダンツィヒはバルト海の港市(現グダンスク)。手近な土地の名と、縁の薄いヨーロッパの地名とを並べている。
  51. vino de plátano——plátano はカリブのスペイン語でバナナ(調理用の品種を含む)。原文の vino は本来ぶどう酒を指す語で、バナナからぶどう酒はできない、という食い違いが句の骨になっている。「バナナの酒」とせず「酒は、バナナから」と原文の省略形を残した。
  52. coagulada——血が凝固する意の語。直前の「心の火で解かす」、直後の「血管に血を送る」と血の比喩でつながるため、「凍った」ではなく「凝り固まった」と訳した。
  53. estadistas naturales ... naturaleza——原文では「生まれながらの政治家」の naturales と「自然」の naturaleza が同じ語根で重なり、自然を学ぶことから自然な政治家が生じる、という響きになる。訳文ではこの重なりを保てなかった。
  54. sobrios——酔っていない、控えめである、の意。演説の華美と冗長に対して言われている。「素面になる」とも訳せるが、ここでは「節度を持つ」とした。
  55. zorrillesca——スペインのロマン派詩人ホセ・ソリーリャ(José Zorrilla, 1817–93)の名から作られた形容詞。長い髪はロマン派詩人の徴だった。
  56. chaleco colorado——赤いチョッキ。フランス・ロマン派の徽章として名高いのは、一八三〇年『エルナニ』初演でテオフィル・ゴーティエが着た緋色のチョッキである。ただし原文はゴーティエの名を挙げていないので、この結びつけは訳者の補いであって、原文の主張ではない。
  57. aprenden indio——indio がここでは言語の名として使われている。「インディオ語」という単一の言語は存在しないため、原文の語法をそのまま残して「インディオの言葉」と訳した。
  58. se echan a pie a la mar——直訳すれば「徒歩のまま海へ身を投げる」。海に向かって歩き出す、の意にも取れる。乗り物なしで海へ出る、という無理のある像がそのまま置かれているので、訳文でも整えずに残した。
  59. Juárez——ベニート・フアレス(1806–72)。サポテカ人の家に生まれ、メキシコ大統領を務めた。原文は騾馬の馬車の逸話を説明せずに引き、直後の「風の馬車」「シャボン玉の御者」と対にしている。
  60. pomba de jabón——渡された本文は pomba だが、スペイン語で「シャボン玉」は pompa de jabón。綴りの誤りと見て「シャボン玉」と訳した。
  61. soldadesca——兵の群れを貶していう語で、無規律・乱暴の含みがある。「軍隊」と訳したが、原語には中立の soldados にはない侮蔑がこもっている。
  62. pueblos viriles——「雄々しい民」。viril は成人男性の、男らしい、の意。この単位では、直後の関係節「散弾銃と法とによって、みずからの手でみずからを作り上げた」がその内容を与えており、生得の資質ではなく為したことによる資格として使われている。文脈から北のアメリカを指すと読むのが自然だが、原文は一般名詞のままで、特定の国名を挙げていない。
  63. un caudillo hábil——カウディーリョは、軍事的な人望を土台に権力を握る指導者を指すスペイン語圏の語。対応する日本語の一語がないため音写した。「腕利きの」(hábil)という形容が付いており、無能な独裁者ではなく、有能であるがゆえに危険な人物が想定されている。
  64. la prueba de altivez, continua y discreta——altivez は「高慢」とも「気位の高さ」とも訳せる、悪い意味にも良い意味にも傾く語。ここでは continua y discreta(持続的で、慎み深い)という二つの形容が付き、誇示ではない姿勢が言われているため「気位」を採った。「証し」(prueba)は、一度の身振りではなく立て続ける証明である。
  65. decoro de república——decoro は体面、品位。共和国であるという建前そのものが、世界の視線の前で北のアメリカ自身への拘束になる、という論。原文はこれを freno(馬の口にかける手綱、また制動装置)と呼んでいる。
  66. sangre de abono——abono は肥やし、肥料。流された血が、土地を肥やす種類の血でしかない、という言い方である。
  67. las venas que nos dejaron picadas nuestros dueños——picar は刺す、穿つ。dueños は「持ち主・主人」であり、植民地の支配者を指す語として選ばれていると読める。血管を刺したまま残された、つまり血を抜かれ続けた状態を言う。
  68. picota——晒し台。罪人を縛りつけて衆目に晒すために広場に立てられた柱で、命を奪うことではなく公開することを眼目とする刑具である。原文は picota を「持たねばならない」と言うだけで、罰の中身には触れていない。
  69. las razas de librería——librería は本屋、また書棚。「本屋の人種」で、書物のなかにしか存在しない人種、の意。直前の pensadores de lámparas(ランプの思想家たち、すなわち灯火の下で書斎にこもる者)と対をなす。enhebrar(針に糸を通す)と recalentar(冷めた料理を温め直す)という二つの動詞も、独創のない手仕事という含みで選ばれている。
  70. amasijo——粉と水を練り合わせたもの、こね粉。またそれを練る作業そのもの。諸民族が互いに練り込まれてゆく場、という比喩である。
  71. preocupaciones nacionales——preocupación はここでは「心配」ではなく、あらかじめ抱かれた思い込み、すなわち偏見の意(英語の prejudice に近い、当時なお生きていた用法)。「国民的偏見」と訳した。
  72. antipatía de aldea——aldea は村、田舎の小集落。ここでは狭い共同体の内輪意識から出る、理由を問わない嫌悪を指す。「村の反感」と直訳したが、原文は特定の村を言っているのではなく、視野の狭さそのものを形容している。
  73. el pueblo rubio del continente——「大陸の金髪の民」。原文は国名も民族名も挙げず、髪の色だけで名指す。同じ文の後半で自分たちの側を trigueño(小麦色)と呼ぶのと対になっており、対立が色の対比として提示されている。指示対象の同定は「われわれの言語を話さない」という手がかりとともに読者に委ねられている。
  74. ni ve la casa como nosotros la vemos——直訳は「家をわれわれが見るようには見ない」。casa は建物であると同時に家庭・家政・所帯を指す。原文は何を指すか限定しないので、訳も「家」のまま置いた。
  75. lacras políticas——lacra は潰瘍の痕、消えない傷痕、転じて社会の宿痾・悪弊。「政治の瑕」と訳した。原文は que son diferentes de las nuestras という関係節を添えており、相手にも欠陥があること、その欠陥がこちらの欠陥とは別種であることを同時に述べている。この節を落とすと「似ていない」の内容が変わってしまう。
  76. hombres biliosos y trigueños——bilioso は体液説の胆汁質(怒りっぽい、気短な)を指すと同時に、胆汁の色、黄ばんだ顔色を言う語でもある。trigueño は trigo(小麦)から出た語で、小麦の色、褐色の肌。気質と肌色の両方を一度に言う二語であり、日本語で一語に畳めないため「胆汁質で小麦色の肌をした」と分けて訳した。
  77. del Bravo a Magallanes——ブラボー川(リオ・ブラボー。合衆国側の呼称はリオ・グランデで、メキシコとの国境をなす)から、南米大陸南端のマゼラン海峡まで。原文は Magallanes とだけ書き「海峡」の語を省いているので、〔 〕で補った。北端と南端を挙げて全域を言う言い方である。
  78. el Gran Semí——semí(cemí, zemí とも綴る)は、アンティル諸島の先住民タイノの神霊、およびそれを表す像を指す語。スペイン語には征服期の記録を通じて入った。原文はこの神霊をコンドル(アンデス山脈の鳥)の背に乗せており、カリブの神格と南米の鳥とが一つの像に組み合わされている。
  79. regó … la semilla——regar は水を撒く、灌漑する、また撒き散らす。目的語が「種」なので「撒いた」としたが、原語には水を注いで育てる語感が残る。直前の「父祖たちが肥やした(abonado)道」と合わせて、施肥・播種・灌漑という農事の語彙が続いている。

読み終えたあとに

受け継がれた点。まず「われらのアメリカ」という言い方そのものが残った。リオ・グランデ以南の諸国を、地理でも人種でもなく、共通の課題を負った一つの主体として呼ぶ呼び方である。もっともこの文章が古典として読まれるようになるのは20世紀に入ってからで、1891年の掲載時に大きな反響があったわけではない。1898年に合衆国がキューバの独立戦争に介入し、以後カリブと中米への介入を重ねてゆくなかで、終わり近くの北の隣国についての一節が、警告として読み直されていった。

「われらの共和国に世界を接ぎ木せよ。だが幹は……」という一句と、「アメリカの歴史は、インカからこのかたを、隅から隅まで教えられねばならない」という要求は、教育と文化の標語として繰り返し引かれてきた。輸入された制度が現地の条件と噛み合わないという見立ては、20世紀後半の従属理論や、近年の脱植民地の議論——知そのものが植民地的でありうる、という論点——が、それぞれのやり方で受け継いでいる。「人種というものが無い」という断定も、19世紀末が人種科学のもっとも勢いのあった時期であることを思えば、早い。分類としての人種に自然の根拠が無いというところまでは、今日の見方に近い。

否定され、修正された点。最も強く批判されてきたのは、そこから「だから人種の憎しみも無い」へ進む運びである。分類に自然の根拠が無いことと、その分類にもとづく支配が現に働いていることとは、別の事柄だからだ。実際キューバでは、「人種の無い国民」という理想が、黒人が自分たちの政党をつくることを「国民に人種を持ち込む行為」として封じる論拠に転用された。1910年に人種を名のる政党が法で禁じられ、1912年には「有色人独立党」の蜂起が軍によって鎮圧され、多数の黒人が殺されている。マルティの死後の出来事ではあるが、彼の言い方がその材料になったことは動かない。

語られる側の位置も問われてきた。本文のなかで、インディオは「黙したまま」まわりを回って山へ去り、黒人は「ひとり、誰にも知られず」夜に歌う。彼らのために書かれた文章ではあるが、彼らが語る文章ではない。20世紀の先住民運動やアフロ系の思想は、この代弁という構えそのものを問題にした。「雄々しい民は雄々しい民しか愛さない」という語彙、そして「ただ一つの胸と、ただ一つの精神をもって」批判し合えという要求も、同じ問いのなかにある。批判は健康だと言いながら、分裂は許さない。この緊張は解かれないまま本文に残っている。

もう一つ、制度の空白がある。本文の解決は「良き統治者」に託される——自分の国が何でできているかを知る者に。しかし本文自身が、蔑ろにされてきた自然の諸要素に適合することによってこそアメリカの暴君たちは権力へ登った、と書いている。同じ道が良き統治者と暴君の両方に通じていることを、マルティは見ている。見たうえで、その二つを分ける仕組みを示さない。20世紀のラテンアメリカで、この空白は人格的な支配の側からも使われた。「知ることは解くことである」は正しい。だが、知った者を誰が抑えるのか、という問いに、この文章は答えていない。

原文と訳について/出典

底本。Wikisource(es.wikisource.org/wiki/Nuestra_Am%C3%A9rica)から本文を機械的に取得し、そのまま採用しました。段落分割は底本に従います。

次に読むなら

  • ドミンゴ・F・サルミエント『ファクンド——文明と野蛮』(1845) — 本篇が名指しで退ける対句の出どころ。アルゼンチンの草原の首領の生涯を描きながら、田舎を野蛮、都市とヨーロッパを文明の側に置く。反対されている側を読むと、マルティが何を裏返したのかの形が出る。
  • ホセ・マルティ「わが人種」(1893) — 「人種は無い」を、キューバの独立運動という具体的な場でもう一度言い直した短い文章。本篇の終わり近くの断定が、実際の政治の場でどう使われるつもりだったのかがわかる。
  • ホセ・カルロス・マリアテギ『ペルーの現実解釈のための七試論』(1928) — 「国を知ること」を一国について実際にやってみせた本。先住民の問題を、心の持ちようではなく土地の所有の問題として立てる。本篇が空けておいた場所への、一つの答え。